西田幾多郎 論文集
(Nishida Kitaro)
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もくじ
善の研究
絶対矛盾的自己同一
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善の研究
西田幾多郎
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序
この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。
この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明(あきらか)にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積(つもり)であるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。
純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有(も)っていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。
思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲(あざけ)らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已(や)むを得ぬことであろう。
明治四十四年一月 京都にて
西田幾多郎
再版の序
この書を出版してから既に十年余の歳月を経たのであるが、この書を書いたのはそれよりもなお幾年の昔であった。京都に来てから読書と思索とに専(もっぱら)なることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富にすることを得た。従ってこの書に対しては飽き足らなく思うようになり、遂にこの書を絶版としようと思うたのである。しかしその後諸方からこの書の出版を求められるのと、余がこの書の如き形において余の思想の全体を述べ得るのはなお幾年の後なるかを思い、再びこの書を世に出すこととした。今度の出版に当りて、務台、世良の両文学士が余の為に字句の訂正と校正との労を執られたのは、余が両君に対し感謝に堪えざる所である。
大正十年一月
西田幾多郎
版を新にするに当って
この書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるようになったので、今度書肆(しょし)において版を新にすることになった。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。私はこの際この書に色々の点において加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない。この書はこの書としてこの儘(まま)として置くの外はない。
今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。然(しか)非難せられても致方(いたしかた)はない。しかしこの書を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は「自覚における直観と反省」に至って、フィヒテの事行(じこう)の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。この書において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。
フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗(うららか)に花薫(かお)り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽(ふけ)ったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有(も)っていた。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この書がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この書の重版を見ようとは思いもよらないことであった。この書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。
昭和十一年十月 著者
善の研究
第一編 純粋経験
第一章 純粋経験
経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那(せつな)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明(あきらか)に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt,Grundriss
der Psychologie, Einl.§I)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已(すで)に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。
右にいったような意味において、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡(すべ)ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。記憶においても、過去の意識が直(ただち)に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。幾何学者が一個の三角を想像しながら、これを以て凡ての三角の代表となすように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである(James,The
Principles of Psychology, Vol. I, Chap. VII)。その外いわゆる意識の縁暈(えんうん)
fringe なるものを直接経験の事実の中に入れて見ると、経験的事実間における種々の関係の意識すらも、感覚、知覚と同じく皆この中に入ってくるのである(James,
A World of PureExperience)。しからば情意の現象は如何(いかん)というに、快、不快の感情が現在意識であることはいうまでもなく、意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれを現在の欲望として感ずるのである。
さて、かく我々に直接であって、凡ての精神現象の原因である純粋経験とは如何なる者であるか、これより少しくその性質を考えて見よう。先ず純粋経験は単純であるか、はた複雑であるかの問題が起ってくる。直下の純粋経験であっても、これが過去の経験の構成せられた者であるとか、また後にてこれを単一なる要素に分析できるとかいう点より見れば、複雑といってもよかろう。しかし純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。たとい過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同一といわれぬ(Stout,
Analytic Psychology, Vol. II, p.45)。これと同じく、現在の意識を分析した時にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見れば凡てが種別的であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのである。次にかかる純粋経験の綜合は何処まで及ぶか。純粋経験の現在は、現在について考うる時、已に現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ(James,
The Principles of Psychology, Vol. I. Chap.
XV)。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。しかし余はこの範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。たとえば一生懸命に断岸を攀(よ)ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続
perceptual train といってもよい(Stout, Manual of Psychology,
p.252)。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起(じゃっき)しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。
純粋経験の直接にして純粋なる所以(ゆえん)は、単一であって、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである。初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であろう。この中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来るのである。しかしいかに精細に分化しても、何処までもその根本的なる体系の形を失うことはない。我々に直接なる具体的意識はいつでもこの形において現われるものである。瞬間的知覚の如き者でも決してこの形に背くことはない。たとえば一目して物の全体を知覚すると思う場合でも、仔細に研究すれば、眼の運動と共に注意は自ら推移して、その全体を知るに至るのである。かく意識の本来は体系的発展であって、この統一が厳密で、意識が自ら発展する間は、我々は純粋経験の立脚地を失わぬのである。この点は知覚的経験においても、表象的経験においても同一である。表象の体系が自ら発展する時は、全体が直に純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったという如きは、その一例である。或は知覚的経験では、注意が外物から支配せられるので、意識の統一とはいえないように思われるかも知れない。しかし、知覚的活動の背後にも、やはり或無意識統一力が働いていなければならぬ。注意はこれに由りて導かれるのである。またこれに反し、表象的経験はいかに統一せられてあっても、必ず主観的所作に属し、純粋の経験とはいわれぬようにも見える。しかし表象的経験であっても、その統一が必然で自ら結合する時には我々はこれを純粋の経験と見なければならぬ、たとえば夢においてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられるのである。元来、経験に内外の別あるのではない、これをして純粋ならしむる者はその統一にあって、種類にあるのではない。表象であっても、感覚と厳密に結合している時には直に一つの経験である。ただ、これが現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意味となるのである。また表象だけであった時には、夢においてのように全く知覚と混同せられるのである。感覚がいつでも経験であると思われるのはそがいつも注意の焦点となり統一の中心となるが為であろう。
今なお少しく精細に意識統一の意義を定め、純粋経験の性質を明にしようと思う。意識の体系というのは凡ての有機物のように、統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現するのである。意識においては、先ずその一端が現われると共に、統一作用は傾向の感情としてこれに伴うている。我々の注意を指導する者はこの作用であって、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、この作用は無意識であるが、しからざる時には別に表象となって意識上に現われ来(きた)り、直に純粋経験の状態を離れるようになるのである。即ち統一作用が働いている間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て衝動的であって、主意説のいうように、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的であるといわねばならぬ。純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活溌なる状態である。勿論選択的意志より見ればかくの如く衝動的意志によりて支配せられるのはかえって意志の束縛であるかも知れぬが、選択的意志とは已に意志が自由を失った状態である故にこれが訓練せられた時にはまた衝動的となるのである。意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現在における現在の活動にあるのである。元来、意志に伴う動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は内面における意識の統覚作用である。而してこの統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるのではない、この統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれが為である(Schopenhauer,
Die Welt als Wille und Vorstellung, §54)。純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかも知れぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者(そのもの)の差別より起るので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。また今余が視覚として現われたる一経験を指して机となし、これについて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験其者の内容に何らの豊富をも加えないのである。要するに経験の意味とか判断とかいうのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者の内容を豊富にするのではない。意味或は判断の中に現われたる者は原経験より抽象せられたるその一部であって、その内容においてはかえってこれよりも貧なる者である。勿論原経験を想起した場合に、前に無意識であった者が後に意識せられるような事もあるが、こは前に注意せざりし部分に注意したまでであって、意味や判断によりて前に無かった者が加えられたのではない。
純粋経験はかく自ら差別相を具えた者とすれば、これに加えられる意味或は判断というのは如何なる者であろうか、またこれと純粋経験との関係は如何であろう。普通では純粋経験が客観的実在に結合せられる時、意味を生じ、判断の形をなすという。しかし純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ。意味とか判断とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合するより起るのである。即ちこれを大なる意識系統の中に統一する統一作用に基づくのである。意味とか判断とかいうのは現在意識と他との関係を示す者で、即ち意識系統の中における現在意識の位置を現わすに過ぎない。例えば或聴覚についてこれを鐘声と判じた時は、ただ過去の経験中においてこれが位置を定めたのである。それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、即ち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現われ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、これが現在意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるようになる。意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態である。しかしこの統一、不統一ということも、よく考えて見ると畢竟(ひっきょう)程度の差である、全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる意識もなかろう。凡ての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいう如き関係の意識の背後には、この関係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ。ヴントのいったように、凡ての判断は複雑なる表象の分析によりて起るのである(Wundt,
Logik, Bd. I, Abs. III, Kap. 1)。また判断が漸々に訓練せられ、その統一が厳密となった時には全く純粋経験の形となるのである、たとえば技芸を習う場合に、始は意識的であった事もこれに熟するに従って無意識となるのである。更に一歩進んで考えて見れば、純粋経験とその意味または判断とは意識の両面を現わす者である、即ち同一物の見方の相違にすぎない。意識は一面において統一性を有すると共に、また一方には分化発展の方面がなければならぬ。しかもジェームスが「意識の流」において説明したように、意識はその現われたる処についているのではなく、含蓄的に他と関係をもっている。現在はいつでも大なる体系の一部と見ることが出来る。いわゆる分化発展なる者は更に大なる統一の作用である。
かく意味という者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかかる場合において自己の範囲を超越するのであろうか。たとえば記憶において過去と関係し意志において未来と関係する時、純粋経験は現在を超越すると考えることが出来るであろうか。心理学者は意識は物でなく事件である、されば時々刻々に新であって、同一の意識が再生することはないという。しかし余はかかる考は純粋経験説の立脚地より見たのではなく、かえって過去は再び還(かえ)らず、未来は未だ来らずというの時間性質より推理したのではないかと思う。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識はどこまでも同一の意識とせねばなるまい。例えば思惟或は意志において一つの目的表象が連続的に働く時、我々はこれを一つの者と見なければならぬように、たといその統一作用が時間上には切れていても、一つの者と考えねばならぬと思う。
第二章 思惟
思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。その最も単一なる形は判断であって、即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。しかし我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或一つの全き表象を分析するのである。たとえば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。判断において主客両表象の結合は、実にこれによりてできるのである。勿論いつでも全き表象が先ず現われて、これより分析が始まるというのではない。先ず主語表象があって、これより一定の方向において種々の聯想(れんそう)を起し、選択の後その一に決定する場合もある。しかしこの場合でも、いよいよこれを決定する時には、先ず主客両表象を含む全き表象が現われて来なければならぬ。つまりこの表象が始から含蓄的に働いていたのが、現実となる所において判断を得るのである。かく判断の本には純粋経験がなければならぬということは、啻(ただ)に事実に対する判断の場合のみではなく、純理的判断というような者においても同様である。たとえば幾何学の公理の如き者でも皆一種の直覚に基づいている。たとい抽象的概念であっても、二つの者を比較し判断するにはその本において統一的或者の経験がなければならぬ。いわゆる思惟の必然性というのはこれより出でくるのである。故に若し前にいったように知覚の如き者のみでなく、関係の意識をも経験と名づくることができるならば、純理的判断の本にも純粋経験の事実があるということができるのである。また推論の結果として生ずる判断について見ても、ロックが論証的知識においても一歩一歩に直覚的証明がなければならぬといったように(Locke,
An Essay concerning Human Understanding, Bk.
IV, Chap. II, 7)連鎖となる各判断の本にはいつも純粋経験の事実がなければならぬ。種々の方面の判断を綜合して断案を下す場合においても、たとい全体を統一する事実的直覚はないにしても、凡(すべ)ての関係を綜合統一する論理的直覚が働いている(いわゆる思想の三法則の如きも一種の内面的直覚である)。たとえば種々の観察より推して地球が動いていなければならぬというのも、つまり一種の直覚に基づける論理法に由りて判断するのである。
従来伝統的に思惟と純粋経験とは全く類を異にせる精神作用であると考えられている。しかし今凡ての独断を棄てて直接に考え、ジェームスが「純粋経験の世界」と題せる小論文にいったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えて見ると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができると思う。知覚と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より来る末端神経の刺戟に基づき、一は脳の皮質の刺戟に基づくというように区別ができ、また内から見ても、我々は通常知覚と心像とを混同することはない。しかし純心理的に考えて、どこまでも厳密に区別ができるかというに、そは頗(すこぶ)る困難である、つまり強度の差とかその外種々の関係の異なるより来るので、絶対的区別はないのである(夢、幻覚等において我々はしばしば心像を知覚と混同することがある)。原始的意識にかかる区別があったのではなく、ただ種々の関係より区別せられるようになったのであろう。また一見、知覚は単一であって、思惟は複雑なる過程であるように見えるが、知覚といっても必ずしも単一ではない、知覚も構成的作用である。思惟といってもその統一の方面より見れば一の作用である。或統一者の発展と見ることができる。
かく思惟と知覚的経験の如き者とを同一種と考えることについては種々の異論もあるであろうから、余はこれより少しくこれらの点について論じて見ようと思う。普通には知覚的経験の如きは所動的で、その作用が凡て無意識であり、思惟はこれに反し能動的でその作用が凡て意識的であると考えられている。しかしかように明(あきらか)なる区別はどこにあるであろうか。思惟であっても、そが自由に活動し発展する時には殆ど無意識的注意の下において行われるのである、意識的となるのはかえってこの進行が妨げられた場合である。思惟を進行せしむる者は我々の随意作用ではない、思惟は己(おのれ)自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象即ち問題に純一となった時、更に適当にいえば自己をその中に没した時、始めて思惟の活動を見るのである。思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのである。我々の意志に従うのではない。対象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といえばいいうるであろうが、この点においては知覚も同一であろうと思う、我々は見んと欲する物に自由に注意を向けて見ることができる。勿論(もちろん)思惟においては知覚の場合よりも統一が寛(ゆるやか)であり、その推移が意識的であるように思われるので、前にこれを以てその特徴として置いたが、厳密に考えて見るとこの区別も相対的であって、思惟においても一表象より一表象に推移する瞬間においては無意識である、統一作用が現実に働きつつある間は無意識でなければならぬ。これを対象として意識する時には、已(すで)にその作用は過去に属するのである。かく思惟の統一作用は全然意志の外にあるのであるが、ただ我々が或問題について考える時、種々の方向があってその取捨が自由であるように思われるのである。しかしかかる現象は知覚の場合にもないのではない。少しく複雑なる知覚においては如何に注意を向けるかは自由である、たとえば一幀の画を見るにしても、形に注意することもできまた色彩に注意することもできる。その外、知覚では我々は外から動かされ、思惟では内より動くなどいうが、内外の区別というも要するに相対的にすぎぬ、ただ思惟の材料たる心像は比較的変動し易く自由であるからかく見えるのである。
次に普通には知覚は具象的事実の意識であり、思惟は抽象的関係の意識であって、両者全然その類を異にする者のように考えられている。しかし純粋に抽象的関係というような者は我々はこれを意識することはできぬ、思惟の運行も或具象的心像を藉(か)りて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない。たとえば三角形の総(す)べての角の和は二直角であるということを証明するにも、或特殊なる三角形の心像に由らねばならぬのである、思惟は心像を離れた独立の意識ではない、これに伴う一現象である。ゴール
Gore は、心像とその意味との関係は刺戟とその反応との関係と同一であると説いている(Dewey,
Studies in Logical Theory)。思惟は心像に対する意識の反応であって、而(しか)してまた心像は思惟の端緒である、思惟と心像とは別物ではない。いかなる心像であっても決して独立ではない、必ず全意識と何らかの関係において現われる、而してこの方面が思惟における関係の意識である、純粋なる思惟と思われる者も、ただこの方面の著しき者にすぎないのである。さて心像と思惟との関係を右の如く考えた所で、知覚においてはかくの如き思惟的方面がないかというに、決してそうではない。凡ての意識現象のように知覚も一の体系的作用である、知覚においてはその反応はかえって顕著であって意志となり動作となって現われるのであるが、心像においては単に思惟として内面的関係に止まるのである。されば事実上の意識には知覚と心像との区別はあるが、具象と抽象との別はない、思惟は心像間の事実の意識である、而して知覚と心像との別も前にいったように厳密なる純粋経験の立脚地よりしては、どこまでも区別することはできないのである。
以上は心理学上より見て、思惟も純粋経験の一種であることを論じたのであるが、思惟は単に個人的意識の上の事実ではなくして客観的意味を有(も)っている、思惟の本領とする所は真理を現わすにあるのである、自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真妄(しんもう)ということはないが、思惟には真妄の別があるともいえる。これらの点を明にするにはいわゆる客観、実在、真理等の意義を詳論する必要はあるが、極めて批評的に考えて見ると、純粋経験の事実の外に実在なく、これらの性質も心理的に説明ができると思う。前にもいったように、意識の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む体系に由りて定まってくる。同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのである。たとえば意味の意識である或心像であっても、他に関係なく唯それだけとして見た時には、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識なる或知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有っている、ただ多くの場合にその意味が無意識であるのである。然らば如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。この考より見れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことがある。即ち或体系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、これに反した時が誤ったのである。勿論これらの体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後における体系は多く実践的であるが、思惟の体系は純知識的であるというような区別もできるであろう。しかし余は知識の究竟的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んでいるといえると思う。この事は後に意志の処に論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。また同じ知識的作用であっても、聯想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるともいえる。しかしかかる区別も我々の経験の範囲を強いて個人的と限るより起るので、純粋経験の前にはかえって個人なる者のないことに考え到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。
