歌垣 - 日本の原風景       

          
 

         
 

歌垣発祥の地を訪ねる「筑波山・香取の海」




  
     国家成立以前の原風景が広がる聖地。各民族興亡史のキースポット「香取の海(霞ヶ浦)」 
古代アジアのU.S.A  
田畑になっているものの、こここそ数千年ものあいだの各民族の交流を可能にした香取の海の要塞であった。その後、ここの祭神は香取の海の狭まった対岸に位置する鹿島神宮の祭神とともに、春日大社の祭神となっている。これらは一万年の民族興亡史の最後に登場し、後、日本国のプラットフォームを築くことになる藤原氏関係氏族がまつったものであろう。1,000を下らない古墳があるという背後の丘陵ではいまも縄文の土器破片が無数にちらばっている畑で、お婆さんが昔かわらず葱を植えている。ダイダラボッチ伝説にある長身の チベット系の顔立ち、歌垣を伝えたミャンマー・タイ・雲南省の面影をのこした人々。あるいは遠くローマからの影響色濃い新羅系の古墳出土品にみられる高句麗、新羅系のひとびと。その子孫たちがいまも各伝承をのこしながら住みつづけている。さらに、この一帯は、良質の鉄の生産ができる特殊な地域であったために、江戸には移動が禁じられていた。そのおかげでいまもって苗字や地名、それぞれの古代民族の顔立ちの博物館となっている。    
左の地図は、七世紀の霞ヶ浦を復元したマップである。利根川は東京湾に注ぎ、香取の海は、広大な湖面を有する一大交易拠点であったことがわかる。        
      *参考 
霞ヶ浦の現代地勢MAP


香取の海は現在の霞ヶ浦。三〜七世紀、新羅、百済、高句麗、隋と交流。沿岸には律令国家成立前から多数の国際都市が存在した。
歌垣の聖地「筑波嶺」の秀峰は、いまでも各地から仰ぐことができる。

 


       

 


  男神に 雲立ちのぼり 時雨ふり 濡れとほるとも 吾帰らめや


 


歌垣の地・筑波山周辺の地誌
(以下1〜6のコラムは、縦書き表記のためサファリとマックは表示不能。エクスプローラ向け特集)



    

           もくじ

1、香取の海   七世紀関東の国際交流

2、東国の経営と戦略・・・勾玉・鉄・薬草の生産

3、コノハナサクヤ姫は溶鉱炉の産鉄を人格神とした

4、地名歴史地理学ことはじめ

5、歌のふるさと。歌垣の筑波の山 特集 (制作中)


6、現在の霞ヶ浦MAP

7、香取神宮

8、鹿島神宮

9、富士山

10、アジアのなかの日本(マップ)

                  
                    




 ■参照 ブック 歌垣 その発祥の背景

 ■参照 ブック 古代香取の海・鹿島・筑波山の地史


   和歌に詠まれた歌垣の聖地

 「筑波山に登る歌一首 并せて短歌」   高橋連虫麻呂

草枕 旅の憂(う)けくを 慰(なぐさ)もる こともありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付(しづく)の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひはり)の 
鳥羽の淡海(あふみ)も
秋風に 白波(しらなみ)立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し 憂けくはやみぬ
             
(万葉集 九巻)

   反歌

筑波嶺の裾廻(み)の田居に秋田刈る妹がり遣らむ
          黄葉(もみち)手折らな



  「筑波嶺に登りてカガヒせし日に作れる歌一首 并せて短歌」

鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に
率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ 
かがふかがひに 人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に 
人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 
禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 
言(こと)もとがむな           (万葉集 九巻)

   反歌

男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れとほるとも
                 吾帰らめや




「鹿島郡の苅野橋(かるののはし)にて、
     大伴卿に別るる歌一首 并せて短歌」  高橋連虫麻呂

ことひ牛の 三宅の潟に さし向ふ 鹿島の崎に さ丹塗りの 
小船を設(ま)け 玉纏(たままき)の 小梶繁貫き 夕潮の 
満ちの湛(とど)みに 御船子(みふなこ)を あどもひ立てて 
呼び立てて 御船出でなば 浜も狭(せ)に 
後(おく)れ並(な)み居て 
こいまろび 恋ひかも居らむ 足ずりし 音のみや泣かむ 
海上(うなかみ)の その津を指して 君が榜ぎゆかば
          
(万葉集九巻)

   反歌

海つ道(ぢ)の凪ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや



  「 付録データ」

■現在の霞ヶ浦。当時、香取の海といった。縄文時代からの
天然の静かな入り江で、 古墳時代からは新羅、高句麗、百済、
隋との交流が深く、沿岸には多くの国際感覚あふれる村や町が、
発展していった。そうした事態は、沿岸の無数に近い古墳群や、
そこから出土した国際感覚あふれる品々をみてみるだけで、
一目瞭然で了解できる 。

江戸時代、利根川を銚子へ流すようになって、ますます
水運は開けたが、最近、農業、工業用水取得のため水門
(堰)で海と香取の海を完全遮断した結果、霞ヶ浦は、
真水となり、それまで大量にとれていた蜆も絶滅するなど
自然環境は激変した。

当時の香取の海の入船、出船を見張るように、細い海路両側
に設けられていたのが、「鹿島神宮」と「香取神宮」である。
ちなみに、鹿島神宮祭神は
甕槌大神(たけみかづちの
おおかみ)。
香取神宮は、経津主大神(ふつぬしのおお
かみ)である。両神とも 共に出雲まで出向いて大国主神
を説得し、日本の国を平定へと導いた
軍神である。この
神が、奈良の春日大社の祭神として迎え入れられ、小高い
丘の上から都を見おろして、ある時は、睨みを利かして、でき
たてばかりの律令国家体制にもとづいた政治、文化を牽制。
今日まで見守ってきたのである。ある意味この
こそが
初から日本建国の立役者なのだ。

■古墳時代から七世紀にかけての香取の海 関連論文募集中

□鹿島郡の苅野橋 神栖町の神之池(ごうのいけ)から流れ出た
  川が海路 (現利根川)に注ぐあたりに架かっていた橋か。
□大伴卿 大伴旅人。□三宅の潟 銚子市三宅町あたりの干潟。
□鹿島の崎 茨城県鹿島郡波崎町か。□海上  下総国海上郡。

 

 

     



         



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参考     

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