これまで思惟と純粋経験とを比較し、普通にはこの二者が全く類を異にすると思うている点も、深く考えて見ると一致の点を見出し得ることを述べたのであるが、今少しく思惟の起源および帰趨(きすう)について論じ、更に右二者の関係を明にしようと思う。我々の意識の原始的状態または発達せる意識でもその直接の状態は、いつでも純粋経験の状態であることは誰しも許す所であろう。反省的思惟の作用は次位的にこれより生じた者である。しからば何故に此(かく)の如き作用が生ずるのであるかというに、前にいったように意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然の状態である、しかもその発展の行路において種々なる体系の矛盾衝突が起ってくる、反省的思惟はこの場合に現われるのである。しかし一面より見て斯(かく)の如く矛盾衝突するものも、他面より見れば直(ただち)に一層大なる体系的発展の端緒である。換言すれば大なる統一の未完の状態ともいうべき者である。たとえば行為においてもまた知識においても、我々の経験が複雑となり種々の聯想が現われ、その自然の行路を妨げた時我々は反省的となる。この矛盾衝突の裏面には暗に統一の可能を意味しているのであって、決意或は解決の時已に大なる統一の端緒が成立するのである。しかし我々は決して単に決意または解決という如き内面的統一の状態にのみ止まるのではない、決意はこれに実行の伴うは言をまたず、思想でも必ず何らかの実践的意味をもっている、思想は必ず実行に現われねばならぬ、即ち純粋経験の統一に達せねばならぬ。されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである。要するに思惟は大なる意識体系の発展実現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住してこれを見れば、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである。たとえば我々が或目的について苦慮する時、目的なる統一的意識はいつでもその背後に直覚的事実として働いているのである。それで思惟といっても別に純粋経験とは異なった内容も形式も有っておらぬ、ただその深く大ではあるが未完の状態である。他面より見れば真の純粋経験とは単に所動的ではなく、かえって構成的で一般的方面を有っている、即ち思惟を含んでいるといってよい。
純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にした者である。かつてヘーゲルが力を極めて主張したように、思惟の本質は抽象的なるにあるのでなく、かえってその具体的なるにあるとすれば、余が上にいった意味の純粋経験と殆ど同一となってくる、純粋経験は直に思惟であるといってもよい。具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは普通にいうように類似の性質を抽象した者ではない、具体的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといっている(Hegel,
Wissenschaft der Logik, III, S. 37)。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性その者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とはいわゆる一般なる者が己自身を実現するのである。感覚或は聯想の如き者においてすら、その背後に潜在的統一作用が働いている。これに反し思惟においても統一が働く瞬間には、前にいったようにその統一自身は無意識である。ただ統一が抽象せられ、対象化せられた時、別の意識となって現われる、しかしこの時は已に統一の作用を失っているのである。純粋経験とは単一とか所動的とかいう意味ならば思惟と相反するでもあろうが、経験とはありのままを知るという意ならば、単一とか所動的とかいうことはかえって純粋経験の状態とはいわれない、真に直接なる状態は構成的で能動的である。
我々は普通に思惟に由りて一般的なる者を知り、経験に由りて個体的なる者を知ると思うている。しかし個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後における潜勢力である、個体の中にありてこれを発展せしむる力である、たとえば植物の種子の如き者である。もし個体より抽象せられた他の特殊と対立する如き者ならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、かかる場合では一般は特殊の上に位するのではなく、これと同列にあるのである、たとえば、色ある三角形について、三角形より見れば色は特殊であるであろうが、色より見れば三角は特殊である。かくの如き抽象的で無力なる一般ならば推理や綜合の本となることはできぬ。それで思惟の活動において統一の本たる真に一般なる者は、個体的現実とその内容を同じうする潜勢力でなければならぬ、ただその含蓄的なると顕現的なるとに由りて異なっているのである。個体とは一般的なる者の限定せられたのである。個体と一般との関係を斯(かく)の如く考えると、論理的にも思惟と経験との差別がなくなってくる。我々が現在の個体的経験といっている者も、その実は発展の途中にある者と見ることができる、即ちなお精細に限定せらるべき潜勢力を有っているのである。たとえば我々の感覚の如き者でもなお分化発展の余地があるのであろう、この点より見てなお一般的となすこともできる。これに反し一般的の者でも、発展をその処にかぎって見れば、個体的ということもできるであろう。普通には空間時間の上において限定せられた者をのみ個体的と称えている、しかしかかる限定は単に外面的である、真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、普通に感覚或は知覚といっているような者は極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的といいうるであろう。凡て空間時間の上より限定せられた単に物質的なる者を以て、個体的となすのはその根柢において唯物論的独断があるであろうと思う。純粋経験の立脚地より見れば、経験を比較するにはその内容を以てすべきものである。時間空間という如き者もかかる内容に基づいてこれを統一する一つの形式にすぎないのである。或はまた感覚的印象の強く明なることと、その情意と密接の関係をもつことなどがこれを個体的と思わしめる一原因でもあろうが、いわゆる思想の如きも決して情意に関係がないのではない。強く情意を動かす者が特に個体的と考えられるのは、情意は知識に比して我々の目的その者であり、発展の極致に近いからであると思う。
これを要するに思惟と経験とは同一であって、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はないと思う。しかし余はこれが為に思惟は単に個人的で主観的であるというのではない、前にもいったように純粋経験は個人の上に超越することができる。かくいえば甚だ異様に聞えるであろうが、経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。
第三章 意志
余は今純粋経験の立脚地より意志の性質を論じ、知と意との関係を明(あきらか)にしようと思う。意志は多くの場合において動作を目的としまたこれを伴うのであるが、意志は精神現象であって外界の動作とは自ら別物である。動作は必ずしも意志の要件ではない、或外界の事情のため動作が起らなかったにしても、意志は意志であったのである。心理学者のいうように、我々が運動を意志するにはただ過去の記憶を想起すれば足りる、即ちこれに注意を向けさえすればよい、運動は自らこれに伴うのである、而(しか)してこの運動その者も純粋経験より見れば運動感覚の連続にすぎない。凡(すべ)て意志の目的という者も直接にこれを見れば、やはり意識内の事実である、我々はいつでも自己の状態を意志するのである、意志には内面的と外面的との区別はないのである。
意志といえば何か特別なる力があるように思われているが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、或事を意志するというのは即ちこれに注意を向けることである。この事は最も明にいわゆる無意的行為の如き者において見ることができる、前にいった知覚の連続のような場合でも、注意の推移と意志の進行とが全く一致するのである。勿論注意の状態は意志の場合に限った訳ではなく、その範囲が広いようであるが、普通に意志というのは運動表象の体系に対する注意の状態である、換言すればこの体系が意識を占領し、我々がこれに純一となった場合をいうのである。或は単に一表象に注意するのとこれを意志の目的として見るのと違うように思うでもあろうが、そはその表象の属する体系の差異である。凡て意識は体系的であって、表象も決して孤独では起らない、必ず何かの体系に属している。同一の表象であっても、その属する体系に由りて知識的対象ともなりまた意志の目的ともなるのである。たとえば、一杯の水を想起するにしても、単に外界の事情と聯想する時は知識的対象であるが、自己の運動と聯想せられた時は意志の目的となるのである。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」といったように、いかなる者も自己運動の表象の系統に入り来らざる者は意志の目的とはならぬのである。我々の欲求は凡て過去の経験の想起に因りて成立することは明なる事実である。その特徴たる強き感情と緊張の感覚とは、前者は運動表象の体系が我々に取りて最も強き生活本能に基づくのと、後者は運動に伴う筋覚に外ならぬのである。また単に運動を想起するのみではまだ直(ただち)にこれを意志するとまでいうことはできぬようであるが、そは未だ運動表象が全意識を占領せぬ故である、真にこれに純一となれば直に意志の決行となるのである。
然らば運動表象の体系と知識表象の体系と如何なる差異があるであろうか。意識発達の始に遡(さかのぼ)りて見るとかくの如き区別があるのではない、我々の有機体は元来生命保存のために種々の運動をなすように作られている、意識はかくの如き本能的動作に副うて発生するので、知覚的なるよりもむしろ衝動的なるのがその原始的状態である。然るに経験の積むに従い種々の聯想ができるので、遂に知覚中枢を本とするのと運動中枢を本とするのと両種の体系ができるようになる。しかしいかに両体系が分化したといっても、全然別種の者となるのではない、純知識であっても何処かに実践的意味を有(も)っており、純意志であっても何らかの知識に基づいている。具象的精神現象は必ず両方面を具えている、知識と意志とは同一現象をその著しき方面に由りて区別したのにすぎぬのである、つまり知覚は一種の衝動的意志であり、意志は一種の想起である。しかのみならず、記憶表象の純知識的なる者であっても、必ず多少の実践的意味を有っておらぬことはない、これに反し偶然に起るように思われる意志であっても、何かの刺戟に基づいているのである。また意志は多く内より目的を以て進行するというが、知覚であっても予(あらかじ)め目的を定めてこれに感官を向ける事もできる、特に思惟の如きは尽(ことごと)く有意的であるといってもよい。これに反し衝動的意志の如き者は全く受動的である。右の如く考えて見ると、運動表象と知識表象とは全く類を異にせるものではなく、意志と知識との区別も単に相対的であるといわねばならぬようになる。意志の特徴である苦楽の情、緊張の感も、その程度は弱くとも、知的作用に必ず伴うている。知識も主観的に見れば、内面的潜勢力の発展とも見ることができる、かつていったように、意志も知識も潜在的或者の体系的発展と見做(みな)すことができるのである。勿論(もちろん)主観と客観とを分けて考えて見れば、知識においては我々は主観を客観に従えるが、意志においては客観を主観に従えるという区別もあるであろう。これを詳論するには主客の性質および関係を明にする必要もあるであろうが、余はこの点においても知と意との間に共通の点があるのであろうと思う。知識的作用においては、我々は予め一の仮定を抱きこれを事実に照らして見るのである、いかに経験的研究であっても必ず先ず仮定を有っていなければならぬ、而してこの仮定がいわゆる客観と一致する時、これを真理と信ずるのである、即ち真理を知り得たのである。意志的動作においても、我は一の欲求を有っていても、直にこれが意志の決行となるのではない、これを客観的事実に鑒(かんが)み、その適当にして可能なるを知った時、始めて実行に移るのである。前者において我々は全然主観を客観に従えるが、後者においては客観を主観に従えるということができるであろうか。欲求は能(よ)く客観と一致することに因りてのみ実現することができる、意志は客観より遠ざかれば遠ざかる程無効となり、これに近づけば近づくほど有効となるのである。我々が現実と離れた高き目的を実行しようと思う場合には種々の手段を考え、これに因りて一歩一歩と進まねばならぬ、而してかく手段を考えるのは即ち客観に調和を求めるのである、これに従うのである、若し到底その手段を見出すことができぬならば、目的その者を変更するより外はなかろう。これに反し目的が極めて現実に近かった時には、飲食起臥の習慣的行為の如く、欲求は直に実行となるのである、かかる場合には主観より働くのではなく、かえって客観より働くとも見らるるのである。
かく意志において全然客観を主観に従えるといえないように、知識において主観を客観に従えるとはいわれぬ。自己の思想が客観的真理となった時、即ちそが実在の法則であって実在はこれに由りて動くことを知った時、我は我理想を実現し得たということができぬであろうか。思惟も一種の統覚作用であって、知識的要求に基づく内面的意志である。我々が思惟の目的を達し得たのは一種の意志実現ではなかろうか。ただ両者の異なるのは、一は自己の理想に従うて客観的事実を変更し、一は客観的事実に従うて自己の理想を変更するにあるのである。即ち一は作為し一は見出すといってよかろう、真理は我々の作為すべき者ではなく、かえってこれに従うて思惟すべき者であるというのである。しかし我々が真理といっている者は果して全く主観を離れて存する者であろうか。純粋経験の立脚地より見れば、主観を離れた客観という者はない。真理とは我々の経験的事実を統一した者である、最も有力にして統括的なる表象の体系が客観的真理である。真理を知るとかこれに従うとかいうのは、自己の経験を統一する謂(いい)である、小なる統一より大なる統一にすすむのである。而して我々の真正な自己はこの統一作用その者であるとすれば、真理を知るというのは大なる自己に従うのである。大なる自己の実現である(ヘーゲルのいったように、凡ての学問の目的は、精神が天地間の万物において己(おのれ)自身を知るにあるのである)。知識の深遠となるに従い自己の活動が大きくなる、これまで非自己であった者も自己の体系の中に入ってくるようになる。我々はいつでも個人的要求を中心として考えるから、知識において所動的であるように感ぜられるのであるが、若しこの意識的中心を変じてこれをいわゆる理性的要求に置くならば、我々は知識においても能動的となるのである。スピノーザのいったように知は力である。我々は常に過去の運動表象の喚起に由りて自由に身体を動かし得ると信じている。しかし我々の身体も物体である、この点より見ては他の物体と変りはない。視覚にて外物の変化を知るのも、筋覚にて自己の身体の運動を感ずるのも同一である、外界といえば両者共に外界である。しかるに何故に他物とは違って、自己の身体だけは自己が自由に支配することができると考え得るのであろうか。我々は普通に運動表象をば、一方において我々の心像であると共に一方において外界の運動を起す原因となると考えているが、純粋経験の立脚地より見れば、運動表象に由りて身体の運動を起すというも、或予期的運動表象に直に運動感覚を伴うというにすぎない、この点においては凡て予期せられた外界の変化が実現せられるのと同一である。実際、原始的意識の状態では自己の身体の運動と外物の運動とは同一であったであろうと思う、ただ経験の進むにつれてこの二者が分化したのである。即ち種々なる約束の下に起る者が外界の変化と見られ、予期的表象にすぐに従う者が自己の運動と考えられるようになったのである。しかし固(もと)よりこの区別は絶対的でないのであるから、自己の運動であっても少しく複雑なる者は予期的表象に直に従うことはできぬ、この場合においては意志の作用は著しく知識の作用に近づいてくるのである。要するに、外界の変化といっている者も、その実は我々の意識界即ち純粋経験内の変化であり、また約束の有無ということも程度の差であるとすれば、知識的実現と意志的実現とは畢竟(ひっきょう)同一性質の者となってくる。或は意志的運動においては予期的表象は単にこれに先だつのでなく、其者(そのもの)が直に運動の原因となるのであるが、外界の変化においては知識的なる予期表象其者が変化の原因となるのではないというかも知れぬが、元来、因果とは意識現象の不変的連続である、仮に意識を離れて全然独立の外界なる者があるとするならば、意志においても意識的なる予期表象が直に外界における運動の原因とはいわれまい、単に両現象が平行するというまででなければならぬ。かく見れば意志的予期表象の運動に対する関係は知識的予期表象の外界に対する関係と同一になる。実際、意志的予期表象と身体の運動とは必ずしも相伴うのではない、やはり或約束の下に伴うのである。
また我々は普通に意志は自由であるといっている。しかしいわゆる自由とは如何なることをいうのであろうか。元来我々の欲求は我々に与えられた者であって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の真意義である。而してこの意味においての自由は単に意識の体系的発展と同意義であって、知識においても同一の場合には自由であるということができる。我々はいかなる事をも自由に欲することができるように思うが、そは単に可能であるという迄である、実際の欲求はその時に与えられるのである、或一の動機が発展する場合には次の欲求を予知することができるかも知れぬが、然らざれば次の瞬間に自己が何を欲求するかこれを予知することもできぬ。要するに我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機が即ち我である。普通には欲求の外に超然たる自己があって自由に動機を決定するようにいうのであるが、斯(かく)の如き神秘力のないのはいうまでもなく、若しかかる超然的自己の決定が存するならば、それは偶然の決定であって、自由の決定とは思われぬのである。
上来論じ来(きた)ったように、意志と知識との間には絶対的区別のあるのではなく、そのいわゆる区別とは多く外より与えられた独断にすぎないのである。純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、共に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極致が真理であり兼ねてまた実行であるのである。かつていった知覚の連続のような場合では、未だ知と意と分れておらぬ、真に知即行である。ただ意識の発展につれて、一方より見れば種々なる体系の衝突の為、一方より見れば更に大なる統一に進む為、理想と事実との区別ができ、主観界と客観界とが分れてくる、そこで主より客に行くのが意で、客より主に来るのが知であるというような考も出てくる。知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる状態を失った場合に生ずるのである。意志における欲求も知識における思想も共に理想が事実と離れた不統一の状態である。思想というのも我々が客観的事実に対する一種の要求である、いわゆる真理とは事実に合うた実現し得べき思想ということであろう。この点より見れば事実に合うた実現し得べき欲求と同一といってよい、ただ前者は一般的で、後者は個人的なるの差があるのである。それで意志の実現とか真理の極致とかいうのはこの不統一の状態から純粋経験の統一の状態に達するの謂である。意志の実現をかく考えるのは明であるが、真理をもかく考えるには多少の説明を要するであろう。如何なる者が真理であるかというについては種々の議論もあるであろうが、余は最も具体的なる経験の事実に近づいた者が真理であると思う。往々真理は一般的であるという、もしその意味が単に抽象的共通ということであれば、かかる者はかえって真理と遠ざかったものである。真理の極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実その者でなければならぬ。この事実が凡ての真理の本であって、いわゆる真理とはこれより抽象せられ、構成せられた者である。真理は統一にあるというが、その統一とは抽象概念の統一をいうのではない、真の統一はこの直接の事実にあるのである。完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語にいい現わすべき者ではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。
凡て真理の標準は外にあるのではなく、かえって我々の純粋経験の状態にあるのである、真理を知るというのはこの状態に一致するのである。数学などのような抽象的学問といわれている者でも、その基礎たる原理は我々の直覚即ち直接経験にあるのである。経験には種々の階級がある、かつていったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えて見ると、数学的直覚の如き者も一種の経験である。かく種々の直接経験があるならば、何に由りてその真偽を定むるかの疑も起るであろうが、そは二つの経験が第三の経験の中に包容せられた時、この経験に由りてこれを決することができる。とにかく直接経験の状態において、主客相没し、天地唯一の現実、疑わんと欲して疑う能わざる処に真理の確信があるのである。一方において意志の活動ということを考えて見るとやはり此(かく)の如き直接経験の現前即ち意識統一の成立をいうにすぎぬ。一の欲求の現前は単に表象の現前と同じく直接経験の事実である。種々の欲求の争の後一つの決断ができたのは、種々思慮の後一の判断ができたように、一の内面約統一が成立したのである。意志が外界に実現されたという時は、学問上自己の考が実験に由りて証明せられた場合のように、主客の別を打破した最も統一せる直接経験の現前したのである。或は意識内の統一は自由であるが、外界との統一は自然に従わねばならぬというが、内界の統一であっても自由ではない、統一は凡て我々に与えられる者である、純粋経験より見れば内外などの区別も相対的である。意志の活動とは単に希望の状態ではない、希望は意識不統一の状態であって、かえって意志の実現が妨げられた場合である、ただ意識統一が意志活動の状態である。たとい現実が自己の真実の希望に反していても、現実に満足しこれに純一なる時は、現実が意志の実現である。これに反し、いかに完備した境遇であっても、他に種々の希望があって現実が不統一の状態であった時には、意志が妨げられているのである。意志の活動と否とは純一と不純一、即ち統一と不統一とに関するのである。
例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である。これについて種々の聯想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が対象視せられた時、前意識は単に知識的となる。これに反し、このペンは文字を書くべきものだというような聯想が起る。この聯想がなお前意識の縁暈(えんうん)としてこれに附属している時は知識であるが、この聯想的意識其者(そのもの)が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの聯想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである。何でも現実における意識体系の発展する状態を意志の作用というのである。思惟の場合でも、或問題に注意を集中してこれが解決を求むる所は意志である。これに反し茶をのみ酒をのむというようなことでも、これだけの現実ならば意志であるが、その味をためすという意識が出て来てこれが中心となるならば知識となる、而してこのためすという意識其者がこの場合において意志である。意志というのは普通の知識という者よりも一層根本的なる意識体系であって統一の中心となる者である。知と意との区別は意識の内容にあるのではなく、その体系内の地位に由りて定まってくるのであると思う。
理性と欲求とは一見相衝突するようであるが、その実は両者同一の性質を有し、ただ大小深浅の差あるのみであると思う。我々が理性の要求といっている者は更に大なる統一の要求である、即ち個人を超越せる一般的意識体系の要求であって、かえって大なる超個人的意志の発現とも見ることができる。意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、個人とは意識の中の一小体系にすぎない。我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、もし、更に大なる意識体系を中軸として考えて見れば、この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意志実現である。たとえば熱心なる宗教家、学者、美術家の如き者である。「かくなければならぬ」という理性の法則と、単に「余はかく欲する」という意志の傾向とは全く相異なって見えるが、深く考えて見るとその根柢を同じうする者であると思う。凡て理性とか法則とかいっている者の根本には意志の統一作用が働いている、シラーなどが論じているように、公理
axiom というような者でも元来実用上より発達した者であって、その発生の方法においては単なる我々の希望と異なっておらぬ(Sturt,
Personal Idealism, p. 92)。翻(ひるがえ)って我々の意志の傾向を見るに、無法則のようではあるが、自ら必然の法則に支配せられているのである(個人的意識の統一である)。右の二者は共に意識体系の発展の法則であって、ただその効力の範囲を異にするのみである。また或は意志は盲目であるというので理性と区別する人もあるが、何ごとにせよ我々に直接の事実であるものは説明できぬ、理性であってもその根本である直覚的原理の説明はできぬ。説明とは一の体系の中に他を包容し得るの謂である。統一の中軸となる者は説明はできぬ、とにかくその場合は盲目である。
第四章 知的直観
余がここに知的直観 intellektuelle Anschauung というのはいわゆる理想的なる、普通に経験以上といっている者の直覚である。弁証的に知るべき者を直覚するのである、たとえば美術家や宗教家の直覚の如き者をいうのである。直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においては遙にこれより豊富深遠なるものである。
知的直観ということは或人には一種特別の神秘的能力のように思われ、また或人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかし余はこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる。普通の知覚であっても、前にいったように、決して単純ではない、必ず構成的である、理想的要素を含んでいる。余が現在に見ている物は現在の儘(まま)を見ているのではない、過去の経験の力に由りて説明的に見ているのである。この理想的要素は単に外より加えられた聯想というようなものではなく、知覚其者(そのもの)を構成する要素となっている、知覚其者がこれに由りて変化せられるのである。この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる。各人の天賦により、また同一の人でもその経験の進歩に由りて異なってくるのである。始は経験のできなかった事または弁証的に漸くに知り得た事も、経験の進むに従い直覚的事実として現われてくる、この範囲は自己の現在の経験を標準として限定することはできぬ、自分ができぬから人もできぬということはない。モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、たとえば我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができる宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。或人の超凡的直覚が単に空想であるか、将(は)た真に実在の直覚であるかは他との関係即ちその効果如何(いかん)に由って定まってくる。直接経験より見れば、空想も真の直覚も同一の性質をもっている、ただその統一の範囲において大小の別あるのみである。
或人は知的直観がその時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直視する点において普通の知覚とその類を異にすると考えている。しかし前にもいったように、厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越せる直覚に由りて成立するものである。また実在を直視するというも、凡(すべ)て直接経験の状態においては主客の区別はない、実在と面々相対するのである、独り知的直観の場合にのみ限った訳ではない、シェルリングの同一
Identitat[#「a」はウムラウト(¨)付き] は直接経験の状態である。主客の別は経験の統一を失った場合に起る相対的形式である、これを互に独立せる実在と見做(みな)すのは独断にすぎないのである。ショーペンハウエルの意志なき純粋直覚というものも天才の特殊なる能力ではない、かえって我々の最も自然にして統一せる意識状態である、天真爛漫なる嬰児の直覚は凡てこの種に属するのである。それで知的直観とは我々の純粋経験の状態を一層深く大きくした者にすぎない、即ち意識体系の発展上における大なる統一の発現をいうのである。学者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を得るのも、美術家の新理想を得るのも、宗教家の新覚醒を得るのも凡てかかる統一の発現に基づくのである(故に凡て神秘的直覚に基づくのである)。我々の意識が単に感官的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態に止まるのであろう、しかし理想的なる精神は無限の統一を求める、而してこの統一はいわゆる知的直観の形において与えられたのである。知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である。
普通の知覚が単に受動的と考えられているように、知的直観もまた単に受動的観照の状態と考えられている。しかし真の知的直観とは純粋経験における統一作用其者である、生命の捕捉である、即ち技術の骨(こつ)の如き者、一層深くいえば美術の精神の如き者がそれである。たとえば画家の興来り筆自ら動くように複雑なる作用の背後に統一的或者が働いている。その変化は無意識の変化ではない、一つの物の発展完成である。この一物の会得が知的直観であって、而もかかる直覚は独り高尚なる芸術の場合のみではなく、すべて我々の熟練せる行動においても見る所の極めて普通の現象である。普通の心理学は単に習慣であるとか、有機的作用であるとかいうであろうが、純粋経験説の立場より見れば、こは実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘(ぼう)じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。知的直観といえば主観的作用のように聞えるのであるが、その実は主客を超越した状態である、主客の対立はむしろこの統一に由りて成立するといってよい、芸術の神来の如きものは皆この境に達するのである。また知的直観とは事実を離れたる抽象的一般性の直覚をいうのではない。画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない。かつていったように、真の一般と個性とは相反する者でない、個性的限定に由りてかえって真の一般を現わすことができる、芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わすがためである。
知的直観を右の如く考えれば、思惟の根柢には知的直観なる者の横(よこた)わっていることは明(あきらか)である。思惟は一種の体系である、体系の根柢には統一の直覚がなければならぬ。これを小にしては、ジェームスが「意識の流」においていっているように、「骨牌(カルタ)の一束が机上にある」という意識において、主語が意識せられた時客語が暗に含まれており、客語が意識せられた時主語が暗に含まれている、つまり根柢に一つの直覚が働いているのである。余はこの統一的直覚は技術の骨と同一性質のものであると考える。またこれを大にしては、プラトー、スピノーザの哲学の如き凡て偉大なる思想の背後には大なる直覚が働いているのである。思想において天才の直覚というも、普通の思惟というもただ量において異なるので、質において異なるのではない、前者は新にして深遠なる統一の直覚にすぎないのである。凡ての関係の本には直覚がある、関係はこれに由りて成立するのである。我々がいかに縦横に思想を馳せるとも、根本的直覚を超出することはできぬ、思想はこの上に成立するのである。思想はどこまでも説明のできるものではない、その根柢には説明し得べからざる直覚がある、凡ての証明はこの上に築き上げられるのである。思想の根柢にはいつでも神秘的或者が潜んでいるのである、幾何学の公理の如きものすらこの一種である。往々思想は説明ができるが、直覚は説明ができぬというが、説明というのは更に根本的なる直覚に摂帰し得るという意味にすぎないのである。この思想の根本的直覚なる者は一方において説明の根柢となると同時に、単に静学的なる思想の形式ではなく一方において思惟の力となる者である。
思惟の根柢に知的直観があるように、意志の根柢にも知的直観がある。我々が或事を意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚に由りて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根柢には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。我々が意志において自己が活動すると思うのはこの直覚あるの故である。自己といって別にあるのではない。真の自己とはこの統一的直覚をいうのである。それで古人も終日なして而も行(こう)せずといったが、もしこの直覚より見れば動中に静あり、為(な)して而も為さずということができる。またかく知と意とを超越し、而もこの二者の根本となる直覚において、知と意との合一を見出すこともできる。
真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根柢に横われる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。故にいかなる論理の刃もこれに向うことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、凡ての真理および満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれに由りて成立するのである。
第二編 実在
第一章 考究の出立点
世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。たとえば高尚なる精神的要求を持っている人は唯物論に満足ができず、唯物論を信じている人は、いつしか高尚なる精神的要求に疑を抱くようになる。元来真理は一である。知識においての真理は直(ただち)に実践上の真理であり、実践上の真理は直に知識においての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むるようになる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明(あきらか)にせねばならぬ。
哲学と宗教と最も能く一致したのは印度(インド)の哲学、宗教である。印度の哲学、宗教では知即善で迷即悪である。宇宙の本体はブラハマン[#「ハ」は小書き]
Brahman でブラハマン[#「ハ」は小書き]は吾人の心即アートマン Atman である。このブラハマン[#「ハ」は小書き]即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。基督(キリスト)教は始め全く実践的であったが、知識的満足を求むる人心の要求は抑え難く、遂に中世の基督教哲学なる者が発達した。シナの道徳には哲学的方面の発達が甚だ乏しいが、宋代以後の思想は頗(すこぶ)るこの傾向がある。これらの事実は皆人心の根柢には知識と情意との一致を求むる深き要求のある事を証明するのである。欧州の思想の発達について見ても、古代の哲学でソクラテース、プラトーを始とし教訓の目的が主となっている。近代において知識の方が特に長足の進歩をなすと共に知識と情意との統一が困難になり、この両方面が相分れるような傾向ができた。しかしこれは人心本来の要求に合うた者ではない。
今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、凡(すべ)ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があって色々の働をなすように考えている。またこの考が凡ての人の行為の基礎ともなっている。しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求に由りて仮定したまでで、いくらも疑えば疑いうる余地があるのである。その外科学というような者も、何か仮定的知識の上に築き上げられた者で、実在の最深なる説明を目的とした者ではない。またこれを目的としている哲学の中にも充分に批判的でなく、在来の仮定を基礎として深く疑わない者が多い。
物心の独立的存在ということが直覚的事実であるかのように考えられているが、少しく反省して見ると直にそのしからざることが明になる。今目前にある机とは何であるか、その色その形は眼の感覚である、これに触れて抵抗を感ずるのは手の感覚である。物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所の者は凡て物其者(そのもの)の客観的状態ではない。我らの意識を離れて物其者を直覚することは到底不可能である。自分の心其者について見ても右の通りである。我々の知る所は知情意の作用であって、心其者でない。我々が同一の自己があって始終働くかのように思うのも、心理学より見れば同一の感覚および感情の連続にすぎない、我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。ただ我々をして物心其者の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。しかし因果律に由りて果して意識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。
さらば疑うにも疑いようのない直接の知識とは何であるか。そはただ我々の直覚的経験の事実即ち意識現象についての知識あるのみである。現前の意識現象とこれを意識するということとは直に同一であって、その間に主観と客観とを分つこともできない。事実と認識の間に一毫の間隙がない。真に疑うに疑いようがないのである。勿論、意識現象であってもこれを判定するとかこれを想起するとかいう場合では誤に陥ることもある。しかしこの時はもはや直覚ではなく、推理である。後の意識と前の意識とは別の意識現象である、直覚というは後者を前者の判断として見るのではない、ただありのままの事実を知るのである。誤るとか誤らぬとかいうのは無意義である。斯(かく)の如き直覚的経験が基礎となって、その上に我々の凡ての知識が築き上げられねばならぬ。
哲学が伝来の仮定を脱し、新に確固たる基礎を求むる時には、いつでもかかる直接の知識に還ってくる。近世哲学の始においてベーコンが経験を以て凡ての知識の本としたのも、デカートが「余は考う故に余在り」cogito
ergo sum の命題を本として、これと同じく明瞭なるものを真理としたのもこれに由るのである。しかしベーコンの経験といったのは純粋なる経験ではなく、我々はこれに由りて意識外の事実を直覚しうるという独断を伴うた経験であった。デカートが余は考う故に余在りというのは已(すで)に直接経験の事実ではなく、已に余ありということを推理している。また明瞭なる思惟が物の本体を知りうるとなすのは独断である。カント以後の哲学においては疑う能わざる真理として直にこれを受取ることはできぬ。余がここに直接の知識というのは凡てこれらの独断を去り、ただ直覚的事実として承認するまでである(勿論ヘーゲルを始め諸(もろもろ)の哲学史家のいっているように、デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる)。
意識上における事実の直覚、即ち直接経験の事実を以て凡ての知識の出立点となすに反し、思惟を以て最も確実なる標準となす人がある。これらの人は物の真相と仮相とを分ち、我々が直覚的に経験する事実は仮相であって、ただ思惟の作用に由って真相を明にすることができるという。勿論この中でも常識または科学のいうのは全く直覚的経験を排するのではないが、或一種の経験的事実を以て物の真となし、他の経験的事実を以て偽となすのである。たとえば日月星辰(せいしん)は小さく見ゆるがその実は非常に大なるものであるとか、天体は動くように見ゆるがその実は地球が動くのであるというようなことである。しかしかくの如き考は或約束の下に起る経験的事実を以て、他の約束の下に起る経験的事実を推すより起るのである。各(おのおの)その約束の下では動かすべからざる事実である。同一の直覚的事実であるのに、何故その一が真であって他が偽であるか。此(かく)の如き考の起るのは、つまり触覚が他の感覚に比して一般的であり且つ実地上最も大切なる感覚であるから、この感覚より来る者を物の真相となすに由るので、少しく考えて見れば直にその首尾貫徹せぬことが明になる。或一派の哲学者に至ってはこれと違い、経験的事実を以て全く仮相となし、物の本体はただ思惟に由りて知ることができると主張するのである。しかし仮に我々の経験のできない超経験的実在があるとした所で、かくの如き者が如何にして思惟に由って知ることができるか。我々の思惟の作用というのも、やはり意識において起る意識現象の一種であることは何人も拒むことができまい。もし我々の経験的事実が物の本体を知ることができぬとなすならば、同一の現象である思惟も、やはりこれができないはずである。或人は思惟の一般性、必然性を以て真実在を知る標準とすれど、これらの性質もつまり我々が自己の意識上において直覚する一種の感情であって、やはり意識上の事実である。
我々の感覚的知識を以て凡て誤となし、ただ思惟を以てのみ物の真相を知りうるとなすのはエレヤ学派に始まり、プラトーに至ってその頂点に達した。近世哲学にてはデカート学派の人は皆明確なる思惟に由りて実在の真相を知り得るものと信じた。
思惟と直覚とは全く別の作用であるかのように考えられているが、単にこれを意識上の事実として見た時は同一種の作用である。直覚とか経験とかいうのは、個々の事物を他と関係なくその儘(まま)に知覚する純粋の受動的作用であって、思惟とはこれに反し事物を比較し判断しその関係を定むる能動的作用と考えられているが、実地における意識作用としては全く受動的作用なる者があるのではない。直覚は直に直接の判断である。余が曩(さき)に仮定なき知識の出立点として直覚といったのはこの意義において用いたのである。
上来直覚といったのは単に感覚とかいう作用のみをいうのではない。思惟の根柢にも常に統一的或者がある。これは直覚すべき者である。判断はこの分析より起るのである。
第二章 意識現象が唯一の実在である
少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。已(すで)に意識現象の範囲を脱せぬ思惟の作用に、経験以上の実在を直覚する神秘的能力なきは言うまでもなく、これらの仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起った抽象的概念である。
凡(すべ)ての独断を排除し、最も疑なき直接の知識より出立せんとする極めて批判的の考と、直接経験の事実以外に実在を仮定する考とは、どうしても両立することはできぬ。ロック、カントの如き大哲学者でもこの両主義の矛盾を免れない。余は今凡ての仮定的思想を棄てて厳密に前の主義を取ろうと思うのである。哲学史の上において見ればバークレー、フィヒテの如きはこの主義をとった人と思う。
普通には我々の意識現象というのは、物体界の中特に動物の神経系統に伴う一種の現象であると考えられている。しかし少しく反省して見ると、我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって自己の意識の中にあるのである。神経中枢の刺戟に意識現象が伴うというのは、一種の意識現象は必ず他の一種の意識現象に伴うて起るというにすぎない。もし我々が直接に自己の脳中の現象を知り得るものとせば、いわゆる意識現象と脳中の刺戟との関係は、ちょうど耳には音と感ずる者が眼や手には糸の震動と感ずると同一であろう。
我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。
また普通には、意識の外に或定まった性質を具えた物の本体が独立に存在し、意識現象はこれに基づいて起る現象にすぎないと考えられている。しかし意識外に独立固定せる物とは如何なる者であるか。厳密に意識現象を離れては物其者(そのもの)の性質を想像することはできぬ。単に或一定の約束の下に一定の現象を起す不知的の或者というより外にない。即ち我々の思惟の要求に由って想像したまでである。しからば思惟は何故にかかる物の存在を仮定せねばならぬか。ただ類似した意識現象がいつも結合して起るというにすぎない。我々が物といっている者の真意義はかくの如くである。純粋経験の上より見れば、意識現象の不変的結合というのが根本的事実であって、物の存在とは説明のために設けられた仮定にすぎぬ。
いわゆる唯物論者なる者は、物の存在ということを疑のない直接自明の事実であるかのように考えて、これを以て精神現象をも説明しようとしている。しかし少しく考えて見ると、こは本末を転倒しているのである。
それで純粋経験の上から厳密に考えて見ると、我々の意識現象の外に独立自全の事実なく、バークレーのいったように真に有即知
esse=percipi である。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象といえば、物体と分れて精神のみ存するということに考えられるかも知れない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。またバークレーの有即知というも余の真意に適しない。直接の実在は受動的の者でない、独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。
右の考は、我々が深き反省の結果としてどうしてもここに到らねばならぬのであるが、一見我々の常識と非常に相違するばかりでなく、これに由りて宇宙の現象を説明しようとすると種々の難問に出逢うのである。しかしこれらの難問は、多くは純粋経験の立脚地を厳密に守るより起ったというよりも、むしろ純粋経験の上に加えた独断の結果であると考える。
かくの如き難問の一は、若し意識現象をのみ実在とするならば、世界は凡て自己の観念であるという独知論に陥るではないか。またはさなくとも、各自の意識が互に独立の実在であるならば、いかにしてその間の関係を説明することができるかということである。しかし意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明(あきらか)に独断である。然るにこの統一作用即ち統覚というのは、類似せる観念感情が中枢となって意識を統一するというまでであって、この意識統一の範囲なる者が、純粋経験の立場より見て、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故を以て一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。
我々の思想感情の内容は凡て一般的である。幾千年を経過し幾千里を隔てていても思想感情は互に相通ずることができる。たとえば数理の如き者は誰が何時何処に考えても同一である。故に偉大なる人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神を以て支配する。この時これらの人の精神を一と見做(みな)すことができる。
次に意識現象を以て唯一の実在となすについて解釈に苦むのは、我々の意識現象は固定せる物ではなく、始終変化する出来事の連続であって見れば、これらの現象は何処より起り、何処に去るかの問題である。しかしこの問題もつまり物には必ず原因結果がなければならぬという因果律の要求より起るのであるから、この問題を考うる前に、先ず因果律の要求とは如何なる者であるかを攻究せねばならぬ。普通には因果律は直(ただち)に現象の背後における固定せる物其者(そのもの)の存在を要求するように考えているが、そは誤である。因果律の正当なる意義はヒュームのいったように、或現象の起るには必ずこれに先だつ一定の現象があるというまでであって、現象以上の物の存在を要求するのではない。一現象より他の現象を生ずるというのは、一現象が現象の中に含まれておったのでもなく、またどこか外に潜んでおったのが引き出されるのでもない。ただ充分なる約束即ち原因が具備した時は必ず或現象即ち結果が生ずるというのである。約束がまだ完備しない時これに伴うべき或現象即ち結果なる者はどこにもない。たとえば石を打って火を発する以前に、火はどこにもないのである。或はこれを生ずる力があるというでもあろうが、前にいったように、力とか物とかいうのは説明のために設けられた仮定であって、我々の直接に知る所では、ただ火と全く異なった或現象があるのみである。それで或現象に或現象が伴うというのが我々に直接に与えられたる根本的事実であって、因果律の要求はかえってこの事実に基づいて起ったものである。しかるにこの事実と因果律とが矛盾するように考うるのは、つまり因果律の誤解より起るのである。
因果律というのは、我々の意識現象の変化を本として、これより起った思惟の習慣であることは、この因果律に由りて宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着(じかどうちゃく)に陥るのを以て見ても分る。因果律は世界に始がなければならぬと要求する。しかしもしどこかを始と定むれば因果律は更にその原因は如何(いかん)と尋ねる、即ち自分で自分の不完全なることを明にしているのである。
終りに、無より有を生ぜぬという因果律の考についても一言して置こう。普通の意味において物がないといっても、主客の別を打破したる直覚の上より見れば、やはり無の意識が実在しているのである。無というのを単に語でなくこれに何か具体的の意味を与えて見ると、一方では或性質の欠乏ということであるが、一方には何らかの積極的性質をもっている(たとえば心理学からいえば黒色も一種の感覚である)。それで物体界にて無より有を生ずると思われることも、意識の事実として見れば無は真の無でなく、意識発展の或一契機であると見ることができる。さらば意識においては如何、無より有を生ずることができるか。意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべき者ではなく、従って機械的因果律の支配を受くべき者ではない。これらの形式はかえって意識統一の上に成立するのである。意識においては凡てが性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。意識はヘーゲルのいわゆる無限
das Unendliche である。 ここに一種の色の感覚があるとしても、この中に無限の変化を含んでいるといえる、即ち我々の意識が精細となりゆけば、一種の色の中にも無限の変化を感ずるようになる。今日我々の感覚の差別もかくして分化し来れるものであろう。ヴントは感覚の性質を次元に併(なら)べているが(Wundt,
Grundriss der Psychologie, §5)、元来一の一般的なる者が分化して出来たのであるから、かかる体系があるのだと思う。
第三章 実在の真景
我々がまだ思惟の細工を加えない直接の実在とは如何なる者であるか。即ち真に純粋経験の事実というのは如何なる者であるか。この時にはまだ主客の対立なく、知情意の分離なく、単に独立自全の純活動あるのみである。
主知説の心理学者は、感覚および観念を以て精神現象の要素となし、凡(すべ)ての精神現象はこれらの結合より成る者と考えて居る。かく考えれば、純粋経験の事実とは、意識の最受動的なる状態即ち感覚であるといわねばならぬ。しかし此(かく)の如き考は学問上分析の結果として出来た者を、直接経験の事実と混同したものである。我々の直接経験の事実においては純粋感覚なる者はない。我々が純粋感覚といっている者も已(すで)に簡単なる知覚である。而(しか)して知覚は、いかに簡単であっても決して全く受動的でない、必ず能動的即ち構成的要素を含んで居る(この事は空間的知覚の例を見ても明(あきらか)である)。聯想とか思惟とか複雑なる知的作用に至れば、なお一層この方面が明瞭となるので、普通に聯想は受動的であるというが、聯想においても観念聯合の方向を定むる者は単に外界の事情のみでは無く、意識の内面的性質に由るのである。聯想と思惟との間にはただ程度の差あるのみである。元来我々の意識現象を知情意と分つのは学問上の便宜に由るので、実地においては三種の現象あるのではなく、意識現象は凡てこの方面を具備しているのである(たとえば学問的研究の如く純知的作用といっても、決して情意を離れて存在することはできぬ)。しかしこの三方面の中、意志がその最も根本的なる形式である。主意説の心理学者のいうように、我々の意識は始終能動的であって、衝動を以て始まり意志を以て終るのである。それで我々に最も直接なる意識現象はいかに簡単であっても意志の形を成している。即ち意志が純粋経験の事実であるといわねばならぬ。
従来の心理学は主として主知説であったが、近来は漸々主意説が勢力を占めるようになった。ヴントの如きはその巨擘(きょはく)である。意識はいかに単純であっても必ず構成的である。内容の対照というのは意識成立の一要件である。もし真に単純なる意識があったならば、そは直(ただち)に無意識となるのである。
純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨(りゅうりょう)たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考は、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我々は已に真実在を離れているのである。
普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかのように思い、この二者の作用に由りて意識現象を生ずるように考えている。従って精神と物体との両実在があると考えているが、これは凡て誤である。主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である、精神物体の区別もこの見方より生ずるのであって、事実其者(そのもの)の区別でない。事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲(びょう)といったが、天文学者はこれを詩人の囈語(げいご)として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。
かくの如く主客の未だ分れざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。真実在は普通に考えられているような冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即ち単に存在ではなくして意味をもった者である。それでもしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。この点より見て、学者よりも芸術家の方が実在の真相に達している。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んでいる。同一の意識といっても決して真に同一でない。たとえば同一の牛を見るにしても、農夫、動物学者、美術家に由りて各その心象が異なっておらねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由って鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。
科学的に見た世界が最も客観的であって、この中には少しも我々の情意の要素を含んでおらぬように考えている。しかし学問といっても元は我々生存競争上実地の要求より起った者である、決して全然情意の要求を離れた見方ではない。特にエルザレムなどのいうように、科学的見方の根本義である外界に種々の作用をなす力があるという考は、自分の意志より類推したものであると見做(みな)さねばならぬ(Jerusalem,
Einleitung in die Philosophie, 6. Aufl. §27)。それ故に太古の万象を説明するのは凡て擬人的であった、今日の科学的説明はこれより発達したものである。
我々は主観客観の区別を根本的であると考える処から、知識の中にのみ客観的要素を含み、情意は全く我々の個人的主観的出来事であると考えている。この考は已にその根本的の仮定において誤っている。しかし仮に主客相互の作用に由って現象が生ずるものとしても、色形などいう如き知識の内容も、主観的と見れば主観的である、個人的と見れば個人的である。これに反し情意ということも、外界にかくの如き情意を起す性質があるとすれば客観的根拠をもってくる、情意が全く個人的であるというのは誤である。我々の情意は互に相通じ相感ずることができる。即ち超個人的要素を含んでいるのである。
我々が個人なる者があって喜怒愛欲の情意を起すと思うが故に、情意が純個人的であるという考も起る。しかし人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接経験の事実である。
万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである。実在の完全なる説明においては知識的要求を満足すると共に情意の要求を度外に置いてはならぬ。
希臘(ギリシャ)人民には自然は皆生きた自然であった。雷電はオリムプス山上におけるツォイス神の怒であり、杜鵑(ほととぎす)の声はフィロメーレが千古の怨恨であった(Schiller,
Die Gotter Griechenlands[#「Gotter」の「o」はウムラウト(¨)付き]を看(み)よ)。自然なる希臘人の眼には現在の真意がその儘(まま)に現じたのである。今日の美術、宗教、哲学、みなこの真意を現わさんと努めているのである。
第四章 真実在は常に同一の形式を有っている
上にいったように主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である。我々が独立自全の真実在を想起すれば自らこの形において現われてくる。此(かく)の如き実在の真景はただ我々がこれを自得すべき者であって、これを反省し分析し言語に表わしうべき者ではなかろう。しかし我々の種々なる差別的知識とはこの実在を反省するに由って起るのであるから、今この唯一実在の成立する形式を考え、如何にしてこれより種々の差別を生ずるかを明(あきらか)にしようと思う。
真正の実在は芸術の真意の如く互に相伝うることのできない者である。伝えうべき者はただ抽象的空殻である。我々は同一の言語に由って同一の事を理解し居ると思って居るが、その内容は必ず多少異なっている。
独立自全なる真実在の成立する方式を考えて見ると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先ず全体が含蓄的
implicit に現われる、それよりその内容が分化発展する、而してこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つの者が自分自身にて発展完成するのである。この方式は我々の活動的意識作用において最も明に見ることができる。意志について見るに、先ず目的観念なる者があって、これより事情に応じてこれを実現するに適当なる観念が体系的に組織せられ、この組織が完成せられし時行為となり、ここに目的が実現せられ、意志の作用が終結するのである。啻(ただ)に意志作用のみではなく、いわゆる知識作用である思惟想像等について見てもこの通りである。やはり先ず目的観念があってこれより種々の観念聯合を生じ、正当なる観念結合を得た時この作用が完成せらるるのである。 ジェームスが「意識の流」においていったように、凡(すべ)て意識は右の如き形式をなしている。たとえば一文章を意識の上に想起するとせよ、その主語が意識上に現われた時已(すで)に全文章を暗に含んでいる。但し客語が現われて来る時その内容が発展実現せらるるのである。
意志、思惟、想像等の発達せる意識現象については右の形式は明であるが、知覚、衝動等においては一見直(ただち)にその全体を実現して、右の過程を踏まないようにも見える。しかし前にいったように、意識はいかなる場合でも決して単純で受動的ではない、能動的で複合せるものである。而(しか)してその成立は必ず右の形式に由るのである。主意説のいうように、意志が凡ての意識の原形であるから、凡ての意識はいかに簡単であっても、意志と同一の形式に由って成立するものといわねばならぬ。
衝動および知覚などと意志および思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者においては無意識である過程が後者においては意識に自らを現わし来るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。我々の知覚というのもその発達から考えて見ると、種々なる経験の結果として生じたのである。例えば音楽などを聴いても、始の中は何の感をも与えないのが、段々耳に馴れてくればその中に明瞭なる知覚をうるようになるのである。知覚は一種の思惟といっても差支ない。
次に受動的意識と能動的意識との区別より起る誤解についても一言して置かねばならぬ。能動的意識にては右の形式が明であるが、受動的意識では観念を結合する者は外にあり、観念は単に外界の事情に由りて結合せらるるので、或全き者が内より発展完成するのでないように見える。しかし我々の意識は受動と能動とに峻別することはできぬ。これも畢竟(ひっきょう)程度の差である。聯想または記憶の如き意識作用も全然聯想の法則というが如き外界の事情より支配せらるるものでない、各人の内面的性質がその主動力である、やはり内より統一的或者が発展すると見ることができる。ただいわゆる能動的意識ではこの統一的或者が観念として明に意識の上に浮んでいるが、受動的意識ではこの者が無意識かまたは一種の感情となって働いているのである。
能動受動の区別、即ち精神が内から働くとか外から働を受けるとかいうことは、思惟に由って精神と物体との独立的存在を仮定し、意識現象は精神と外物との相互の作用より起るものとなすより来るので、純粋経験の事実上における区別ではない。純粋経験の事実上では単に程度の差である。我々が明瞭なる目的観念を有(も)っている時は能動と思われるのである。
経験学派の主張する所に由ると、我々の意識は凡て外物の作用に由りて発達するものであるという。しかしいかに外物が働くにしても、内にこれに応ずる先在的性質がなかったならば意識現象を生ずることはできまい。いかに外より培養するも、種子に発生の力がなかったならば植物が発生せぬと同様である。固(もと)より反対に種子のみあっても植物は発生せぬということもできる。要するにこの双方とも一方を見て他方を忘れたものである。真実在の活動では唯一の者の自発自展である、内外能受の別はこれを説明するために思惟に由って構成したものである。
凡ての意識現象を同一の形式に由って成立すると考えるのはさほどむずかしいことでもないと信ずるが、更に一歩を進んで、我々が通常外界の現象といっている自然界の出来事をも、同一の形式の下に入れようとするのは頗(すこぶ)る難事と思われるかも知れない。しかし前にいったように、意識を離れたる純粋物体界という如き者は抽象的概念である、真実在は意識現象の外にない、直接経験の真実在はいつも同一の形式によって成立するということができる。
普通には固定せる物体なる者が事実として存在するように思うている。しかし実地における事実はいつでも出来事である。希臘(ギリシャ)の哲学者ヘラクレイトスが「万物は流転し何物も止まることなし」Alles
fliesst und nichts hat Bestand. といったように、実在は流転して暫くも留まることなき出来事の連続である。
我々が外界における客観的世界というものも、吾人の意識現象の外になく、やはり或一種の統一作用に由って統一せられた者である。ただこの現象が普遍的である時即ち個人の小なる意識以上の統一を保つ時、我々より独立せる客観的世界と見るのである。たとえばここに一のランプが見える、これが自分のみに見えるならば、或は主観的幻覚とでも思うであろう。ただ各人が同じくこれを認むるに由りて客観的事実となる。客観的独立の世界というのはこの普遍的性質より起るのである。
第五章 真実在の根本的方式
我々の経験する所の事実は種々あるようであるが、少しく考えて見ると皆同一の実在であって、同一の方式に由って成り立っているのである。今此(かく)の如き凡(すべ)ての実在の根本的方式について話して見よう。
先ず凡ての実在の背後には統一的或者の働きおることを認めねばならぬ。或学者は真に単純であって独立せる要素、たとえば元子論者の元子の如き者が根本的実在であると考えている、しかし此の如き要素は説明のために設けられた抽象的概念であって、事実上に存在することはできぬ。試に想え、今ここに何か一つの元子があるならば、そは必ず何らかの性質または作用をもったものでなければならぬ、全く性質または作用なき者は無と同一である。しかるに一つの物が働くというのは必ず他の物に対して働くのである、而(しか)してこれには必ずこの二つの物を結合して互に相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、たとえば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この両物体の間に力というものがなければならぬ、また性質ということも一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。たとえば色が赤のみであったならば赤という色は現われようがない、赤が現われるには赤ならざる色がなければならぬ、而して一の性質が他の性質と比較し区別せらるるには、両性質はその根柢において同一でなければならぬ、全く類を異にしその間に何らの共通なる点をもたぬ者は比較し区別することができぬ。かくの如く凡て物は対立に由って成立するというならば、その根柢には必ず統一的或者が潜んでいるのである。
この統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、前にいったように、物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。我々の思惟意志の根柢における統一力と宇宙現象の根柢における統一力とは直(ただち)に同一である、たとえば我々の論理、数学の法則は直に宇宙現象がこれに由りて成立しうる原則である。
実在の成立には、右にいったようにその根柢において統一というものが必要であると共に、相互の反対むしろ矛盾ということが必要である。ヘラクレイトスが争(あらそい)は万物の父といったように、実在は矛盾に由って成立するのである、赤き物は赤からざる色に対し、働く者はこれをうける者に対して成立するのである。この矛盾が消滅すると共に実在も消え失せてしまう。元来この矛盾と統一とは同一の事柄を両方面より見たものにすぎない、統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。たとえば白と黒とのように凡ての点において共通であって、ただ一点において異なっている者が互に最も反対となる、これに反し徳と三角というように明了の反対なき者はまた明了なる統一もない。最も有力なる実在は種々の矛盾を最も能く調和統一した者である。
統一する者と統一せらるる者とを別々に考えるのは抽象的思惟に由るので、具体的実在にてはこの二つの者を離すことはできない。一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない、樹全体の統一力が無かったならば枝葉根幹も無意義である。樹はその部分の対立と統一との上に存するのである。
統一力と統一せらるる者と分離した時には実在とならない。たとえば人が石を積みかさねたように、石と人とは別物である、かかる時に石の積みかさねは人工的であって、独立の一実在とはならない。
そこで実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。而してこの二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自家発展ということができる。独立自全の真実在はいつでもこの方式を具えている、しからざる者は皆我々の抽象的概念である。
実在は自分にて一の体系をなした者である。我々をして確実なる実在と信ぜしむる者はこの性質に由るのである。これに反し体系を成さぬ事柄はたとえば夢の如くこれを実在とは信ぜぬのである。
右の如く真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ。静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、即ち多を排斥したる一の状態である。しかしこの状態にて実在は成立することはできない。もし統一に由って或一つの状態が成立したとすれば、直にここに他の反対の状態が成立しておらねばならぬ。一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。真実在はかくの如き無限の対立を以て成立するのである。物理学者は勢力保存などといって実在に極限があるかのようにいっているが、こは説明の便宜上に設けられた仮定であって、かくの如き考は恰(あたか)も空間に極限があるというと同じく、ただ抽象的に一方のみを見て他方を忘れていたのである。
活きた者は皆無限の対立を含んでいる、即ち無限の変化を生ずる能力をもったものである。精神を活物というのは始終無限の対立を存し、停止する所がない故である。もしこれが一状態に固定して更に他の対立に移る能わざる時は死物である。
実在はこれに対立する者に由って成立するというが、この対立は他より出で来るのではなく、自家の中より生ずるのである。前にいったように対立の根柢には統一があって、無限の対立は皆自家の内面的性質より必然の結果として発展し来るので、真実在は一つの者の内面的必然より起る自由の発展である。たとえば空間の限定に由って種々の幾何学的形状ができ、これらの形は互に相対立して特殊の性質を保っている。しかし皆別々に対立するのではなくして、空間という一者の必然的性質に由りて結合せられている、即ち空間的性質の無限の発展であるように、我々が自然現象といっている者について見ても、実際の自然現象なる者は前にもいったように個々独立の要素より成るのではなく、また我々の意識現象を離れて存在するのではない。やはり一の統一的作用によりて成立するので、一自然の発展と看做(みな)すべきものである。
ヘーゲルは何でも理性的なる者は実在であって、実在は必ず理性的なる者であるといった。この語は種々の反対をうけたにも拘らず、見方に由っては動かすべからざる真理である。宇宙の現象はいかに些細なる者であっても、決して偶然に起り前後に全く何らの関係をもたぬものはない。必ず起るべき理由を具して起るのである。我らはこれを偶然と見るのは単に知識の不足より来るのである。
普通には何か活動の主があって、これより活動が起るものと考えている。しかし直接経験より見れば活動その者が実在である。この主たる物というは抽象的概念である。我々は統一とその内容との対立を互に独立の実在であるかのように思うから斯(かく)の如き考を生ずるのである。
第六章 唯一実在
実在は前にいったように意識活動である。而して意識活動とは普通の解釈に由ればその時々に現われまた忽ち消え去るもので、同一の活動が永久に連結することはできない。して見ると、小にして我々の一生の経験、大にしては今日に至るまでの宇宙の発展、これらの事実は畢竟(ひっきょう)虚幻夢の如く、支離滅裂なるものであって、その間に何らの統一的基礎がないのであろうか。此(かく)の如き疑問に対しては、実在は相互の関係において成立するもので、宇宙は唯一実在の唯一活動であることを述べて置こうと思う。
意識活動は或範囲内では統一に由って成立することは略(ほぼ)説明したと思うが、なお或範囲以外ではかかる統一のあることを信ぜぬ人が多い。たとえば昨日の意識と今日の意識とは全く独立であって、もはや一の意識とは看做(みな)されないと考えている人がある。しかし直接経験の立脚地より考えて見ると、此の如き区別は単に相対的の区別であって絶対的区別ではない。何人でも統一せる一の意識現象と考えている思惟または意志等について見ても、その過程は各(おのおの)相異なっている観念の連続にすぎない。精細にこれを区別して見ればこれらの観念は別々の意識であるとも考えることができる。しかるにこの連続せる観念が個々独立の実在ではなく、一の意識活動として見ることができるならば、昨日の意識と今日の意識とは一の意識活動として見られぬことはない、我々が幾日にも亙りて或一の問題を考え、または一の事業を計画するという場合には、明(あきらか)に同一の意識が連続的に働くと見ることができる、ただ時間の長短において異なるばかりである。
意識の結合には知覚の如き同時の結合、聯想思惟の如き継続的結合、および自覚の如き一生に亙れる結合も皆程度の差異であって、同一の性質より成り立つ者である。
意識現象は時々刻々に移りゆくもので、同一の意識が再び起ることはない。昨日の意識と今日の意識とは、よしその内容において同一なるにせよ、全然異なった意識であるという考は、直接経験の立脚地より見たのではなくて、かえって時間という者を仮定し、意識現象はその上に顕われる者として推論した結果である。意識現象が時間という形式に由って成立する者とすれば、時間の性質上一たび過ぎ去った意識現象は再び還ることはできぬ。時間はただ一つの方向を有するのみである。たとい全く同一の内容を有する意識であっても、時間の形式上已(すで)に同一とはいわれないこととなる。しかし今直接経験の本に立ち還って見ると、これらの関係は全く反対とならねばならぬ。時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に由って成立するのである。意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬことになる。
直接経験より見れば同一内容の意識は直(ただち)に同一の意識である、真理は何人が何時代に考えても同一であるように、我々の昨日の意識と今日の意識とは同一の体系に属し同一の内容を有するが故に、直に結合せられて一意識と成るのである。個人の一生という者は此の如き一体系を成せる意識の発展である。
この点より見れば精神の根柢には常に不変的或者がある。この者が日々その発展を大きくするのである。時間の経過とはこの発展に伴う統一的中心点が変じてゆくのである、この中心点がいつでも「今」である。
右にいったように意識の根柢に不変の統一力が働いているとすれば、この統一力なる者は如何なる形において存在するか、いかにして自分を維持するかの疑が起るであろう。心理学では此の如き統一作用の本を脳という物質に帰している。しかしかつていったように、意識外に独立の物体を仮定するのは意識現象の不変的結合より推論したので、これよりも意識内容の直接の結合という統一作用が根本的事実である。この統一力は或他の実在よりして出で来(きた)るのではなく、実在はかえってこの作用に由りて成立するのである。人は皆宇宙に一定不変の理なる者あって、万物はこれに由りて成立すると信じている。この理とは万物の統一力であって兼ねてまた意識内面の統一力である、理は物や心に由って所持せられるのではなく、理が物心を成立せしむるのである。理は独立自存であって、時間、空間、人に由って異なることなく、顕滅用不用に由りて変ぜざる者である。
普通に理といえば、我々の主観的意識上の観念聯合を支配する作用と考えられている。しかし斯(かく)の如き作用は理の活動の足跡であって、理其者(そのもの)ではない。理其者は創作的であって、我々はこれになりきりこれに即して働くことができるが、これを意識の対象として見ることのできないものである。
普通の意義において物が存在するということは、或場処或時において或形において存在するのである。しかしここにいう理の存在というのはこれと類を異にしている。此の如く一処に束縛せらるるものならば統一の働をなすことはできない、かくの如き者は活きた真の理でない。
個人の意識が右にいったように昨日の意識と今日の意識と直(ただち)に統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見做(みな)すことができる。この考を推し進めて行く時は、啻(ただ)に一個人の範囲内ばかりではなく、他人との意識もまた同一の理由に由って連結して一と見做すことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根柢には普遍的なる者がある。我々はこれに由りて互に相理会し相交通することができる。啻にいわゆる普遍的理性が一般人心の根柢に通ずるばかりでなく、或一社会に生れたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざる者はない、各個人の精神は皆この社会精神の一細胞にすぎないのである。 前にもいったように、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合するように見ゆるが、もし外より結合せらるるように見れば、後者も或一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるるので、個人間の意識が言語等の符徴に由って結合せらるるのと同一である。もし内より結合せらるるように見れば、前者においても個人間に元来同一の根柢あればこそ直に結合せられるのである。
我々のいわゆる客観的世界と名づけている者も、幾度か言ったように、我々の主観を離れて成立するものではなく、客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である、即ちいわゆる客観的世界も意識も同一の理に由って成立するものである。この故に人は自己の中にある理に由って宇宙成立の原理を理会することができるのである。もし我々の意識の統一と異なった世界があるとするも、此の如き世界は我々と全然没交渉の世界である。苟(いやしく)も我々の知り得る、理会し得る世界は我々の意識と同一の統一力の下に立たねばならぬ。
第七章 実在の分化発展
意識を離れて世界ありという考より見れば、万物は個々独立に存在するものということができるかも知らぬが、意識現象が唯一の実在であるという考より見れば、宇宙万象の根柢には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ。我々の知識が進歩するに従って益々この同一の理あることを確信するようになる。今この唯一の実在より如何にして種々の差別的対立を生ずるかを述べて見よう。
実在は一に統一せられていると共に対立を含んでおらねばならぬ。ここに一の実在があれば必ずこれに対する他の実在がある。而してかくこの二つの物が互に相対立するには、この二つの物が独立の実在ではなくして、統一せられたるものでなければならぬ、即ち一の実在の分化発展でなければならぬ。而(しか)してこの両者が統一せられて一の実在として現われた時には、更に一の対立が生ぜねばならぬ。しかしこの時この両者の背後に、また一の統一が働いておらねばならぬ。かくして無限の統一に進むのである。これを逆に一方より考えて見れば、無限なる唯一実在が小より大に、浅より深に、自己を分化発展するのであると考えることができる。此(かく)の如き過程が実在発現の方式であって、宇宙現象はこれに由りて成立し進行するのである。
斯(かく)の如き実在発展の過程は我々の意識現象について明(あきらか)にこれを見ることができる。たとえば意志について見ると、意志とは或理想を現実にせんとするので、現在と理想との対立である。しかしこの意志が実行せられ理想と一致した時、この現在は更に他の理想と対立して新なる意志が出でくる。かくして我々の生きている間は、どこまでも自己を発展し実現しゆくのである。次に生物の生活および発達について見ても、此の如き実在の方式を認むることができる。生物の生活は実に斯の如き不息の活動である。ただ無生物の存在はちょっとこの方式にあてはめて考えることが困難であるように見えるが、このことについては後に自然を論ずる時に話すこととしよう。
さて右に述べたような実在の根本的方式より、如何にして種々なる実在の差別を生ずるのであるか。先ずいわゆる主観客観の別は何から起ってくるか。主観と客観とは相離れて存在するものではなく、一実在の相対せる両方面である、即ち我々の主観というものは統一的方面であって、客観というのは統一せらるる方面である、我とはいつでも実在の統一者であって、物とは統一せられる者である(爰(ここ)に客観というのは我々の意識より独立せる実在という意義ではなく、単に意識対象の意義である)。たとえば我々が何物かを知覚するとか、もしくは思惟するとかいう場合において、自己とは彼此(ひし)相比較し統一する作用であって、物とはこれに対して立つ対象である、即ち比較統一の材料である。後の意識より前の意識を見た時、自己を対象として見ることができるように思うが、その実はこの自己とは真の自己ではなく、真の自己は現在の観察者即ち統一者である。この時は前の統一は已(すで)に一たび完結し、次の統一の材料としてこの中に包含せられたものと考えねばならぬ。自己はかくの如く無限の統一者である、決してこれを対象として比較統一の材料とすることのできない者である。
心理学から見ても吾人の自己とは意識の統一者である。而して今意識が唯一の真実在であるという立脚地より見れば、この自己は実在の統一者でなければならぬ。心理学ではこの統一者である自己なる者が、統一せらるるものから離れて別に存在するようにいえども、此の如き自己は単に抽象的概念にすぎない。事実においては、物を離れて自己あるのではなく、我々の自己は直に宇宙実在の統一力その者である。
精神現象、物体現象の区別というのも決して二種の実在があるのではない。精神現象というのは統一的方面即ち主観の方から見たので、物体現象とは統一せらるる者即ち客観の方から見たのである。ただ同一実在を相反せる両方面より見たのにすぎない。それで統一の方より見れば凡(すべ)てが主観に属して精神現象となり、統一を除いて考えれば凡てが客観的物体現象となる(唯心論、唯物論の対立はかくの如き両方面の一を固執せるより起るのである)。
次に能動所動の差別は何から起ってくるか。能動所動ということも実在に二種の区別があるのではなく、やはり同一実在の両方面である、統一者がいつでも能動であって、被統一者がいつでも所動である。たとえば意識現象について見ると、我々の意志が働いたというのは意志の統一的観念即ち目的が実現せられたというので、即ち統一が成立したことである。その外凡て精神が働いたということは統一の目的を達したということで、これができなくって他より統一せられた時には所動というのである。物体現象においても甲の者が乙に対して働くということは、甲の性質の中に乙の性質を包含し統括し得た場合をいうのである。かくの如く統一が即ち能動の真意義であって、我々が統一の位置にある時は能動的で、自由である。これに反して他より統一せられた時は所動的で、必然法の下に支配せられたこととなる。
普通では時間上の連続において先だつ者が能動者と考えられているが、時間上に先だつ者が必ずしも能動者ではない、能動者は力をもったものでなければならぬ。而して力というのは実在の統一作用をいうのである。たとえば物体の運動は運動力より起るという、然るにこの力というのはつまり或現象間の不変的関係をさすので、即ちこの現象を連結綜合する統一者をいうのである。而して厳密なる意義においてはただ精神のみ能動である。
次に無意識と意識との区別について一言せん。主観的統一作用は常に無意識であって、統一の対象となる者が意識内容として現われるのである。思惟について見ても、また意志についてみても、真の統一作用その者はいつも無意識である。ただこれを反省して見た時、この統一作用は一の観念として意識上に現われる。しかしこの時は已に統一作用ではなくして、統一の対象となっているのである。前にいったように、統一作用はいつでも主観であるから、従っていつでも無意識でなければならぬ。ハルトマンも無意識が活動であるといっているように、我々が主観の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識である。これに反し或意識を客観的対象として意識した時には、その意識は已に活動を失ったものである。たとえば或芸術の修錬についても、一々の動作を意識している間は未だ真に生きた芸術ではない、無意識の状態に至って始めて生きた芸術となるのである。
心理学より見て精神現象は凡て意識現象であるから、無意識なる精神現象は存在せぬという非難がある。しかし我々の精神現象は単に観念の連続でない、必ずこれを連結統一する無意識の活動があって、始めて精神現象が成立するのである。
最後に現象と本体との関係について見ても、やはり実在の両方面の関係と見て説明することができる。我々が物の本体といっているのは実在の統一力をいうのであって、現象とはその分化発展せる対立の状態をいうのである。たとえばここに机の本体が存在するというのは、我々の意識がいつでも或一定の結合に由って現ずるということで、ここに不変の本体というのはこの統一力をさすのである。
かくいえば真正の主観が実在の本体であると言わねばならぬ事になる、然るに我々は通常かえって物体は客観にあると考えている。しかしこれは真正の主観を考えないで抽象的主観を考えるに由るのである。此の如き主観は無力なる概念であって、これに対しては物の本体はかえって客観に属するといった方が至当である。しかし真正にいえば主観を離れた客観とはまた抽象的概念であって、無力である。真に活動せる物の本体というのは、実在成立の根本的作用である統一力であって、即ち真正の主観でなければならぬ。
第八章 自然
実在はただ一つあるのみであって、その見方の異なるに由りて種々の形を呈するのである。自然といえば全然我々の主観より独立した客観的実在であると考えられている、しかし厳密に言えば、斯(かく)の如き自然は抽象的概念であって決して真の実在ではない。自然の本体はやはり未だ主客の分れざる直接経験の事実であるのである。たとえば我々が真に草木として考うる物は、生々たる色と形とを具えた草木であって、我々の直覚的事実である。ただ我々がこの具体的実在より姑(しばら)く主観的活動の方面を除去して考えた時は、純客観的自然であるかのように考えられるのである。而して科学者のいわゆる最も厳密なる意味における自然とは、この考え方を極端にまで推し進めた者であって、最抽象的なる者即ち最も実在の真景を遠ざかった者である。
自然とは、具体的実在より主観的方面、即ち統一作用を除き去ったものである。それ故に自然には自己がない。自然はただ必然の法則に従って外より動かされるのである、自己より自動的に働くことができないのである。それで自然現象の連結統一は精神現象においてのように内面的統一ではなく、単に時間空間上における偶然的連結である。いわゆる帰納法に由って得たる自然法なる者は、或両種の現象が不変的連続において起るから、一は他の原因であると仮定したまでであって、如何に自然科学が進歩しても、我々はこれ以上の説明を得ることはできぬ。ただこの説明が精細に且つ一般的となるまでである。
現今科学の趨勢(すうせい)はできるだけ客観的ならんことをつとめている。それで心理現象は生理的に、生理現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばならぬこととなる。此(かく)の如き説明の基礎となる純機械的説明とはいかなる者であるか。純物質とは全く我々の経験のできない実在である、苟(いやしく)もこれについて何らかの経験のできうる者ならば、意識現象として我々の意識の上に現われ来る者でなければならぬ。然るに意識の事実として現われきたる者は尽(ことごと)く主観的であって、純客観的なる物質とはいわれない、純物質というのは何らの捕捉すべき積極的性質もない、単に空間時間運動という如き純数量的性質のみを有する者で、数学上の概念の如く全く抽象的概念にすぎないのである。
物質は空間を充す者として恰もこれを直覚しうるかのように考えているが、しかし我々が具体的に考えうる物の延長ということは、触覚および視覚の意識現象にすぎない。我々の感覚に大きく見えるとも必ずしも物質が多いとはいわれぬ。物理学上物質の多少はつまりその力の大小に由りて定まるので、即ち彼此(ひし)の作用的関係より推理するのである、決して直覚的事実ではない。
また右の如く自然を純物質的に考えれば動物、植物、生物の区別もなく、凡(すべ)て同一なる機械力の作用というの外なく、自然現象は何らの特殊なる性質および意義を有せぬものとなる。人間も土塊も何の異なる所もない。然るに我々が実際に経験する真の自然は決して右にいったような抽象的概念でなく、従って単に同一なる機械力の作用でもない。動物は動物、植物は植物、金石は金石、それぞれ特色と意義とを具えた具体的事実である。我々のいわゆる山川草木虫魚禽獣というものは、皆斯の如くそれぞれの個性を具えた者で、これを説明するには種々の立脚地より、種々に説明することもできるが、この直接に与えられたる直覚的事実の自然は到底動かすことのできない者である。
我々が普通に純機械的自然を真に客観的実在となし、直接経験における具体的自然を主観的現象となすのは、凡て意識現象は自己の主観的現象であるという仮定より推理した考である。しかし幾度もいったように、我々は全然意識現象より離れた実在を考えることはできぬ。もし意識現象に関係あるが故に主観的であるというならば、純機械的自然も主観的である、空間、時間、運動という如きも我々の意識現象を離れては考えることはできない。ただ比較的に客観的であるので絶対的に客観的であるのではない。
真に具体的実在としての自然は、全く統一作用なくして成立するものではない。自然もやはり一種の自己を具えているのである。一本の植物、一匹の動物もその発現する種々の形態変化および運動は、単に無意義なる物質の結合および機械的運動ではなく、一々その全体と離すべからざる関係をもっているので、つまり一の統一的自己の発現と看做(みな)すべきものである。たとえば動物の手足鼻口等凡て一々動物生存の目的と密接なる関係があって、これを離れてその意義を解することはできぬ。少くとも動植物の現象を説明するには、かくの如き自然の統一力を仮定せねばならぬ。生物学者は凡て生活本能を以て生物の現象を説明するのである。啻(ただ)に生物にのみ此の如き統一作用があるのではなく、無機物の結晶においても已(すで)に多少この作用が現われている。即ち凡ての鉱物は皆特有の結晶形を具えているのである。自然の自己即ち統一作用は此の如く無機物の結晶より動植物の有機体に至ってますます明(あきらか)となるのである(真の自己は精神に至って始めて現われる)。
現今科学の厳密なる機械的説明の立脚地より見れば、有機体の合目的発達も畢竟(ひっきょう)物理および化学の法則より説明されねばならぬ。即ち単に偶然の結果にすぎないこととなる。しかし斯の如き考はあまり事実を無視することになるから、科学者は潜勢力という仮定をもってこれを説明しようとする。即ち生物の卵または種にはそれぞれの生物を発生する潜勢力をもっているという、この潜勢力が即ち今のいわゆる自然の統一力に相当するのである。
自然の説明の上において、機械力の外に斯の如き統一力の作用を許すとするも、この二つの説明が衝突する必要はない。かえって両者相待って完全なる自然の説明ができるのである。たとえばここに一の銅像があるとせよ、その材料たる銅としては物理化学の法則に従うでもあろうが、こは単に銅の一塊と見るべき者ではなく、我々の理想を現わしたる美術品である。即ち我々の理想の統一力に由りて現われたるものである。しかしこの理想の統一作用と材料其者(そのもの)を支配する物理化学の法則とは自ら別範囲に属し、決して相犯すはずのものではない。
右にいったような統一的自己があって、而(しか)して後自然に目的あり、意義あり、甫(はじ)めて生きた自然となるのである。斯の如き自然の生命である統一力は単に我々の思惟に由りて作為せる抽象的概念ではなく、かえって我々の直覚の上に現じ来(きた)る事実である。我々は愛する花を見、また親しき動物を見て、直(ただち)に全体において統一的或者を捕捉するのである。これがその物の自己、その物の本体である。美術家は斯の如き直覚の最もすぐれた人である。彼らは一見、物の真相を看破して統一的或物を捕捉するのである。彼らの現わす所の者は表面の事実ではなく、深く物の根柢に潜める不変の本体である。
ゲーテは生物の研究に潜心し、今日の進化論の先駆者であった。氏の説に由ると自然現象の背後には本源的現象
Urphanomen[#「a」はウムラウト(¨)付き]なる者がある。詩人はこれを直覚するのである。種々の動物植物はこの本源的現象たる本源的動物、本源的植物の変化せる者であるという。現に今日の動植物の中に一定不変の典型がある。氏はこの説に基づいて、凡て生物は進化し来ったものであることを論じたのである。
然らば自然の背後に潜める統一的自己とは如何なる者であるか。我々は自然現象をば我々の主観と関係なき純客観的現象であると考えているが故に、この自然の統一力も我々の知り得べからざる不可知的或者と考えられている。しかし已に論じたように、真実在は主観客観の分離しないものである、実際の自然は単に客観的一方という如き抽象的概念ではなく、主客を具したる意識の具体的事実である。従ってその統一的自己は我々の意識と何らの関係のない不可知的或者ではなく、実に我々の意識の統一作用その者である。この故に我々が自然の意義目的を理会するのは、自己の理想および情意の主観的統一に由るのである。たとえば我々が能く動物の種々の機関および動作の本に横(よこた)われる根本的意義を理会するのは、自分の情意を以て直にこれを直覚するので、自分に情意がなかったならば到底動物の根本的意義を理会する事はできぬ。我々の理想および情意が深遠博大となるに従って、いよいよ自然の真意義を理会することができる。これを要するに我々の主観的統一と自然の客観的統一力とはもと同一である。これを客観的に見れば自然の統一力となり、これを主観的に見れば自己の知情意の統一となるのである。
物力という如き者は全く吾人の主観的統一に関係がないと信ぜられている。勿論これは最も無意義の統一でもあろう、しかしこれとても全然主観的統一を離れたものではない、我々が物体の中に力あり、種々の作用をなすということは、つまり自己の意志作用を客観的に見たのである。
普通には、我々が自己の理想または情意を以て自然の意義を推断するというのは単に類推であって、確固たる真理でないと考えられている。しかしこは主観客観を独立に考え、精神と自然とを二種の実在となすより起るのである。純粋経験の上からいえば直にこれを同一と見るのが至当である。
第九章 精神
自然は一見我々の精神より独立せる純客観的実在であるかのように見ゆるが、その実は主観を離れた実在ではない。いわゆる自然現象をばその主観的方面即ち統一作用の方より見れば凡(すべ)て意識現象となる。たとえばここに一個の石がある、この石を我々の主観より独立せる或不可知的実在の力に由りて現じた者とすれば自然となる。しかしこの石なる者を直接経験の事実として直(ただち)にこれを見れば、単に客観的に独立せる実在ではなく、我々の視覚触覚等の結合であって、即ち我々の意識統一に由って成立する意識現象である。それでいわゆる自然現象をば直接経験の本に立ち返って見ると、凡て主観的統一に由って成立する自己の意識現象となる。唯心論者が世界は余の観念なりというのはこの立脚地より見たのである。
我々が同一の石を見るという時、各人が同一の観念を有(も)っていると信じている。しかしその実は各人の性質経験に由って異なっているのである。故に具体的実在は凡て主観的個人的であって、客観的実在という者はなくなる。客観的実在というのは各人に共通なる抽象的概念にすぎない。
然らば我々が通常自然に対して精神といっている者は何であるか。即ち主観的意識現象とは如何なる者であるか、いわゆる精神現象とはただ実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたものである。前にいったように、実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない、しかし実在の成立には凡て統一作用が必要である。この統一作用なる者は固(もと)より実在を離れて特別に存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるる客観に対立せしめて考えた時、いわゆる精神現象となるのである。たとえば爰(ここ)に一つの感覚がある、しかしこの一つの感覚は独立に存在するものではない、必ず他と対立の上において成立するのである、即ち他と比較し区別せられて成立するのである。この比較区別の作用即ち統一的作用が我々のいわゆる精神なる者である。それでこの作用が進むと共に、精神と物体との区別が益々著しくなってくる。子供の時には我々の精神は自然的である、従って主観の作用が微弱である。然るに成長するに従って統一的作用が盛になり、客観的自然より区別せられた自己の心なる者を自覚するようになるのである。
普通には我々の精神なる者は、客観的自然と区別せられたる独立の実在であると考えている。しかし精神の主観的統一を離れた純客観的自然が抽象的概念であるように、客観的自然を離れた純主観的精神も抽象的概念である。統一せらるる者があって、統一する作用があるのである。仮に外界における物の作用を感受する精神の本体があるとするも、働く物があって、感ずる心があるのである。働かない精神その者は、働かない物その者の如く不可知的である。
然らば何故に実在の統一作用が特にその内容即ち統一せらるべき者より区別せられて、恰も独立の実在であるかのように現わるるのであるか。そは疑もなく実在における種々の統一の矛盾衝突より起るのである。実在には種々の体系がある、即ち種々の統一がある、この体系的統一が相衝突し相矛盾した時、この統一が明(あきらか)に意識の上に現われてくるのである。衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。たとえば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。然らばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在その物の性質より起るのである。かつていったように、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。
我々が或一芸に熟した時、即ち実在の統一を得た時はかえって無意識である、即ちこの自家の統一を知らない。しかし更に深く進まんとする時、已(すで)に得た所の者と衝突を起し、ここにまた意識的となる、意識はいつも此(かく)の如き衝突より生ずるのである。また精神のある処には必ず衝突のあることは、精神には理想を伴うことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している(かく我々の精神は衝突によりて現ずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理をふくんでいる)。
我々の精神とは実在の統一作用であるとして見ると、実在には凡て統一がある、即ち実在には凡て精神があるといわねばならぬ。然るに我々は無生物と生物とを分ち、精神のある者と無い物とを区別するのは何に由るのであるか。厳密にいえば、凡ての実在には精神があるといってよい、前にいったように自然においても統一的自己がある、これが即ち我々の精神と同一なる統一力である。たとえばここに一本の樹という意識現象が現われたとすれば、普通にはこれを客観的実在として自然力に由りて成立する者と考えるのであるが、意識現象の一体系をなせる者と見れば、意識の統一作用によりて成立するのである。しかしいわゆる無心物においては、この統一的自己が未だ直接経験の事実として現実に現われていない。樹其者(そのもの)は自己の統一作用を自覚していない、その統一的自己は他の意識の中にあって樹其者の中にはない、即ち単に外面より統一せられた者で、未だ内面的に統一せる者ではない。この故に未だ独立自全の実在とはいわれぬ。動物ではこれに反し、内面的統一即ち自己なる者が現実に現われている、動物の種々なる現象(たとえばその形態動作)は皆この内面的統一の発表と見ることができる。実在は凡て統一に由って成立するが、精神においてその統一が明瞭なる事実として現われるのである。実在は精神において始めて完全なる実在となるのである、即ち独立自全の実在となるのである。 いわゆる精神なき者にあっては、その統一は外より与えられたので、自己の内面的統一でない。それ故に見る人によりてその統一を変ずることができる。たとえば普通には樹という統一せられたる一実在があると思うているが、化学者の眼から見れば一の有機的化合物であって、元素の集合にすぎない、別に樹という実在は無いともいいうる。しかし動物の精神はかく看(み)ることができぬ、動物の肉体は植物と同じく化合物と看ることもできるであろうが、精神其者は見る人の随意にこれを変ずることはできない、これをいかに解釈するにしても、とにかく事実上動かすべからざる一の統一を現わしているのである。
今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現わし来(きた)るのであるということができる。精神の発展において始めて実在成立の根本的性質が現われてくるのである。ライプニッツのいったように発展
evolution は内展 involution である。 精神の統一者である我々の自己なる者は元来実在の統一作用である。一派の心理学では我々の自己は観念および感情の結合にすぎない、これらの者を除いて外に自己はないというが、こは単に分析の方面のみより見て統一の方面を忘れているのである。凡て物を分析して考えて見れば、統一作用を認むることはできない、しかしこの故に統一作用を無視することはできぬ。物は統一に由りて成立するのである、観念感情も、これをして具体的実在たらしむるのは統一的自己の力によるのである。この統一力即ち自己は何処より来るかというに、つまり実在統一力の発現であって、即ち永久不変の力である。我々の自己は常に創造的で自由で無限の活動と感ぜらるるのはこの為である。前にいったように、我々が内に省みて何だか自己という一種の感情あるが如くに感ずるのは真の自己でない。此の如き自己は何の活動もできないのである。ただ実在の統一が内に働く時において、我々は自己の理想の如く実在を支配し、自己が自由の活動をなしつつあると感ずるのである。而(しか)してこの実在の統一作用は無限であるから、我々の自己は無限であって宇宙を包容するかのように感ぜられるのである。
余が曩(さき)に出立した純粋経験の立場より見れば、ここにいうような実在の統一作用なる者は単に抽象的観念であって、直接経験の事実ではないように思われるかも知れない。しかし我々の直接経験の事実は観念や感情ではなくて意志活動である、この統一作用は直接経験に欠くべからざる要素である。
これまでは精神を自然と対立せしめて考えてきたのであるが、これより精神と自然との関係について少しく考えて見よう。我々の精神は実在の統一作用として、自然に対して特別の実在であるかのように考えられているが、その実は統一せられる者を離れて統一作用があるのでなく、客観的自然を離れて主観的精神はないのである。我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となっているのである。花を研究してその本性を明にするというは、自己の主観的臆断をすてて、花其物(そのもの)の本性に一致するの意である。理を考えるという場合にても、理は決して我々の主観的空想ではない、理は万人に共通なるのみならず、また実に客観的実在がこれに由りて成立する原理である。動かすべからざる真理は、常に我々の主観的自己を没し客観的となるに由って得らるるのである。これを要するに我々の知識が深遠となるというは即ち客観的自然に合するの意である。啻(ただ)に知識において然るのみならず、意志においてもその通りである。純主観的では何事も成すことはできない。意志はただ客観的自然に従うに由ってのみ実現し得るのである。水を動かすのは水の性に従うのである、人を支配するのは人の性に従うのである、自分を支配するのは自分の性に従うのである、我々の意志が客観的となるだけそれだけ有力となるのである。釈迦、基督(キリスト)が千歳の後にも万人を動かす力を有するのは、実に彼らの精神が能く客観的であった故である。我なき者即ち自己を滅せる者は最も偉大なる者である。
普通には精神現象と物体現象とを内外に由りて区別し、前者は内に後者は外にあると考えている。しかしかくの如き考は、精神が肉体の中にあるという独断より起るので、直接経験より見れば凡て同一の意識現象であって、内外の区別があるのではない。我々が単に内面的なる主観的精神といって居る者は極めて表面的なる微弱なる精神である、即ち個人的空想である。これに反して大なる深き精神は宇宙の真理に合したる宇宙の活動その者である。それでかくの如き精神には自ら外界の活動を伴うのである、活動すまいと思うてもできないのである。美術家の神来の如きはその一例である。
最後に人心の苦楽について一言しよう。一言にていえば、我々の精神が完全の状態即ち統一の状態にある時が快楽であって、不完全の状態即ち分裂の状態にある時が苦痛である。右にいった如く精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。この矛盾衝突の場合には常に苦痛である、無限なる統一的活動は直にこの矛盾衝突を脱して更に一層大なる統一に達せんとするのである。この時我々の心に種々の欲望を生じ理想を生ずる。而してこの一層大なる統一に達し得たる時即ち我々の欲望または理想を満足し得た時は快楽となるのである。故に快楽の一面には必ず苦痛あり、苦痛の一面には必ず快楽が伴う、かくして人心は絶対に快楽に達することはできまいが、ただ努めて客観的となり自然と一致する時には無限の幸福を保つことができる。
心理学者は我々の生活を助くる者が快楽であって、これを妨ぐる者が苦痛であるという。生活とは生物の本性の発展であって、即ち自己の統一の維持である、やはり統一を助くる者が快楽で、これを害する者が苦痛であるというのと同一である。
前にいったように精神は実在の統一作用であって、大なる精神は自然と一致するのであるから、我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。
第十章 実在としての神
これまで論じた所に由って見ると、我々が自然と名づけている所の者も、精神といっている所の者も、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由って起る区別である。自然を深く理解せば、その根柢において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在はかつていったように、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である、一言にていえば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直(ただち)に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。
いずれの時代でも、いずれの人民でも、神という語をもたない者はない。しかし知識の程度および要求の差異に由って種々の意義に解せられている。いわゆる宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちて而(しか)もこの宇宙を支配する偉大なる人間の如き者と考えている。しかし此(かく)の如き神の考は甚だ幼稚であって、啻(ただ)に今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上においても此の如き神と我々人間とは内心における親密なる一致を得ることはできぬと考える。しかし今日の極端なる科学者のように、物体が唯一の実在であって物力が宇宙の根本であると考えることもできぬ。上にいったように、実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度(インド)宗教の根本義であるようにアートマンとブラハマン[#「ハ」は小書き]とは同一である。神は宇宙の大精神である。
古来神の存在を証明するに種々の議論がある。或者はこの世界は無より始まることはできぬ、何者かこの世界を作った者がなければならぬ、かくの如き世界の創造者が神であるという。即ち因果律に基づいてこの世界の原因を神であるとするのである。或者はこの世界は偶然に存在する者ではなくして一々意味をもった者である、即ち或一定の目的に向って組織せられたものであるという事実を根拠として、何者か斯(かく)の如き組織を与えた者がなければならぬと推論し、此の如き宇宙の指導者が即ち神であるという、即ち世界と神との関係を芸術の作品と芸術家の如くに考えるのである。これらは皆知識の方より神の存在を証明し、かつその性質を定めんとする者であるが、そのほか全く知識を離れて、道徳的要求の上より神の存在を証明せんとする者がある。これらの人のいう所に由れば、我々人間には道徳的要求なる者がある、即ち良心なる者がある、然るにもしこの宇宙に勧善懲悪の大主宰者が無かったならば、我々の道徳は無意義のものとなる、道徳の維持者として是非、神の存在を認めねばならぬというのである、カントの如きはこの種の論者である。しかしこれらの議論は果して真の神の存在を証明し得るであろうか。世界に原因がなければならぬから、神の存在を認めねばならぬというが、もし因果律を根拠としてかくの如くいうならば、何故に更に一歩を進んで神の原因を尋ぬることはできないか。神は無始無終であって原因なくして存在するというならば、この世界も何故にそのように存在するということはできないか。また世界が或目的に従うて都合よく組織せられてあるという事実から、全智なる支配者がなければならぬと推理するには、事実上宇宙の万物が尽(ことごと)く合目的に出来て居るということを証明せねばならぬ、しかしこは頗(すこぶ)る難事である。もしかくの如きことが証明せられねば、神の存在が証明できぬというならば、神の存在は甚だ不確実となる。或人はこれを信ずるであろうが、或人はこれを信ぜぬであろう。且つこの事が証明せられたとしても我々はこの世界が偶然に斯く合目的に出来たものと考えることを得るのである。道徳的要求より神の存在を証明せんとするのは、尚更に薄弱である。全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ。此の如き考は単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神その者を自己の直接経験において直にこれを証明したのではない。
然らば我々の直接経験の事実上において如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。即ち無限なる実在の統一力が潜んでいる、我々はこの力を有するが故に学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現わすことができる、我々は自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神その者を証明するのである。ヤコブ・ベーメのいったように翻(ひるがえ)されたる眼
umgewandtes Auge を以て神を見るのである。 神を外界の事実の上に求めたならば、神は到底仮定の神たるを免れない。また宇宙の外に立てる宇宙の創造者とか指導者とかいう神は真に絶対無限なる神とはいわれない。上古における印度の宗教および欧州の十五、六世紀の時代に盛であった神秘学派は神を内心における直覚に求めている、これが最も深き神の知識であると考える。
神は如何なる形において存在するか、一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいったように凡(すべ)ての否定である、これといって肯定すべき者即ち捕捉すべき者は神でない、もしこれといって捕捉すべき者ならば已(すで)に有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである(De
docta ignorantia, Cap. 24)。この点より見て神は全く無である。然らば神は単に無であるかというに決してそうではない。実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いている。実在は実にこれに由って成立するのである。たとえば三角形の凡ての角の和は二直角であるというの理は何処にあるのであるか、我々は理その者を見ることも聞くこともできない、而(しか)もここに厳然として動かすべからざる理が存在するではないか。また一幅の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺(しんいんひょうびょう)として霊気人を襲う者あるを見る、而もその中の一物一景についてその然る所以(ゆえん)の者を見出さんとしても到底これを求むることはできない。神はこれらの意味における宇宙の統一者である、実在の根本である、ただその能(よ)く無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。
数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理も何らの知識を与えず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名画も何らの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、何らの意味もないように感ぜられる、従って宗教などを無用視している。真正の神を知らんと欲する者は是非自己をそれだけに修錬して、これを知り得るの眼を具えねばならぬ。かくの如き人には宇宙全体の上に神の力なる者が、名画の中における画家の精神の如くに活躍し、直接経験の事実として感ぜられるのである。これを見神の事実というのである。
上来述べたる所を以て見ると、神は実在統一の根本という如き冷静なる哲学上の存在であって、我々の暖き情意の活動と何らの関係もないように感ぜらるるかも知らぬが、その実は決してそうではない。曩(さき)にいったように、我々の欲望は大なる統一を求むるより起るので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というも畢竟(ひっきょう)此の如き統一的要求にすぎないのである。然るに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するものではない。更に進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むるようになる。我々の他愛とはかくの如くして起ってくる超個人的統一の要求である。故に我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。
第三編 善
第一章 行為 上
実在は如何なる者であるかということは大略説明したと思うから、これより我々人間は何を為すべきか、善とは如何なる者であるか、人間の行動は何処に帰着すべきかというような実践的問題を論ずることとしよう。而(しか)して人間の種々なる実践的方面の現象は凡(すべ)て行為という中に総括することができると思うから、これらの問題を論ずるに先だち、先ず行為とは如何なる者であるかということを考えて見ようと思う。
行為というのは、外面から見れば肉体の運動であるが、単に水が流れる石が落つるというような物体的運動とは異なっている。一種の意識を具えた目的のある運動である。しかし単に有機体において現われる所の目的はあるが全く無意識である種々の反射運動や、稍(やや)高等なる動物において見るような目的あり且つ多少意識を伴うが、未だ目的が明瞭に意識されて居らぬ本能的動作とも区別せねばならぬ。行為とは、その目的が明瞭に意識せられている動作の謂(いい)である。我々人間も肉体を具えているからは種々の物体的運動もあり、また反射運動、本能的動作もなすことはあるが、特に自己の作用というべき者はこの行為にかぎられているのである。
この行為には多くの場合において外界の運動即ち動作を伴うのであるが、無論その要部は内界の意識現象にあるのであるから、心理学上行為とは如何なる意識現象であるかを考えて見よう。行為とは右にいったように意識されたる目的より起る動作のことで、即ちいわゆる有意的動作の謂である。但し行為といえば外界の動作をも含めていうが、意志といえば主として内面的意識現象をさすので、今行為の意識現象を論ずるということは即ち意志を論ずるということになるのである。さて意志は如何にして起るか。元来我々の身体は大体において自己の生命を保持発展する為に自ら適当なる運動をなすように作られて居り、意識はこの運動に副うて発生するので、始は単純なる苦楽の情である。然るに外界に対する観念が次第に明瞭となり且つ聯想作用が活溌になると共に、前の運動は外界刺戟に対して無意識に発せずして、先ず結果の観念を想起し、これよりその手段となるべき運動の観念を伴い、而して後運動に移るという風になる、即ち意志なる者が発生するのである。夫(それ)で意志の起るには先ず運動の方向、意識上にていえば聯想の方向を定むる肉体的若しくは精神的の素因というものがなければならぬ。この者は意識の上には一種の衝動的感情として現われてくる。こはその生受的なると後得的なるとを問わず意志の力とも称すべき者で、爰(ここ)にこれを動機と名づけて置く。次に経験に由りて得、聯想に由りて惹起せられたる結果の観念即ち目的、詳しくいえば目的観念という者が右の動機に伴わねばならぬ。この時漸く意志の形が成立するので、これを欲求と名づけ、即ち意志の初位である。この欲求がただ一つであった時には運動の観念を伴うて動作に発するのであるが、欲求が二つ以上あった時にはいわゆる欲求の競争なる者が起って、そのうち最も有力なる者が意識の主位を占め、動作に発するようになる。これを決意という。我々の意志というのはかかる意識現象の全体をさすのであるが、時には狭義においてはいよいよ動作に移る瞬間の作用或は特に決意の如き者をいうこともある。行為の要部は実にこの内面的意識現象たる意志にあるので、外面の動作はその要部ではない。何らかの障碍の為め動作が起らなかったとしても、立派に意志があったのであればこれを行為ということができ、これに反し、動作が起っても充分に意志がなかったならばこれを行為ということはできぬ。意識の内面的活動が盛になると、始より意識内の出来事を目的とする意志が起ってくる。かかる場合においても勿論行為と名づけることができる。心理学者は内外というように区別をするが意識現象としては全然同一の性質を具えているのである。
右に述べたところは単に行為の要部たる意志の過程を記載したのにすぎないから、今一歩を進んで、意志は如何なる性質の意識現象で、意識の中において如何なる地位を占める者であるかを説明して見よう。心理学から見れば、意志は観念統一の作用である。即ち統覚の一種に属すべき者である。意識における観念結合の作用には二種あって、一つは観念結合の原因が主として外界の事情に存し、意識においては結合の方向が明(あきらか)でなく、受動的と感ぜらるるので、これを聯想といい、一つは結合の原因が意識内にあり、結合の方向が明に意識せられており、意識が能動的に結合すると感ぜらるるので、これを統覚という。然るに右にいったように、意志とは先ず観念結合の方向を定むる目的観念なる者があって、これより従来の経験にて得たる種々の運動観念の中について自己の実現に適当なる観念の結合を構成するので、全く一の統覚作用である。斯く意志が観念統一の作用であるということは、欲求の競争の場合において益々明となる。いわゆる決意とはこの統一の終結にすぎないのである。
然らばこの意志の統覚作用と他の統覚作用とは如何なる関係において立ちおるのであるか。意志の外に思惟、想像の作用も同じく統覚作用に属している。これらの作用においても或統一的観念が本となって、これよりその目的に合うように観念を統一するので、観念活動の形式においては全く意志と同一である。ただその統一の目的が同じくなく、従って統一の法則が異なっているから、各(おのおの)相異なった意識の作用と考えられているのである。しかし今一層精細に何点において異なり何点において同じきかを考究して見よう。先ず想像と意志とを比較して見ると、想像の目的は自然の模擬であって、意志の目的は自身の運動である。従って想像においては自然の真状態に合うように観念を統一し、意志では自己の欲望に合うように統一するのである。しかし精しく考えて見ると、意志の運動の前には必ず先ず一度その運動を想像せねばならず、また自然を想像するには自分が先ずその物になって考えて見なければならぬ。ただ想像というものはどうしても外物を想像するので、自己が全くこれと一致することができず、従って自己の現実でないというような感がする。即ち或事を想像するというのとこれを実行するというのとはどうしても異なるように思われるのである。しかし更に一歩を進めて考えて見ると、こは程度の差であって性質の差ではない。想像も美術家の想像において見るが如く入神の域に達すれば、全く自己をその中に没し自己と物と全然一致して、物の活動が直(ただち)に自己の意志活動と感ぜらるるようにもなるのである。次に思惟と意志とを比較して見ると、思惟の目的は真理にあるので、その観念結合を支配する法則は論理の法則である。我々は真理とする所の者を必ず意志するとは限らない、また意志する所の者が必ず真理であるとは考えておらぬ。しかのみならず、思惟の統一は単に抽象的概念の統一であるが、意志と想像とは具体的観念の統一である。これらの点において思惟と意志とは一見明に区別があって、誰もこれを混ずる者はないのであるがまた能く考えて見ると、この区別も左程に明確にして動かすべからざるものではない。意志の背後にはいつでも相当の理由が潜んでいる。その理由は完全ならざるにせよ、とにかく意志は或真理の上に働くものである、即ち思惟に由って成立するのである。これに反し、王陽明が知行同一を主張したように真実の知識は必ず意志の実行を伴わなければならぬ。自分はかく思惟するが、かくは欲せぬというのは未だ真に知らないのである。斯(か)く考えて見ると、思惟、想像、意志の三つの統覚はその根本においては同一の統一作用である。そのうち思惟および想像は物および自己の凡てに関する観念に対する統一作用であるが、意志は特に自己の活動のみに関する観念の統一作用である。これに反し、前者は単に理想的、即ち可能的統一であるが、後者は現実的統一である、即ち統一の極致であるということができる。
已(すで)に意志の統覚作用における地位を略述した所で、今度は他の観念的結合、即ち聯想および融合との関係を述べよう。聯想については曩(さき)に、その観念結合の方向を定むる者は外界にありて内界にないといったが、これは単に程度の上より論じたので、聯想においてもその統一作用が全く内にないとはいわれない。ただ明に意識上に現われぬまでである。融合に至っては観念の結合が更に無意識であって、結合作用すら意識しないのであるが、それとて決して内面的統一がないのではない。これを要するに意識現象は凡て意志と同一の形式を具えていて、凡て或意味における意志であるということができる、而してこれらの統一作用の根本となる統一力を自己と名づくるならば、意志はその中にて最も明に自己を発表したものである。それで我々は意志活動において最も明に自己を意識するのである。
第二章 行為 下
これまでは心理学上より、行為とは如何なる意識現象であるかを論じたのであるが、これより行為の本たる意志の統一力なるものが何処より起るか、実在の上においてこの力は如何なる意義をもっているかの問題を論じ、哲学上意志および行為の性質を明(あきらか)にして置こうと思う。
或定まれる目的に由りて内より観念を統一するという意志の統一とは果して何より起るのであるか。物質の外に実在なしという科学者の見地より見れば、この力は我々の身体より起るというの外なかろう。我々の身体は動物のそれと同じく、一の体系をなせる有機体である。動物の有機体は精神の有無に関せず、神経系統の中枢において機械的に種々の秩序立ちたる運動をなすことができる。即ち反射運動、自動運動、更に複雑なる本能的動作をなすことができるのである。我々の意志も元はこれらの無意識運動より発達し来(きた)ったもので、今でも意志が訓練せられた時にはまたこれらの無意識運動の状態に還るのであるから、つまり同一の力に基づいて起る同一種の運動であると考えるの外はない。而(しか)して有機体の種々の目的は凡(すべ)て自己および自己の種属における生活の維持発展ということに帰するのであるから、我々の意志の目的も生活保存の外になかろう。ただ意志においては目的が意識せられているので、他と異なって見えるのみである。それで科学者は我々人間における種々高尚なる精神上の要求をも皆この生活の目的より説明しようとするのである。
しかし斯(か)く意志の本を物質力に求め、微妙幽遠なる人生の要求を単に生活欲より説明しようとするのは頗(すこぶ)る難事である。たとい高尚なる意志の発達は同時に生活作用の隆盛を伴うものとしても、最上の目的は前者にありて後者にあるのではあるまい。後者はかえって前者の手段と考えねばならぬのであろう。しかし姑(しばら)くこれらの議論は後にして、もし科学者のいうように我々の意志は有機体の物質的作用より起る者とするならば、物質は如何なる能力を有するものと仮定せねばならぬであろうか。有機体の合目的運動が物質より起るというには二つの考え方がある。一つは自然を合目的なる者と見て、生物の種子においての如く、物質の中にも合目的力を潜勢的に含んでおらねばならぬとするので、一つは物質は単に機械力をのみ具するものと見て、合目的なる自然現象は凡(すべ)て偶然に起るものとするのである。厳密なる科学者の見解はむしろ後者にあるのであるが、余はこの二つの見解が同一の考え方であって、決してその根柢までを異にせるものではないと思う。後者の見解にしてもどこかに或一定不変の現象を起す力があると仮定せねばならぬ。機械的運動を生ずるにはこれを生ずる力が物体の中に潜在すると仮定せねばならぬ。かくいいうるならば、何故に同じ理由に由りて有機体の合目的力を物体の中に潜在すると考えることができぬか。或は有機体の合目的運動の如きは、かかる力を仮定せずとも、更に簡単なる物理化学の法則に由りて説明することが出来るという者もあろう。しかしかくいえば、今日の物理化学の法則もなお一層簡単なる法則に由りて説明ができるかも知れぬ。否知識の進歩は無限であるから必ず説明されねばならぬと思う。かく考うれば真理は単に相対的である。余はむしろこの考を反対となし、分析よりも綜合に重きを置いて、合目的なる自然が個々の分立より綜合にすすみ、階段を踏んで己(おのれ)が真意を発揮すると見るのが至当であると思う。
更に余が曩(さき)に述べた実在の見方に由れば、物体というのは意識現象の不変的関係に名づけた名目にすぎないので、物体が意識を生ずるのではなく、意識が物体を作るのである。最も客観的なる機械的運動という如き者も我々の論理的統一に由りて成立するので、決して意識の統一を離れたものではない。これより進んで生物の生活現象となり、更に進んで動物の意識現象となるに従って、その統一はいよいよ活溌となり多方面となり且つ深遠となるのである。意志は我々の意識の最も深き統一力であって、また実在統一力の最も深遠なる発現である。外面より見て単に機械的運動であり生活現象の過程であるものが、その内面の真意義においては意志であるのである。恰(あたか)も単に木であり石であると思っていたものが、その真意義においては慈悲円満なる仏像であり、勇気満々たる仁王であるが如く、いわゆる自然は意志の発現であって、我々は自己の意志を通して幽玄なる自然の真意義を捕捉することができるのである。固(もと)より現象を内外に分ち精神現象と物体現象とが全く異なれる現象と見做(みな)す時は、右の如き説は空想に止まるように思われるかも知れぬが、直接経験における具体的事実には内外の別なく、斯(かく)の如き考がかえって直接の事実であるのである。
右に述べし所は物体の機械的運動、有機体の合目的をもって意志と根本を一つにし作用を同じうすると見る科学者のいう所と一致するのであるが、しかしその根本とする所の者は全く正反対である。彼は物質力を以て本となし、これは意志を以て本とするのである。
この考に由れば、前に行為を分析して意志と動作の二としたのであるが、この二者の関係は原因と結果との関係ではなく、むしろ同一物の両面である。動作は意志の表現である。外より動作と見らるる者が内より見て意志であるのである。
第三章 意志の自由
意志は心理的にいえば意識の一現象たるに過ぎないが、その本体においては実在の根本であることを論じた。今この意志が如何なる意味において自由の活動であるかを論じて見よう。意志が自由であるか、はたまた必然であるかは久しき以来学者の頭を悩ました問題である。この議論は道徳上大切であるのみならず、これに由りて意志の哲学的性質をも明(あきらか)にすることができるのである。
先ず我々が普通に信ずる所に由って見れば、誰も自分の意志が自由であると考えぬ者はない。自分が自分の意識について経験する所では、或範囲において或事を為すこともできればまた為さぬこともできる。即ち或範囲内においては自由であると信じている。これが為に責任、無責任、自負、後悔、賞讃、非難等の念が起ってくるのである。しかしこの或範囲内ということを今少しく詳しく考えて見よう。凡(すべ)て外界の事物に属する者は我々はこれを自由に支配することはできぬ。自己の身体すらもどこまでも自由に取扱うことができるとはいわれない。随意筋肉の運動は自由のようであるが、一旦病気にでもかかればこれを自由に動かすことはできぬ。自由にできるというのは単に自己の意識現象である。しかし自己の意識内の現象とても、我々は新に観念を作り出す自由も持たず、また一度経験した事をいつでも呼び起す自由すらも持たない。真に自由と思われるのはただ観念結合の作用あるのみである。即ち観念を如何に分析し、如何に綜合するかが自己の自由に属するのである。勿論この場合においても観念の分析綜合には動かすべからざる先在的法則なる者があって、勝手にできるのではなく、また観念間の結合が唯一であるか、または或結合が特に強盛であった時には、我々はどうしてもこの結合に従わねばならぬのである。ただ観念成立の先在的法則の範囲内において、而(しか)も観念結合に二つ以上の途があり、これらの結合の強度が強迫的ならざる場合においてのみ、全然選択の自由を有するのである。
自由意志論を主張する人は、多くこの内界経験の事実を根拠として立論するのである。右の範囲内において動機を選択決定するのは全く我々の自由に属し、我々の他に理由はない、この決定は外界の事情または内界の気質、習慣、性格より独立せる意志という一の神秘力に由るものと考えている。即ち観念の結合の外にこれを支配する一の力があると考えている。これに反し、意志の必然論を主張する人は大概外界における事実の観察を本としてこれより推論するのである。宇宙の現象は一として偶然に起る者はない、極めて些細なる事柄でも、精しく研究すれば必ず相当の原因をもっている。この考は凡て学問と称するものの根本的思想であって、且つ科学の発達と共に益々この思想が確実となるのである。自然現象の中にて従来神秘的と思われていたものも、一々その原因結果が明瞭となって、数学的に計算ができるようにまで進んできた。今日の所でなお原因がないなどと思われているものは我々の意志くらいである。しかし意志といってもこの動かすべからざる自然の大法則の外に脱することはできまい。今日意志が自由であると思うているのは、畢竟(ひっきょう)未だ科学の発達が幼稚であって、一々この原因を説明することができぬ故である。しかのみならず、意志的動作も個々の場合においては、実に不規則であって一見定まった原因がないようであるが、多数の人の動作を統計的に考えて見ると案外秩序的である、決して一定の原因結果がないとは見られない。これらの考は益々我々の意志に原因があるという確信を強くし、我々の意志は凡ての自然現象と同じく、必然なる機械的因果の法則に支配せらるる者で、別に意志という一種の神秘力はないという断案に到達するのである。
さてこの二つの反対論の孰(いず)れが正当であろうか。極端なる自由意志論者は右にいったように、全く原因も理由もなく、自由に動機を決定する一の神秘的能力があるという。しかしかかる意義において意志の自由を主張するならば、そは全く誤謬(ごびゅう)である。我々が動機を決する時には、何か相当の理由がなければならぬ。たとい、これが明瞭に意識の上に現われておらぬにしても、意識下において何か原因がなければならぬ。また若しこれらの論者のいうように、何らの理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあったならば、我々はこの時意志の自由を感じないで、かえってこれを偶然の出来事として外より働いた者と考えるのである。従ってこれに対し責任を感ずることが薄いのである。自由意志論者が内界の経験を本として議論を立つるというが、内界の経験はかえって反対の事実を証明するのである。
次に必然論者の議論について少しく批評を下して見よう。この種の論者は自然現象が機械的必然の法則に支配せらるるから、意識現象もその通りでなければならぬというのであるが、元来この議論には意識現象と自然現象(換言すれば物体現象)とは同一であって、同一の法則に由って支配せらるべきものであるという仮定が根拠となっている。しかしこの仮定は果して正しきものであろうか。意識現象が物体現象と同一の法則に支配せらるべきものか否かは未定の議論である。斯(かく)の如き仮定の上に立つ議論は甚だ薄弱であるといわねばならぬ。たとい今日の生理的心理学が非常に進歩して、意識現象の基礎たる脳の作用が一々物理的および化学的に説明ができたとしても、これに由りて意識現象は機械的必然法に因って支配せらるべき者であると主張することができるだろうか。たとえば一銅像の材料たる銅は機械的必然法の支配の外に出でぬであろうが、この銅像の現わす意味はこの外に存するではないか。いわゆる精神上の意味なるものは見るべからず聞くべからず数うべからざるものであって、機械的必然法以外に超然たるものであるといわねばならぬ。
これを要するに、自由意志論者のいうような全く原因も理由もない意志はどこにもない。かくの如き偶然の意志は決して自由と感ぜられないで、かえって強迫と感ぜらるるのである。我々が或理由より働いた時即ち自己の内面的性質より働いた時、かえって自由であると感ぜられるのである。つまり動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。しかしそのいわゆる意志の理由なる者は必然論者のいうような機械的原因ではない。我々の精神には精神活動の法則がある。精神がこの己(おのれ)自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである。自由には二つの意義がある。一は全く原因がない即ち偶然ということと同意義の自由であって、一は自分が外の束縛を受けない、己自らにて働く意味の自由である。即ち必然的自由の意義である。意志の自由というのは、後者における意味の自由である。しかしここにおいて次の如き問題が起ってくるであろう。自己の性質に従うて働くのが自由であるというならば、万物皆自己の性質に従って働かぬ者はない、水の流れるのも火の燃えるのも皆自己の性質に従うのである。然るに何故に他を必然として、独り意志のみ自由となすのであるか。
いわゆる自然界においては、或一つの現象の起るのはその事情に由りて厳密に定められている。或定まった事情よりは、或定まった一の現象を生ずるのみであって、毫釐(ごうり)も他の可能性を許さない。自然現象は皆かくの如き盲目的必然の法則に従うて生ずるのである。然るに意識現象は単に生ずるのではなくして、意識されたる現象である。即ち生ずるのみならず、生じたことを自知しているのである。而してこの知るといい意識するということは即ち他の可能性を含むということである。我々が取ることを意識するということはその裏面に取らぬという可能性を含むというの意味である。更に詳言すれば、意識には必ず一般的性質の者がある、即ち意識は理想的要素をもっている。これでなければ意識ではない。而してこれらの性質があるということは、現実のかかる出来事の外更に他の可能性を有しているというのである。現実にして而も理想を含み、理想的にして而も現実を離れぬというのが意識の特性である。真実にいえば、意識は決して他より支配される者ではない、常に他を支配しているのである。故に我々の行為は必然の法則に由りて生じたるにせよ、我々はこれを知るが故にこの行為の中に窘束(きんそく)せられておらぬ。意識の根柢たる理想の方より見れば、この現実は理想の特殊なる一例にすぎない。即ち理想が己自身を実現する一過程にすぎない。その行為は外より来たのではなく、内より出でたるのである。また斯(かく)の如く現実を理想の一例にすぎないと見るから、他にいくらも可能性を含むこととなるのである。
それで意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、かえって自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能(よ)く理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むと共に益々自由の人となることができる。人は他より制せられ圧せられてもこれを知るが故に、この抑圧以外に脱しているのである。更に進んでよくその已むを得ざる所以(ゆえん)を自得すれば、抑圧がかえって自己の自由となる。ソクラテースを毒殺せしアゼンス人よりも、ソクラテースの方が自由の人である。パスカルも、「人は葦の如き弱き者である、しかし人は考える葦である、全世界が彼を滅さんとするも彼は彼が死することを、自知するが故に殺す者より尚(たっと)し」といっている。
意識の根柢たる理想的要素、換言すれば統一作用なる者は、かつて実在の編に論じたように、自然の産物ではなくして、かえって自然はこの統一に由りて成立するのである。こは実に実在の根本たる無限の力であって、これを数量的に限定することはできない。全然自然の必然的法則以外に存する者である。我々の意志はこの力の発現なるが故に自由である、自然的法則の支配は受けない。
第四章 価値的研究
凡(すべ)て現象或は出来事を見るに二つの点よりすることができる。一は如何にして起ったか、また何故にかくあらざるべからざるかの原因もしくは理由の考究であり、一は何の為に起ったかという目的の考究である。たとえばここに一個の花ありとせよ。こは如何にして出来たかといえば、植物と外囲の事情とにより、物理および化学の法則に因りて生じたものであるといわねばならず、何の為かといえば果実を結ぶ為であるということとなる。前者は単に物の成立の法則を研究する理論的研究であって、後者は物の活動の法則を研究する実践的研究である。
いわゆる無機界の現象にては、何故に起ったかという事はあるが、何の為ということはない、即ち目的がないといわねばならぬ。但この場合でも目的と原因とが同一となっているという事ができる。たとえば玉突台の上において玉を或力を以て或方向に突けば、必ず一定の方向に向って転るが、この時玉に何らの目的があるのではない。或はこれを突いた人には何か目的があるかも知れぬが、これは玉其者(そのもの)の内面的目的でない、玉は外界の原因よりして必然的に動かされるのである。しかしまた一方より考えれば、玉其物に斯(かく)の如き運動の力があればこそ玉は一定の方向に動くのである。玉其物の内面的力よりいえば、自己を実現する合目的作用とも見ることができる。更に進んで動植物に至ると、自己の内面的目的という者が明(あきらか)になると共に、原因と目的とが区別せらるるようになる。動植物に起る現象は物理および化学の必然的法則に従うて起ると共に、全然無意義の現象ではない。生物全体の生存および発達を目的とした現象である。かかる現象にありては或原因の結果として起った者が必ずしも合目的とはいわれない、全体の目的と一部の現象とは衝突を来(きた)す事がある。そこで我々は如何なる現象が最も目的に合うているか、現象の価値的研究をせねばならぬようになる。
生物の現象ではまだ、その統一的目的なる者が我々人間の外より加えた想像にすぎないとしてこれを除去することもできぬではない。即ち生物の現象は単に若干の力の集合に依りて成れる無意義の結合と見做(みな)すこともできるのである。独り我々の意識現象に至っては、決してかく見ることはできない、意識現象は始より無意義なる要素の結合ではなくして、統一せる一活動である。思惟、想像、意志の作用よりその統一的活動を除去したならば、これらの現象は消滅するのである。これらの作用については、如何にして起るかというよりも、如何に考え、如何に想像し、如何に為すべきかを論ずるのが、第一の問題である。ここにおいて論理、審美、倫理の研究が起って来る。
或学者の中には存在の法則よりして価値の法則を導き出そうとする人もある。しかし我々は単にこれよりこれが生ずるということから、物の価値的判断を導き出すことは出来ぬと思う。赤き花はかかる結果を生じ、または青き花はかかる結果を生ずという原因結果の法則からして、何故にこの花は美にしてかの花は醜であるか、何故に一は大なる価値を有し、一はこれを有せぬかを説明することはできぬ。これらの価値的判断には、これが標準となるべき別の原理がなければならぬ。我々の思惟、想像、意志という如き者も、已(すで)に事実として起った上は、いかに誤った思惟でも、悪しき意志でも、また拙劣なる想像でも、尽(ことごと)くそれぞれ相当の原因に因って起るのである。人を殺すという意志も、人を助くるの意志も皆或必然の原因ありて起り、また必然の結果を生ずるのである。この点においては両者少しも優劣がない。ただここに良心の要求とか、または生活の欲望という如き標準があって、始めてこの両行為の間に大なる優劣の差異を生ずるのである。或論者は大なる快楽を与うる者が大なる価値を有するものであるというように説明して、これに由りて原因結果の法則より価値の法則を導き得たように考えている。併し何故に或結果が我々に快楽を与え、或結果が我々に快楽を与えぬか、こは単に因果の法則より説明はできまい。我々が如何なるものを好み、如何なるものを悪(にく)むかは、別に根拠を有する直接経験の事実である。心理学者は我々の生活力を増進する者は快楽であるという、しかし生活力を増進するのが何故に快楽であるか、厭世家はかえって生活が苦痛の源であるとも考えているではないか。また或論者は有力なる者が価値ある者であると考えている。しかし人心に対し如何なる者が最も有力であるか、物質的に有力なる者が必ずしも人心に対して有力なる者とはいえまい、人心に対して有力なる者は最も我々の欲望を動かす者、即ち我々に対して価値ある者である。有力に由りて価値が定まるのではない、かえって価値に由りて有力と否とが定まるのである。凡て我々の欲望または要求なる者は説明しうべからざる、与えられたる事実である。我々は生きる為に食うという、しかしこの生きる為というのは後より加えたる説明である。我々の食欲はかかる理由より起ったのではない。小児が始めて乳をのむのもかかる理由の為ではない、ただ飲む為に飲むのである。我々の欲望或は要求は啻(ただ)にかくの如き説明しうべからざる直接経験の事実であるのみならず、かえって我々がこれに由って実在の真意を理解する秘鑰(ひやく)である。実在の完全なる説明は、単に如何にして存在するかの説明のみではなく何の為に存在するかを説明せねばならぬ。
第五章 倫理学の諸説 その一
已(すで)に価値的研究とは如何なる者なるかを論じたので、これより善とは如何なるものであるかの問題に移ることとしよう。我々は上にいったように我々の行為について価値的判断を下す、この価値的判断の標準は那辺(なへん)にあるか、如何なる行為が善であって、如何なる行為が悪であるか、これらの倫理学的問題を論じようと思うのである。かかる倫理学の問題は我々に取りて最も大切なる問題である。いかなる人もこの問題を疎外することはできぬ。東洋においてもまた西洋においても、倫理学は最も古き学問の一であって、従って古来倫理学に種々の学説があるから、今先ずこの学における主なる学派の大綱をあげかつこれに批評を加えて、余が執らんとする倫理学説の立脚地を明かにしようと思う。
古来の倫理学説を大別すると、大体二つに別れる。一つは他律的倫理学説というので、善悪の標準を人性以外の権力に置こうとする者と、一つは自律的倫理学説といって、この標準を人性の中に求めようとするのである。外になお直覚説というのがある、この説の中には色々あって、或者は他律的倫理学説の中に入ることができるが、或者は自律的倫理学説の中に入らねばならぬものである。今先ず直覚説より始めて順次他に及ぼうと思う。
この学説の中には種々あるが、その綱領とする所は我々の行為を律すべき道徳の法則は直覚的に明(あきらか)なる者であって、他に理由があるのではない、如何なる行為が善であり、如何なる行為が悪であるかは、火は熱にして、水は冷なるを知るが如く、直覚的に知ることができる、行為の善悪は行為その者の性質であって、説明すべき者でないというのである。なるほど我々の日常の経験について考えて見ると、行為の善悪を判断するのは、かれこれ理由を考えるのではなく、大抵直覚的に判断するのである。いわゆる良心なる者があって、恰も眼が物の美醜を判ずるが如く、直(ただち)に行為の善悪を判ずることができるのである。直覚説はこの事実を根拠とした者で、最も事実に近い学説である。しかのみならず、行為の善悪は理由の説明を許さぬというのは、道徳の威厳を保つ上において頗(すこぶ)る有効である。
直覚説は簡単であって実践上有効なるにも拘らず、これを倫理学説として如何ほどの価値があるであろうか。直覚説において直覚的に明であるというのは、人性の究竟(くっきょう)的目的という如きものではなくて、行為の法則である。勿論直覚説の中にも、凡(すべ)ての行為の善悪が個々の場合において直覚的に明であるというのと、個々の道徳的判断を総括する根本的道徳法が直覚的に明瞭であるというのと二つあるが、いずれにしても或直接自明なる行為の法則があるというのが直覚説の生命である。しかし我々が日常行為について下す所の道徳的判断、即ちいわゆる良心の命令という如き者の中に、果して直覚論者のいう如き直接自明で、従って正確で矛盾のない道徳法なる者を見出しうるであろうか。先ず個々の場合について見るに、決してかくの如き明確なる判断のないことは明である。我々は個々の場合において善悪の判断に迷うこともあり、今は是(ぜ)と考えることも後には非と考えることもあり、また同一の場合でも、人に由りて大に善悪の判断を異にすることもある。個々の場合において明確なる道徳的判断があるなどとは少しく反省的精神を有する者の到底考えることができないことである。然らば一般の場合においては如何(いかん)、果して論者のいう如き自明の原則なる者があるであろうか。第一にいわゆる直覚論者が自明の原則として掲げている所の者が人に由りて異なり決して常に一致することなきことが、一般に認めらるべき程の自明の原則なる者がないことを証明している。しかのみならず、世事が自明の義務として承認しているものの中より、一もかかる原則を見出すことはできぬ。忠孝という如きことは固より当然の義務であるが、その間には種々衝突もあり、変遷もあり、さていかにするのが真の忠孝であるか、決して明瞭ではない。また智勇仁義の意義について考えて見ても、いかなる智いかなる勇が真の智勇であるか、凡ての智勇が善とはいわれない、智勇がかえって悪の為に用いられることもある。仁と義とはその内で最も自明の原則に近いのであるが、仁はいつ如何なる場合においても、絶対的に善であるとはいわれない、不当の仁はかえって悪結果を生ずることもある。また正義といっても如何なる者が真の正義であるか、決して自明とはいわれない、たとえば人を待遇するにしても、如何にするのが正当であるか、単に各人の平等ということが正義でもない、かえって各人の価値に由るが正義である。然るにもし各人の価値に由るとするならば、これを定むる者は何であるか。要するに我々は我々の道徳的判断において、一も直覚論者のいう如き自明の原則をもっておらぬ。時に自明の原則と思われるものは、何らの内容なき単に同意義なる語を繰返せる命題にすぎないのである。
右に論じた如く、直覚説はその主張する如き、善悪の直覚を証明することができないとすれば、学説としては甚だ価値少きものであるが、今仮にかかる直覚があるものとして、これに由りて与えられたる法則に従うのが善であるとしたならば、直覚説は如何なる倫理学説となるであろうかを考えて見よう。純粋に直覚といえば、論者のいう如く理性に由りて説明することができない、また苦楽の感情、好悪の欲求に関係のない、全く直接にして無意義の意識といわねばならぬ。もしかくの如き直覚に従うのが善であるとすれば、善とは我々に取りて無意義の者であって、我々が善に従うのは単に盲従である、即ち道徳の法則は人性に対して外より与えられたる抑圧となり、直覚説は他律的倫理学と同一とならねばならぬ。然るに多くの直覚論者は右の如き意味における直覚を主張しておらぬ。或者は直覚を理性と同一視している、即ち道徳の根本的法則が理性に由りて自明なる者と考えている。しかしかくいえば善とは理に従う事であって、善悪の区別は直覚に由って明なるのではなく、理に由りて説明しうることとなる。また或直覚論者は直覚と直接の快不快、または好悪ということを同一視している。しかしかく考えれば善は一種の快楽または満足を与うるが故に善であるので、即ち善悪の標準は快楽または満足の大小ということに移って来る。かくの如く直覚なる語の意味に由って、直覚説は他の種々なる倫理学説と接近する。勿論純粋なる直覚説といえば、全く無意義の直覚を意味するのでなければならぬのであるが、斯(かく)の如き倫理学説は他律的倫理学と同じく、何故に我々は善に従わねばならぬかを説明することはできぬ。道徳の本は全く偶然にして無意味の者となる。元来我々が実際に道徳的直覚といっている者の中には種々の原理を含んでいるのである。その中全く他の権威より来る他律的の者もあれば、理性より来れる者また感情および欲求より来れる者をも含んでいる。これいわゆる自明の原則なる者が種々の矛盾衝突に陥る所以(ゆえん)である。かかる混雑せる原理を以て学説を設立する能わざることは明である。
第六章 倫理学の諸説 その二
前に直覚説の不完全なることを論じ、かつ直覚の意義に由りて、種々相異なれる学説に変じうることをのべた。今純粋なる他律的倫理学、即ち権力説について述べようと思う。この派の論者は、我々が道徳的善といっている者が、一面において自己の快楽或は満足という如き人性の要求と趣を異にし、厳粛な命令の意味を有する辺に着目し、道徳は吾人に対し絶大なる威厳または勢力を有する者の命令より起ってくるので、我々が道徳の法則に従うのは自己の利害得失の為ではなく、単にこの絶大なる権力の命令に従うのである、善と悪とは一に此(かく)の如き権力者の命令に由って定まると考えている。凡(すべ)て我々の道徳的判断の本は師父の教訓、法律、制度、習慣等に由りて養成せられたる者であるから、かかる倫理学説の起るのも無理ならぬことであって、この説はちょうど前の直覚説における良心の命令に代うるに外界の権威を以てした者である。
この種の学説において外界の権力者と考えられる者は、勿論自ら我々に対して絶大の威厳勢力をもった者でなければならぬ。倫理学史上に現われたる権力説の中では、君主を本としたる君権的権力説と、神を本としたる神権的権力説との二種がある。神権的倫理学は基督(キリスト)教が無上の勢力をもっていた中世時代に行われたので、ドゥンス・スコトゥスなどがその主張者である。氏に従えば神は我々に対し無限の勢力を有するものであって、而(しか)も神意は全く自由である。神は善なる故に命ずるのでもなく、また理の為になすのでもない、神は全くこれらの束縛以外に超越している。善なるが故に神これを命ずるのではなく、神これを命ずるが故に善なるのである。氏は極端にまでこの説を推論して、もし神が我々に命ずるに殺戮(さつりく)を以てしたならば、殺戮も善となるであろうとまでにいった。また君権的権力説を主張したのは近世の始に出た英国のホッブスという人である。氏に従えば人性は全然悪であって弱肉強食が自然の状態である。これより来る人生の不幸を脱するのは、ただ各人が凡ての権力を一君主に托して絶対にその命令に服従するにある。それで何でもこの君主の命に従うのが善であり、これに背(そむ)くのが悪であるといっている。その他シナにおいて荀子(じゅんし)が凡て先王の道に従うのが善であるといったのも、一種の権力説である。
右の権力説の立場より厳密に論じたならば、如何なる結論に達するであろうか。権力説においては何故に我々は善をなさねばならぬかの説明ができぬ、否説明のできぬのが権力説の本意である。我々はただ権威であるからこれに従うのである。何か或理由の為にこれに従うならば、已(すで)に権威その者の為に従うのではなく、理由の為に従うこととなる。或人は恐怖ということが権威に従う為の最適当なる動機であるという、併し恐怖ということの裏面には自己の利害得失ということを含んでいる。しかしもし自己の利害の為に従うならば已に権威の為に従うのではない。ホッブスの如きはこれが為に純粋なる権威説の立脚地を離れている。また近頃最も面白く権威説を説明したキルヒマンの説に由ると、我々は何でも絶大なる勢力を有するもの、たとえば高山、大海の如き者に接する時は、自らその絶大なる力に打たれて驚動の情を生ずる、この情は恐怖でもなく、苦痛でもなく、自己が外界の雄大なる事物に擒(とりこ)にせられ、これに平服し没入するの状態である。而(しか)してこの絶大なる勢力者がもし意志をもった者であるならば、自らここに尊敬の念を生ぜねばならぬ、即ちこの者の命令には尊敬の念を以て服従するようになる、それで尊敬の念ということが、権威に従う動機であるといっている。しかし能く考えて見ると、我々が他を尊敬するというのは、全然故なくして尊敬するのではない、我々は我々の達する能わざる理想を実現し得たる人なるが故に尊敬するのである。単に人その者を尊敬するのではなく理想を尊敬するのである。禽獣(きんじゅう)には釈迦も孔子も半文銭の価値もないのである。それで厳密なる権力説では道徳は全く盲目的服従でなければならぬ。恐怖というも、尊敬というも、全く何らの意義のない盲目的感情でなければならぬ。エソップの寓話の中に、或時鹿の子が母鹿の犬の声に怖れて逃げるのを見て、お母さんは大きな体をして何故に小さい犬の声に駭(おどろ)いて逃げるのであるかと問うた。所が母鹿は何故かは知らぬが、ただ犬の声が無暗にこわいから逃げるのだといったという話がある。かくの如き無意義の恐怖が権力説において最も適当なる道徳的動機であると考える。果してかかる者であるならば、道徳と知識とは全く正反対であって、無知なる者が最も善人である。人間が進歩発達するには一日も早く道徳の束縛を脱せねばならぬということになる。またいかなる善行でも権威の命令に従うという考なく、自分がその為さざるべからざる所以(ゆえん)を自得して為したことは道徳的善行でないということとなる。
権威説よりはかくの如く道徳的動機を説明することができぬばかりでなく、いわゆる道徳法というものも殆ど無意義となり、従って善悪の区別も全く標準がなくなってくる。我々はただ権威なる故に盲目的にこれに服従するというならば、権威には種々の権威がある。暴力的権威もあれば、高尚なる精神的権威もある。しかしいずれに従うのも権威に従うのであるから、斉(ひと)しく一であるといわねばならぬ。即ち善悪の標準は全く立たなくなる。勿論力の強弱大小というのが標準となるように思われるが、力の強弱大小ということも、何か我々が理想とする所の者が定まって、始めてこれを論じ得るのである。耶蘇(ヤソ)とナポレオンとはいずれが強いか、そは我々の理想の定めように由るのである。もし単に世界に存在する力をもっている者が有力であるというならば、腕力をもった者が最も有力ということにもなる。
西行法師が「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさになみだこぼるる」と詠じたように、道徳の威厳は実にその不測の辺に存するのである。権威説のこの点に着目したのは一方の真理を含んではいるが、これが為に全然人性自然の要求を忘却したのは、その大なる欠点である。道徳は人性自然の上に根拠をもった者で、何故に善をなさねばならぬかということは人性の内より説明されねばならぬ。
第七章 倫理学の諸説 その三
他律的倫理学では、上にいったように、どうしても何故に我々は善を為さねばならぬかを説明することができぬ。善は全く無意義の者となるのである。そこで我々は道徳の本を人性の中に求めねばならぬようになってくる。善は如何なる者であるか、何故に善を為さねばならぬかの問題を、人性より説明せねばならぬようになってくる。かくの如き倫理学を自律的倫理学という。これには三種あって、一つは理性を本とする者で合理説または主知説といい、一つは苦楽の感情を本とする者で快楽説といい、また一つは意志の活動を本とする者で活動説という。今先ず合理説より話そう。
合理的若しくは主知的倫理学 dianoetic ethics というのは、道徳上の善悪正邪ということと知識上の真偽ということとを同一視している。物の真相が即ち善である、物の真相を知れば自ら何を為さねばならぬかが明(あきらか)となる、我々の義務は幾何学的真理の如く演繹(えんえき)しうる者であると考えている。それで我々は何故に善を為さねばならぬかといえば、真理なるが故であるというのである。我々人間は理性を具しておって、知識において理に従わねばならぬように、実行においても理に従わねばならぬのである(ちょっと注意しておくが、理という語には哲学上色々の意味があるが、ここに理というのは普通の意味における抽象的概念の関係をいうのである)。この説は一方においてはホッブスなどのように、道徳法は君主の意志に由りて左右し得る随意的の者であるというに反し、道徳法は物の性質であって、永久不変なることを主張し、また一方では、善悪の本を知覚または感情の如き感受性に求むる時は、道徳法の一般性を説明することができず、義務の威厳を滅却し、各人の好尚を以て唯一の標準とせねばならぬようになるのを恐れて、理の一般性に基づいて、道徳法の一般性を説明し義務の威厳を立せんとしたのである。この説は往々前にいった直覚説と混同せらるることが多いが、直覚ということは必ずしも理性の直覚と限るには及ばぬ。この二者は二つに分って考えた方がよいと思う。
余は合理説の最醇なる者はクラークの説であると考える。氏の考に依れば、凡(すべ)て人事界における物の関係は数理の如く明確なる者で、これに由りて自ら物の適当不適当を知ることができるという。たとえば神は我々より無限に優秀なる者であるから、我々はこれに服従せねばならぬとか、他人が己に施(ほどこ)して不正なる事は自分が他人に為しても不正であるというような訳である。氏はまた何故に人間は善を為さねばならぬかを論じて、合理的動物は理に従わざるべからずといっている。時としては、正義に反して働かんとする者は物の性質を変ぜんと欲するが如き者であるとまでにいって、全く「ある」ということと「あらねばならぬ」ということを混同している。
合理説が道徳法の一般性を明にし、義務を厳粛ならしめんとするは可なれども、これを以て道徳の全豹(ぜんぴょう)を説き得たるものとなすことはできぬ。論者のいうように、我々の行為を指導する道徳法なる者が、形式的理解力によりて先天的に知りうる者であろうか。純粋なる形式的理解力は論理学のいわゆる思想の三法則という如き、単に形式的理解の法則を与うることはできるが、何らの内容を与うることはできぬ。論者は好んで例を幾何学に取るが、幾何学においても、その公理なる者は単に形式的理解力に由りて、明になったのではなく、空間の性質より来るのである。幾何学の演繹的推理は空間の性質についての根本的直覚に、論理法を応用したものである。倫理学においても、已(すで)に根本原理が明となった上はこれを応用するには、論理の法則に由らねばならぬのであろうが、この原則その者は論理の法則に由って明になったのではない。たとえば汝の隣人を愛せよという道徳法は単に理解力に由りて明であるであろうか。我々に他愛の性質もあれば、また自愛の性質もある。然るに何故にその一が優っていて他が劣っているのであろうか、これを定むる者は理解力ではなくして、我々の感情または欲求である。我々は単に知識上に物の真相を知り得たりとしても、これより何が善であるかを知ることはできぬ。かくあるということより、かくあらねばならぬということを知ることはできぬ。クラークは物の真相より適不適を知ることができるというが、適不適ということは已に純粋なる知識上の判断ではなくして、価値的判断である。何か求むる所の者があって、然る後適不適の判断が起ってくるのである。
次に論者は何故に我々は善を為さねばならぬかということを説明して、理性的動物なるが故に理に従わねばならぬという。理を解する者は知識上において理に従わねばならぬのは当然である。しかし単に論理的判断という者と意志の選択とは別物である。論理の判断は必ずしも意志の原因とはならぬ。意志は感情または衝動より起るもので、単に抽象的論理より起るものではない。己(おのれ)の欲せざる所人に施す勿(なか)れという格言も、もし同情という動機がなかったならば、我々に対して殆ど無意義である。もし抽象的論理が直(ただち)に意志の動機となり得るものならば、最も推理に長じた人は即ち最善の人といわねばならぬ。然るに事実は時にこれに反して知ある人よりもかえって無知なる人が一層善人であることは誰も否定することはできない。
曩(さき)には合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークはこの説の理論的方面の代表者であって、実行的方面を代表する者はいわゆる犬儒学派であろう。この派はソクラテースが善と知とを同一視するに基づき、凡ての情欲快楽を悪となし、これに打克(か)って純理に従うのを唯一の善となした、而(しか)もそのいわゆる理なる者は単に情欲に反するのみにて、何らの内容なき消極的の理である。道徳の目的は単に情欲快楽に克ちて精神の自由を保つということのみであった。有名なるディオゲネスの如きがその好模範である。その学派の後またストア学派なる者があって、同一の主義を唱道した。ストア学派に従えば、宇宙は唯一の理に由りて支配せらるる者で、人間の本質もこの理性の外にいでぬ、理に従うのは即ち自然の法則に従うのであって、これが人間において唯一の善である、生命、健康、財産も善ではなく、貧苦、病死も悪ではない、ただ内心の自由と平静とが最上の善であると考えた。その結果犬儒学派と同じく、凡ての情欲を排斥して単に無欲
Apathie たらんことを務むるようになった。エピクテートの如きはその好例である。
右の学派の如く、全然情欲に反対する純理を以て人性の目的となす時には、理論上においても何らの道徳的動機を与うることができぬように、実行上においても何らの積極的善の内容を与うることはできぬ。シニックスやストアがいったように、単に情欲に打克つということが唯一の善と考うるより外はない。しかし我々が情欲に打克たねばならぬというのは、更に何か大なる目的の求むべき者がある故である。単に情欲を制する為に制するのが善であるといえば、これより不合理なることはあるまい。
第八章 倫理学の諸説 その四
合理説は他律的倫理学に比すれば更に一歩をすすめて、人性自然の中より善を説明せんとする者である。しかし単に形式的理性を本としては、前にいったように、到底何故に善をなさざるべからざるかの根本的問題を説明することはできぬ。そこで我々が深く自己の中に反省して見ると、意志は凡(すべ)て苦楽の感情より生ずるので、快を求め不快を避けるというのが人情の自然で動かすべからざる事実である。我々が表面上全く快楽の為にせざる行為、たとえば身を殺して仁をなすという如き場合にても、その裏面について探って見ると、やはり一種の快楽を求めているのである。意志の目的は畢竟(ひっきょう)快楽の外になく、我々が快楽を以て人生の目的となすということは更に説明を要しない自明の真理である。それで快楽を以て人性唯一の目的となし、道徳的善悪の区別をもこの原理に由りて説明せんとする倫理学説の起るのは自然の勢である。これを快楽説という。この快楽説には二種あって、一つを利己的快楽説といい、他を公衆的快楽説という。
利己的快楽説とは自己の快楽を以て人生唯一の目的となし、我々が他人の為にするという場合においても、その実は自己の快楽を求めているのであると考え、最大なる自己の快楽が最大の善であるとなすのである。この説の完全なる代表者は希臘(ギリシャ)におけるキレーネ学派とエピクロースとである。アリスチッポスは肉体的快楽の外に精神的快楽のあることは許したが、快楽はいかなる快楽でも凡て同一の快楽である、ただ大なる快楽が善であると考えた。而(しか)して氏は凡て積極的快楽を尚(とうと)び、また一生の快楽よりもむしろ瞬間の快楽を重んじたので、最も純粋なる快楽説の代表者といわねばならぬ。エピクロースはやはり凡ての快楽を以て同一となし、快楽が唯一の善で、如何なる快楽も苦痛の結果を生ぜざる以上は、排斥すべきものにあらずと考えたが、氏は瞬間の快楽よりも一生の快楽を重しとし、積極的快楽よりもむしろ消極的快楽、即ち苦悩なき状態を尚んだ。氏の最大の善というのは心の平和
tranquility of mind ということである。しかし氏の根本主義はどこまでも利己的快楽説であって、希臘人のいわゆる四つの主徳、睿知(えいち)、節制、勇気、正義という如き者も自己の快楽の手段として必要であるのである。正義ということも、正義其者(そのもの)が価値あるのではなく、各人相犯さずして幸福を享(う)ける手段として必要なのである。この主義は氏の社会的生活に関する意見において最も明(あきらか)である。社会は自己の利益を得る為に必要なのである。国家は単に個人の安全を謀る為に存在するのである。もし社会的煩累を避けて而も充分なる安全を得ることができるならば、こは大に望むべき所である。氏の主義はむしろ隠遁主義
λαθε βιωσασ[#「λαθε」の「α」と「βιωσασ」の「ω」は鋭アクセント(´)付き。「βιωσασ」の語尾の「σ」はファイナルシグマ]
である。氏はこれに由りて、なるべく家族生活をも避けんとした。
次に公衆的快楽説、即ちいわゆる功利説について述べよう。この説は根本的主義においては全く前説と同一であるが、ただ個人の快楽を以て最上の善となさず、社会公衆の快楽を以て最上の善となす点において前説と異なっている。この説の完全なる代表者はベンザムである。氏に従えば人生の目的は快楽であって、善は快楽の外にない。而していかなる快楽も同一であって、快楽には種類の差別はない(留針押しの遊の快楽も高尚なる詩歌の快楽も同一である)、ただ大小の数量的差異あるのみである。我々の行為の価値は直覚論者のいうようにその者に価値があるのではなく、全くこれより生ずる結果に由りて定まるのである。即ち大なる快楽を生ずる行為が善行である。而して如何なる行為が最も大なる善行であるかといえば、氏は個人の最大幸福よりも多人数の最大幸福が快楽説の原則よりして道理上一層大なる快楽と考えねばならぬから、最大多数の最大幸福というのが最上の善であるといっている。またベンザムはこの快楽説に由りて、行為の価値を定むる科学的方法をも論じている。氏に従えば、快楽の価値は大抵数量的に定め得る者であって、たとえば強度、長短、確実、不確実等の標準に由りて快楽の計算ができると考えたのである。氏の説は快楽説として実に能(よ)く辻褄(つじつま)の合った者であるが、ただ一つ何故に個人の最大快楽ではなくて、最大多数の最大幸福が最上の善でなければならぬかの説明が明瞭でない。快楽にはこれを感ずる主観がなければなるまい。感ずる者があればこそ快楽があるのである。而してこの感ずる主というのはいつでも個人でなければならぬ。然らば快楽説の原則よりして何故に個人の快楽よりも多人数の快楽が上に置かれねばならぬのであるか。人間には同情というものがあるから己(おのれ)独り楽むよりは、人と共に楽んだ方が一層大なる快楽であるかも知れない、ミルなどはこの点に注目している。しかしこの場合においても、この同情より来る快楽は他人の快楽ではなく、自分の快楽である。やはり自己の快楽が唯一の標準であるのである。もし自己の快楽と他人の快楽と相衝突した場合は如何(いかん)。快楽説の立脚地よりしては、それでも自己の快楽をすてて他人の快楽を求めねばならぬということができるであろうか。エピクロースのように利己主義となるのが、かえって快楽説の必然なる結果であろう。ベンザムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じているが、かかる事は到底、経験的事実の上において証明はできまいと思う。
これまで一通り快楽説の主なる点をのべたので、これよりその批評に移ろう。先ず快楽説の根本的仮定たる快楽は人生唯一の目的であるということを承認した処で、果して快楽説に由りて充分なる行為の規範を与うることができるであろうか。厳密なる快楽説の立脚地より見れば、快楽は如何なる快楽でも皆同種であって、ただ大小の数量的差異あるのみでなければならぬ。もし快楽に色々の性質的差別があって、これに由りて価値が異なるものであるとするならば、快楽の外に別に価値を定むる原則を許さねばならぬこととなる。即ち快楽が行為の価値を定むる唯一の原則であるという主義と衝突する。ベンザムの後を受けたるミルは快楽に色々性質上の差別あることを許し、二種の快楽の優劣は、この二種を同じく経験し得る人は容易にこれを定めうると考えている。たとえば豕(ぶた)となりて満足するよりはソクラテースとなって不満足なることは誰も望む所である。而してこれらの差別は人間の品位の感
sense of dignity より来(きた)るものと考えている。しかしミルの如き考は明に快楽説の立脚地を離れたもので、快楽説よりいえば一の快楽が他の快楽より小なるに関せず、他の快楽よりも尚き者であるという事は許されない。さらばエピクロース、ベンザム諸氏の如く純粋に快楽は同一であってただ数量的に異なるものとして、如何にして快楽の数量的関係を定め、これに由りて行為の価値を定めることができるであろうか。アリスチッポスやエピクロースは単に知識に由りて弁別ができるといっているだけで、明瞭なる標準を与えてはおらぬ。独りベンザムは上にいったようにこの標準を詳論している。併し快楽の感情なる者は一人の人においても、時と場合とに由りて非常に変化し易い物である、一の快楽より他の快楽が強度において勝るかは頗(すこぶ)る明瞭でない。更に如何ほどの強度が如何ほどの継続に相当するかを定むるのは極めて困難である。一人の人においてすらかく快楽の尺度を定むるのは困難であって見れば公衆的快楽説のように他人の快楽をも計算して快楽の大小を定めんとするのは尚更困難である。普通には凡て肉体の快楽より精神の快楽が上であると考えられ、富より名誉が大切で、己一人の快楽より多人数の快楽が尚いなどと、伝説的に快楽の価値が定まっているようであるが、かかる標準は種々なる方面の観察よりできたもので、決して単純なる快楽の大小より定まったものとは思われない。
右は快楽説の根本的原理を正しきものとして論じたのであるが、かくして見ても、快楽説に由りて我々の行為の価値を定むべき正確なる規範を得ることは頗る困難である。今一歩を進めてこの説の根本的原理について考究して見よう。凡て人は快楽を希望し、快楽が人生唯一の目的であるとはこの説の根本的仮定であって、またすべての人のいう所であるが、少しく考えて見ると、その決して真理でないことが明である。人間には利己的快楽の外に、高尚なる他愛的または理想的の欲求のあることは許さねばなるまい。たとえば己の欲を抑えても、愛する者に与えたいとか、自己の身を失っても理想を実行せねばならぬというような考は誰の胸裡(きょうり)にも多少は潜みおるのである。時あってこれらの動機が非常なる力を現わし来り、人をして思わず悲惨なる犠牲的行為を敢(あえ)てせしむることも少くない。快楽論者のいうように人間が全然自己の快楽を求めているというのは頗(すこぶ)る穿(うが)ち得たる真理のようであるが、かえって事実に遠ざかったものである。勿論快楽論者もこれらの事実を認めないのではないが、人間がこれらの欲望を有しこれが為に犠牲的行為を敢てするのも、つまり自己の欲望を満足せんとするので、裏面より見ればやはり自己の快楽を求むるにすぎないと考えているのである。しかしいかなる人もまたいかなる場合でも欲求の満足を求めているということは事実であるが、欲求の満足を求むる者が即ち快楽を求むる者であるとはいわれない。いかに苦痛多き理想でもこれを実行し得た時には、必ず満足の感情を伴うのである。而してこの感情は一種の快楽には相違ないが、これが為にこの快感が始より行為の目的であったとはいわれまい。かくの如き満足の快感なる者が起るには、先ず我々に自然の欲求という者がなければならぬ。この欲求があればこそ、これを実行して満足の快楽を生ずるのである。然るにこの快感あるが為に、欲求は凡て快楽を目的としているというのは、原因と結果とを混同したものである。我々人間には先天的に他愛の本能がある。これあるが故に、他を愛するということは我々に無限の満足を与うるのである。しかしこれが為に自己の快楽の為に他を愛したのだとはいわれない。毫釐(ごうり)にても自己の快楽の為にするという考があったならば、決して他愛より来る満足の感情をうることができないのである。啻(ただ)に他愛の欲求ばかりではなく、全く自愛的欲求といわれている者も単に快楽を目的としている者はない。たとえば食色の欲も快楽を目的とするというよりは、かえって一種先天的本能の必然に駆られて起るものである。飢えたる者はかえって食欲のあるを悲み、失恋の人はかえって愛情あるを怨(うら)むであろう。人間もし快楽が唯一の目的であるならば、人生ほど矛盾に富んだ者はなかろう。むしろ凡て人間の欲求を断ち去った方がかえって快楽を求むるの途である。エピクロースが凡ての欲を脱したる状態、即ち心の平静を以て最上の快楽となし、かえって正反対の原理より出立したストイックの理想と一致したのもこの故である。
しかし或快楽論者では、我々が今日快楽を目的としない自然の欲求であると思うている者でも、個人の一生または生物進化の経過において、習慣に由りて第二の天性となったので、元は意識的に快楽を求めた者が無意識となったのであると論じている。即ち快楽を目的とせざる自然の欲求というのは、つまり快楽を得る手段であったのが、習慣に由って目的其者となったというのである(ミルなどはこれについてよく金銭の例を引いている)。成程我々の欲求の中には此(かく)の如き心理的作用に由って第二の天性となった者もあるであろう。しかし快楽を目的とせざる欲求は尽(ことごと)くかかる過程に由りて生じたものとはいわれない。我々の精神はその身体と同じく生れながらにして活動的である。種々の本能をもっている。鶏の子が生れながら籾(もみ)を拾い、鶩(あひる)の子が生れながら水に入るのも同理である。これらの本能と称すべき者が果して遺伝に由って、元来意識的であった者が無意識的習慣となったのであろうか。今日の生物進化の説に由れば、生物の本能は決してかかる過程に由って出来たものではない。元来生物の卵において具有した能力であって、事情に適する者が生存して遂に一種特有なる本能を発揮するに至ったのである。
上来論じ来ったように、快楽説は合理説に比すれば一層人性の自然に近づきたる者であるが、この説に由れば善悪の判別は単に苦楽の感情に由りて定めらるることとなり、正確なる客観的標準を与うることができず、且つ道徳的善の命令的要素を説明することはできない。しかのみならず、快楽を以て人生の唯一の目的となすのは未だ真に人性自然の事実に合ったものといわれない。我々は決して快楽に由りて満足することはできない。もし単に快楽のみを目的とする人があったならばかえって人性に悖(もと)った人である。
第九章 善(活動説)
已(すで)に善についての種々の見解を論じ且つその不充分なる点を指摘したので、自ら善の真正なる見解は如何なるものであるかが明(あきらか)になったと思う。我々の意志が目的とせなければならない善、即ち我々の行為の価値を定むべき規範はどこにこれを求めねばならぬか。かつて価値的判断の本を論じた所にいったように、この判断の本は是非これを意識の直接経験に求めねばならぬ。善とはただ意識の内面的要求より説明すべき者であって外より説明すべき者でない。単に事物はかくあるまたはかくして起ったということより、かくあらねばならぬということを説明することはできぬ。真理の標準もつまる所は意識の内面的必然にあって、アウグスチヌスやデカートの如き最も根本に立ち返って考えた人は皆ここより出立したように、善の根本的標準もまたここに求めねばならぬ。然るに他律的倫理学の如きは善悪の標準を外に求めようとしている。かくしては到底善の何故に為さざるべからざるかを説明することはできぬ。合理説が意識の内面的作用の一である理性より善悪の価値を定めようとするのは、他律的倫理学説に比して一歩を進めた者ということはできるが、理は意志の価値を定むべきものではない。ヘフディングが「意識は意志の活動を以て始まりまたこれを以て終る」といったように、意志は抽象的理解の作用よりも根本的事実である。後者が前者を起すのではなく、かえって前者が後者を支配するのである。然らば快楽説は如何(いかん)、感情と意志とは殆ど同一現象の強度の差異といってもよい位であるが、前にいったように快楽はむしろ意識の先天的要求の満足より起る者で、いわゆる衝動、本能という如き先天的要求が快不快の感情よりも根本的であるといわねばならぬ。
それで善は何であるかの説明は意志其者(そのもの)の性質に求めねばならぬことは明である。意志は意識の根本的統一作用であって、直(ただち)にまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は他の為の活動ではなく、己(おのれ)自らの為の活動である。意志の価値を定むる根本は意志其者の中に求むるより外はないのである。意志活動の性質は、嚮(さき)に行為の性質を論じた時にいったように、その根柢には先天的要求(意識の素因)なる者があって、意識の上には目的観念として現われ、これによりて意識の統一するにあるのである。この統一が完成せられた時、即ち理想が実現せられた時我々に満足の感情を生じ、これに反した時は不満足の感情を生ずるのである。行為の価値を定むる者は一にこの意志の根本たる先天的要求にあるので、能(よ)くこの要求即ち吾人の理想を実現し得た時にはその行為は善として賞讃せられ、これに反した時は悪として非難せられるのである。そこで善とは我々の内面的要求即ち理想の実現換言すれば意志の発展完成であるということとなる。斯(かく)の如き根本的理想に基づく倫理学説を活動説
energetism という。 この説はプラトー、アリストテレースに始まる。特にアリストテレースはこれに基づいて一つの倫理を組織したのである。氏に従えば人生の目的は幸福
eudaimonia である。しかしこれに達するには快楽を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである。
世のいわゆる道徳家なる者は多くこの活動的方面を見逃している。義務とか法則とかいって、徒(いたず)らに自己の要求を抑圧し活動を束縛するのを以て善の本性と心得ている。勿論不完全なる我々はとかく活動の真意義を解せず岐路に陥る場合が多いのであるから、かかる傾向を生じたのも無理ならぬことであるが、一層大なる要求を攀援(はんえん)すべき者があってこそ、小なる要求を抑制する必要が起るのである、徒らに要求を抑制するのはかえって善の本性に悖(もと)ったものである。善には命令的威厳の性質をも具えておらねばならぬが、これよりも自然的好楽というのが一層必要なる性質である。いわゆる道徳の義務とか法則とかいうのは、義務或は法則其者(そのもの)に価値があるのではなく、かえって大なる要求に基づいて起るのである。この点より見て善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、かえってアリストテレースのいったように善は幸福であるということができる。我々が自己の要求を充すまたは理想を実現するということは、いつでも幸福である。善の裏面には必ず幸福の感情を伴うの要がある。ただ快楽説のいうように意志は快楽の感情を目的とする者で、快楽が即ち善であるとはいわれない。快楽と幸福とは似て非なる者である。幸福は満足に由りて得ることができ、満足は理想的要求の実現に起るのである。孔子が「疎食(そし)を飯(くら)ひ、水を飲み、肱(ひじ)を曲げて之を枕とす、楽も亦其の中に在り」といわれたように、我々は場合に由りては苦痛の中にいてもなお幸福を保つことができるのである。真正の幸福はかえって厳粛なる理想の実現に由りて得らるべき者である。世人は往々自己の理想の実現または要求の満足などいえば利己主義または我儘(わがまま)主義と同一視している。しかし最も深き自己の内面的要求の声は我々に取りて大なる威力を有し、人生においてこれより厳なるものはないのである。
さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想という者は何から起ってくるので、善とは如何なる性質の者であるか。意志は意識の最深なる統一作用であって即ち自己其者の活動であるから、意志の原因となる本来の要求或は理想は要するに自己其者の性質より起るのである、即ち自己の力であるといってもよいのである。我々の意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢には内面的統一なる者が働いているので、意識現象は凡(すべ)てこの一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、意志は最も能(よ)くこの力を発表したものである。かく考えて見れば意志の発展完成は直に自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成
self-realization であるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆる
entelechie が善である)。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂(いい)に外ならず」といった。
ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂である。それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。善は即ち美である。たとい行為その者は大なる人性の要求から見て何らの価値なき者であっても、その行為が真にその人の天性より出でたる自然の行為であった時には一種の美感を惹(ひ)くように、道徳上においても一種寛容の情を生ずるのである。希臘人(ギリシャじん)は善と美とを同一視している。この考は最も能くプラトーにおいて現われている。
また一方より見れば善の概念は実在の概念とも一致してくる。かつて論じたように、一の者の発展完成というのが凡て実在成立の根本的形式であって、精神も自然も宇宙も皆この形式において成立している。して見れば、今自己の発展完成であるという善とは自己の実在の法則に従うの謂である。即ち自己の真実在と一致するのが最上の善ということになる。そこで道徳の法則は実在の法則の中に含まるるようになり、善とは自己の実在の真性より説明ができることとなる。いわゆる価値的判断の本である内面的要求と実在の統一力とは一つであって二つあるのではない。存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分つ抽象的作用よりくるので、具体的真実在においてはこの両者は元来一であるのである。乃(すなわ)ち善を求め善に遷(うつ)るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。合理論者が真と善とを同一にしたのも一面の真理を含んでいる。しかし抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。これらの考は希臘においてプラトーまた印度(インド)においてウパニシャッドの根本的思想であって、善に対する最深の思想であると思う(プラトーでは善の理想が実在の根本である、また中世哲学においても「すべての実在は善なり」
omne ens est bonum という句がある)。
第十章 人格的善
前には先ず善とは如何なる者でなければならぬかを論じ、善の一般の概念を与えたのであるが、これより我々人間の善とは如何なる者であるかを考究し、これが特徴を明(あきらか)にしようと思う。我々の意識は決して単純なる一の活動ではなく、種々なる活動の綜合であることは誰にも明なる事実である。して見ると、我々の要求なる者も決して単純ではない、種々なる要求のあるのが当然である。然らばこれらの種々なる要求の中で、いずれの要求を充すのが最上の善であるか。我々の自己全体の善とは如何なる者であるかの問題が起ってくる。
我々の意識現象には一つも孤独なる者がない、必ず他と関係の上において成立するのである。一瞬の意識でも已(すで)に単純でない、その中に複雑なる要素を含んでいる。而(しか)してこれらの要素は互に独立せるものではなくして、彼此(ひし)関係上において一種の意味をもった者である。啻(ただ)に一時の意識が斯(かく)の如く組織せられてあるのみではなく、一生の意識もまた斯の如き一体系である。自己とはこの全体の統一に名づけたのである。
して見ると、我々の要求というのも決して孤独に起るものではない。必ず他との関係上において生じてくるのである。我々の善とは或一種または一時の要求のみを満足するの謂(いい)でなく、或一つの要求はただ全体との関係上において始めて善となることは明である。たとえば身体の善はその一局部の健康でなくして、全身の健全なる関係にあると同一である。それで活動説より見て、善とは先ず種々なる活動の一致調和或は中庸ということとならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用ということとなる。
調和が善であるというのはプラトーの考であった。氏は善を音楽の調和に喩(たと)えておる。英のシャフツベリなどもこの考を取っている。また中庸が善であるというのはアリストテレースの説であって、東洋においては『中庸』の書にも現われて居る。アリストテレースは凡(すべ)て徳は中庸にあるとなし、たとえば勇気は粗暴と怯弱(きょうじゃく)との中庸で、節倹は吝嗇(りんしょく)と浪費との中庸であるといった。能く子思(しし)の考に似ている。また進化論の倫理学者スペンサーの如きが、善は種々なる能力の平均であるといっているのも、つまり同一の意味である。
しかし、単に調和であるとか中庸であるとかいったのでは未だ意味が明瞭でない。調和とは如何なる意味においての調和であるか、中庸とは如何なる意味においての中庸であるか。意識は同列なる活動の集合ではなくして統一せられたる一体系である。その調和または中庸ということは、数量的の意味ではなくして体系的秩序の意味でなければならぬ。然らば我々の精神の種々なる活動における固有の秩序は如何なるものであるか。我々の精神もその低き程度においては動物の精神と同じく単に本能活動である。即ち目前の対象に対して衝動的に働くので、全く肉欲に由りて動かされるのである。しかし意識現象はいかに単純であっても必ず観念の要求を具えて居る。それで意識活動がいかに本能的といっても、その背後に観念活動が潜んで居らねばならぬ(動物でも高等なる者は必ずそうであろうと思う)。いかなる人間でも白痴の如き者にあらざる以上は、決して純粋に肉体的欲望を以て満足する者ではない、必ずその心の底には観念的欲望が働いている。即ちいかなる人も何らかの理想を抱いて居る。守銭奴の利を貪(むさぼ)るのも一種の理想より来るのである。つまり人間は肉体の上において生存しているのではなく、観念の上において生命を有して居るのである。ゲーテの菫(すみれ)という詩に、野の菫が少(わか)き牧女に踏まれながら愛の満足を得たというようなことがある。これが凡ての人間の真情であると思う。そこで観念活動というのは精神の根本的作用であって、我々の意識はこれに由りて支配せらるべき者である。即ちこれより起る要求を満足するのが我々の真の善であるといわねばならぬ。然らば更に一歩を進んで、観念活動の根本的法則とは如何なる者であるかといえば、即ち理性の法則ということとなる。理性の法則というのは観念と観念との間の最も一般的なる且つ最も根本的なる関係を言い現わした者で、観念活動を支配する最上の法則である。そこでまた理性という者が我々の精神を支配すべき根本的能力で、理性の満足が我々の最上の善である。何でも理に従うのが人間の善であるということになる。シニックやストイックはこの考を極端に主張した者で、これが為に凡て人心の他の要求を悪として排斥し、理にのみ従うのが一の善であるとまでにいった。しかしプラトーの晩年の考やアリストテレースでは理性の活動より起るのが最上の善であるが、またこれより他の活動を支配し統御するのも善であるといった。
プラトーは有名なる『共和国』において人心の組織を国家の組織と同一視し、理性に統御せられた状態が国家においても個人においても最上の善といっている。
もし我々の意識が種々なる能力の綜合より成っていて、その一が他を支配すべきように構成せられてある者ならば、活動説における善とは右にいった如く理性に従うて他を制御するにあるといわねばならぬ。しかし我々の意識は元来一の活動である。その根柢にはいつでも唯一の力が働いている。知覚とか衝動とかいう瞬間的意識活動にも已にこの力が現われて居る。更に進んで思惟、想像、意志という如き意識的活動に至れば、この力が一層深遠なる形において現われてくる。我々が理性に従うというのも、つまりこの深遠なる統一力に従うの意に外ならない。然らずして抽象的に考えた単に理性というものは、かつて合理説を評した処に述べたように、何らの内容なき形式的関係を与うるにすぎないのである。この意識の統一力なる者は決して意識の内容を離れて存するのではない、かえって意識内容はこの力に由って成立するものである。勿論意識の内容を個々に分析して考うる時は、この統一力を見出すことはできぬ。しかしその綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである。たとえば画面に現われたる一種の理想、音楽に現われたる一種の感情の如き者で、分析理解すべき者ではなく、直覚自得すべき者である。而して斯の如き統一力をここに各人の人格と名づくるならば、善は斯の如き人格即ち統一力の維持発展にあるのである。
ここにいわゆる人格の力とは単に動植物の生活力という如き自然的物力をさすのではない。また本能という如き無意識の能力をさすのでもない。本能作用とは有機作用より起る一種の物力である。人格とはこれに反し意識の統一力である。しかしかくいえばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主観的なる種々の希望の如き者をいうのではない。これらの希望は幾分かその人の人格を現わす者であろうが、かえってこれらの希望を没し自己を忘れたる所に真の人格は現われるのである。さらばとてカントのいったような全く経験的内容を離れ、各人に一般なる純理の作用という如き者でもない。人格はその人その人に由りて特殊の意味をもった者でなければならぬ。真の意識統一というのは我々を知らずして自然に現われ来る純一無雑の作用であって、知情意の分別なく主客の隔離なく独立自全なる意識本来の状態である。我々の真人格は此(かく)の如き時にその全体を現わすのである。故に人格は単に理性にあらず欲望にあらず況(いわ)んや無意識衝動にあらず、恰も天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった)。而してかつて実在の論に述べたように意識現象が唯一の実在であるとすれば、我々の人格とは直(ただち)に宇宙統一力の発動である。即ち物心の別を打破せる唯一実在が事情に応じ或特殊なる形において現われたものである。
我々の善とは斯の如き偉大なる力の実現であるから、その要求は極めて厳粛である。カントも「我々が常に無限の歎美と畏敬(いけい)とを以て見る者が二つある、一は上にかかる星斗爛漫(らんまん)なる天と、一は心内における道徳的法則である」といった。
第十一章 善行為の動機(善の形式)
上来論じた所を総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。而(しか)してこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根柢における無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するというはこの力に合一するの謂(いい)である。善はかくの如き者であるとすれば、これより善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思う。
右の考よりして先ず善行為とは凡(すべ)て人格を目的とした行為であるということは明(あきらか)である。人格は凡ての価値の根本であって、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値をもっているのである。我々には固より種々の要求がある、肉体的欲求もあれば精神的欲求もある、従って富、力、知識、芸術等種々貴ぶべき者があるに相違ない。しかしいかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何らの価値を有しない、ただ人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有するのである。富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其者(そのもの)を目的とした即ち意識統一其者の為に働いた行為でなければならぬ。
カントに従えば、物は外よりその価値を定めらるるのでその価値は相対的であるが、ただ我々の意志は自ら価値を定むるもので、即ち人格は絶対的価値を有している。氏の教は誰も知る如く汝および他人の人格を敬し、目的其者
end in itself として取扱えよ、決して手段として用うる勿(なか)れということであった。
然らば真に人格其者(そのもの)を目的とする善行為とは如何なる行為でなければならぬか。この問に答うるには人格活動の客観的内容を論じ、行為の目的を明にせねばならぬのであるが、先ず善行為における主観的性質即ちその動機を論ずることとしよう。善行為とは凡て自己の内面的必然より起る行為でなければならぬ。曩(さき)にもいったように、我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる。人格とはかかる場合において心の奥底より現われ来(きた)って、徐(おもむろ)に全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格其者を目的とする善行とは斯(かく)の如き要求に従った行為でなければならぬ。これに背(そむ)けば自己の人格を否定した者である。至誠とは善行に欠くべからざる要件である。キリストも天真爛漫嬰児(えいじ)の如き者のみ天国に入るを得るといわれた。至誠の善なるのは、これより生ずる結果の為に善なるのでない、それ自身において善なるのである。人を欺くのが悪であるというは、これより起る結果に由るよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。
自己の内面的必然とか天真の要求とかいうのは往々誤解を免れない。或人は放縦無頼(ほうしょうぶらい)社会の規律を顧みず自己の情欲を検束せぬのが天真であると考えておる。しかし人格の内面的必然即ち至誠というのは知情意合一の上の要求である。知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に従うの謂ではない。自己の知を尽し情を尽した上において始めて真の人格的要求即ち至誠が現われてくるのである。自己の全力を尽しきり、殆ど自己の意識が無くなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見るのである。試に芸術の作品について見よ。画家の真の人格即ちオリジナリティは如何なる場合に現われるか。画家が意識の上において種々の企図をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随う所に至って始めてこれを見ることができるのである。道徳上における人格の発現もこれと異ならぬのである。人格を発現するのは一時の情欲に従うのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従うのである。放縦懦弱(だじゃく)とは正反対であって、かえって艱難(かんなん)辛苦の事業である。
自己の真摯(しんし)なる内面的要求に従うということ、即ち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消磨し尽して全然物と一致したる処に、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見る事ができるのである。一面より見れば各自の客観的世界は各自の人格の反影であるということができる。否各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系その者の外にはないのである。それで如何なる人でも、その人の最も真摯なる要求はいつでもその人の見る客観的世界の理想と常に一致したものでなければならぬ。たとえばいかに私欲的なる人間であっても、その人に多少の同情というものがあれば、その人の最大要求は、必ず自己の満足を得た上は他人に満足を与えたいということであろう。自己の要求というのは単に肉体的欲望とかぎらず理想的要求ということを含めていうならば、どうしてもかくいわねばならぬ。私欲的なればなる程、他人の私欲を害することに少なからざる心中の苦悶を感ずるのである。かえって私欲なき人にして甫(はじ)めて心を安んじて他人の私欲を破ることができるであろうと思う。それで自己の最大要求を充(みた)し自己を実現するということは、自己の客観的理想を実現するということになる、即ち客観と一致するということである。この点より見て善行為は必ず愛であるということができる。愛というのは凡て自他一致の感情である。主客合一の感情である。啻(ただ)に人が人に対する場合のみでなく、画家が自然に対する場合も愛である。
プラトーは有名な『シムポジューム』において「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。
しかし更に一歩を進めて考えて見ると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我と区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない(実在第九精神の章を参看せよ)。天地同根万物一体である。印度(インド)の古賢はこれを「それは汝である」
Tat twam asi といい、パウロは「もはや余生けるにあらず基督(キリスト)余に在(あ)りて生けるなり」といい(加拉太(ガラテア)書第二章二〇)、孔子は「心の欲する所に従うて矩(のり)を踰(こ)えず」といわれたのである。
第十二章 善行為の目的(善の内容)
人格その者を目的とする善行為を説明するについて、先ず善行為とは如何なる動機より発する行為でなければならぬかを示したが、これより如何なる目的をもった行為であるかを論じて見よう。善行為というのも単に意識内面の事にあらず、この事実界に或客観的結果を生ずるのを目的とする動作であるから、我々は今この目的の具体的内容を明(あきらか)にせねばならぬ。前に論じたのはいわば善の形式で、今論ぜんとするのは善の内容である。
意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、先ず我々の個人において実現せられる。我々の意識の根柢には分析のできない個人性というものがある。意識活動は凡(すべ)て皆個人性の発動である。各人の知識、感情、意志は尽(ことごと)くその人に特有なる性質を具えている。意識現象ばかりでなく、各人の容貌、言語、挙動の上にもこの個人性が現われている。肖像画の現わそうとするのは実にこの個人性である。この個人性は、人がこの世に生れると共に活動を始め死に至るまで種々の経験と境遇とに従うて種々の発展をなすのである。科学者はこれを脳の素質に帰するであろうが、余は屡々(しばしば)いったように実在の無限なる統一力の発現であると考える。それで我々は先ずこの個人性の実現ということを目的とせねばならぬ。即ちこれが最も直接なる善である。健康とか知識とかいうものは固(もと)より尚(とうと)ぶべき者である。しかし健康、知識其者(そのもの)が善ではない。我々は単にこれにて満足はできぬ。個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何(いかん)に関せず誰にでもできることである。いかなる人間でも皆各(おのおの)その顔の異なるように、他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。而(しか)してこの実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。従来世人はあまり個人的善ということに重きを置いておらぬ。しかし余は個人の善ということは最も大切なるもので、凡て他の善の基礎となるであろうと思う。真に偉人とはその事業の偉大なるが為に偉大なるのではなく、強大なる個人性を発揮した為である。高い処に登って呼べばその声は遠い処に達するであろうが、そは声が大きいのではない、立つ処が高いからである。余は自己の本分を忘れ徒(いたず)らに他の為に奔走した人よりも、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。
しかし余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。個人主義と利己主義とは厳しく区別しおかねばならぬ。利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまり我儘(わがまま)ということである。個人主義はこれと正反対である。各人が自己の物質欲を恣(ほしいまま)にするという事はかえって個人性を没することになる。豕(ぶた)が幾匹いてもその間に個人性はない。また人は個人主義と共同主義と相反対するようにいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ。
個人的善に最も必要なる徳は強盛なる意志である。イブセンのブラントの如き者が個人的道徳の理想である。これに反し意志の薄弱と虚栄心とは最も嫌うべき悪である(共に自重の念を失うより起るのである)。また個人に対し最大なる罪を犯したる者は失望の極自殺する者である。
右にいったように真正の個人主義は決して非難すべき者でない、また社会と衝突すべき者でもない。しかしいわゆる各人の個人性という者は各独立で互に無関係なる実在であろうか。或はまた我々個人の本には社会的自己なる者があって、我々の個人はその発現であろうか。もし前者ならば個人的善が我々の最上の善でなければならぬ。もし後者ならば我々には一層大なる社会の善があるといわねばならぬ。余はアリストテレースがその政治学の始に、人は社会的動物であるといったのは動かすべからざる真理であると思う。今日の生理学上から考えて見ると我々の肉体が已(すで)に個人的の者ではない。我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫と共に同一細胞の分裂に由りて生じた者である。生物の全種属を通じて同一の生物と見ることができる。生物学者は今日生物は死せずといっている。意識生活について見てもその通である。人間が共同生活を営む処には必ず各人の意識を統一する社会的意識なる者がある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等は凡てこの社会的意識の現象である。我々の個人的意識はこの中に発生しこの中に養成せられた者で、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。知識も道徳も趣味も凡て社会的意義をもっている。最も普遍的なる学問すらも社会的因襲を脱しない(今日各国に学風というものがあるのはこれが為である)。いわゆる個人の特性という者はこの社会的意識なる基礎の上に現われ来る多様なる変化にすぎない、いかに奇抜なる天才でもこの社会的意識の範囲を脱することはできぬ。かえって社会的意識の深大なる意義を発揮した人である(キリストの猶太教(ユダヤきょう)に対する関係がその一例である)。真に社会的意識と何らの関係なき者は狂人の意識の如きものにすぎぬ。
右の如き事実は誰も拒むことはできぬが、さてこの共同的意識なる者が個人的意識と同一の意味において存在する者で、一の人格と見ることができるか否かに至っては種々の異論がある。ヘッフディングなどは統一的意識の実在を否定し、「森は木の集合であってこれを分(わか)てば森なる者がない、社会も個人の集合で個人の外に社会という独立なる存在はない」といっている(Hoffding[#「o」はウムラウト(¨)付き],
Ethik, S. 157)。しかし分析した上で統一が実在せぬから統一がないとはいわれぬ。個人の意識でもこれを分析すれば別に統一的自己という者は見出されない。しかし統一の上に一つの特色があって、種々の現象はこの統一に由って成立する者と見做(みな)さねばならぬから、一つの生きた実在と看做(みな)すのである。社会的意識も同一の理由に由って一つの生きた実在と見ることができる。社会的意識にも個人的意識と同じように中心もある連絡もある立派に一の体系である。ただ個人的意識には肉体という一つの基礎がある。これは社会的意識と異なる点であるが、脳という者も決して単純なる物体でない、細胞の集合である。社会が個人という細胞に由って成っていると違う所はない。
かく社会的意識なる者があって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分は凡て社会的である。もし我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、殆ど何物も残らない位である。我々の生命欲も主なる原因は他愛にあるを以て見ても明である。我々は自己の満足よりもかえって自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。元来我々の自己の中心は個体の中に限られたる者ではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格が偉大となるに従うて、自己の要求が社会的となってくるのである。
これより少しく社会的善の階級を述べよう。社会的意識に種々の階級がある。そのうち最小であって、直接なる者は家族である、家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級といわねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は、単に子孫を遺(のこ)すというよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的をもっている。プラトーの『シムポジューム』の中に、元は男女が一体であったのが、神に由って分割されたので、今に及んで男女が相慕うのであるという話がある。これはよほど面白い考である。人類という典型より見たならば、個人的男女は完全なる人でない、男女を合した者が完全なる一人である。オットー・ヴァイニンゲルが「人間は肉体においても精神においても男性的要素と女性的要素との結合より成った者である、両性の相愛するのはこの二つの要素が合して完全なる人間となる為である」といっている。男子の性格が人類の完全なる典型でないように、女子の性格も完全なる典型ではあるまい。男女の両性が相補うて完全なる人格の発展ができるのである。
しかし我々の社会的意識の発達は家族というような小団体の中にかぎられたものではない。我々の精神的並に物質的生活は凡てそれぞれの社会的団体において発達することができるのである。家族に次いで我々の意識活動の全体を統一し、一人格の発現とも看做すべき者は国家である。国家の目的については色々の説がある。或人は国家の本体を主権の威力に置き、その目的は単に外は敵をふせぎ内は国民相互の間の生命財産を保護するにあると考えている(ショーペンハウエル、テーン、ホッブスなどはこれに属する)。また或人は国家の本体を個人の上に置き、その目的は単に個人の人格発展の調和にあると考えている(ルソーなどの説である)。しかし国家の真正なる目的は第一の論者のいうような物質的でまた消極的なものでなく、また第二の論者のいうように個人の人格が国家の基礎でもない。我々の個人はかえって一社会の細胞として発達し来ったものである。国家の本体は我々の精神の根柢である共同的意識の発現である。我々は国家において人格の大なる発展を遂げることができるのである。国家は統一した一の人格であって、国家の制度法律はかくの如き共同意識の意志の発現である(この説は古代ではプラトー、アリストテレース、近代ではヘーゲルの説である)。我々が国家の為に尽すのは偉大なる人格の発展完成の為である。また国家が人を罰するのは復讐(ふくしゅう)の為でもなく、また社会安寧の為でもない、人格に犯すべからざる威厳がある為である。
国家は今日の処では統一した共同的意識の最も偉大なる発現であるが、我々の人格的発現はここに止まることはできない、なお一層大なる者を要求する。それは即ち人類を打して一団とした人類的社会の団結である。此(かく)の如き理想は已にパウロの基督(キリスト)教においてまたストイック学派において現われている。しかしこの理想は容易に実現はできぬ。今日はなお武装的平和の時代である。
遠き歴史の初から人類発達の跡をたどって見ると、国家というものは人類最終の目的ではない。人類の発展には一貫の意味目的があって、国家は各その一部の使命を充す為に興亡盛衰する者であるらしい(万国史はヘーゲルのいわゆる世界的精神の発展である)。しかし真正の世界主義というは各国家が無くなるという意味ではない。各国家が益々強固となって各自の特徴を発揮し、世界の歴史に貢献するの意味である。
第十三章 完全なる善行
善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯(しんし)なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現われたる事実として見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのである。この両様の見解よりしてなお一つ重要なる問題を説明せねばならぬ必要が起って来る。内に大なる満足を与うる者が必ずまた事実においても大なる善と称すべき者であろうか。即ち善に対する二様の解釈はいつでも一致するであろうかの問題である。
余は先ずかつて述べた実在の論より推論して、この両見解は決して相矛盾衝突することがないと断言する。元来現象に内外の区別はない、主観的意識というも客観的実在界というも、同一の現象を異なった方面より見たので、具体的にはただ一つの事実があるだけである。しばしばいったように世界は自己の意識統一に由りて成立するといってもよし、また自己は実在の或特殊なる小体系といってもよい。仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根柢をもっている、否直(ただち)に同一物である。この故に我々は自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、皆実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。実在の真善美は直に自己の真善美でなければならぬ。然らば何故にこの世の中に偽醜悪があるかの疑が起るであろう。深く考えて見れば世の中に絶対的真善美という者もなければ、絶対的偽醜悪という者もない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全豹(ぜんぴょう)を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現われるのである(実在第五章においていったように、一面より見れば偽醜悪は実在成立に必要である、いわゆる対立的原理より生ずるのである)。
アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪という者はない、神より造られたる自然は凡(すべ)て善である、ただ本質の欠乏が悪である。また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った、影が画の美を増すが如く、もし達観する時は世界は罪を持ちながらに美である。
試(こころみ)に善の事実と善の要求との衝突する場合を考えて見ると二つあるのである。一は或行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一は動機は善であるが事実としては善でないというのである。先ず第一の場合について考えて見ると、内面的動機が私利私欲であって、ただ外面的事実において善目的に合うているとしても、決してそれが人格実現を目的とする善行といわれまい。我々は時にかかる行為をも賞讃することがあるであろう。しかしそは決して道徳の点より見たのでなく、単に利益という点より見たのである。道徳の点より見れば、かかる行為はたとい愚であっても己(おのれ)が至誠を尽した者に劣っている。或は一個人が己自身を潔(いさぎよ)うする一人の善行よりも、たとい純粋なる善動機より出でずとするも、多数の人を利する行為の方が勝(まさ)っているというのでもあろう。しかし人を益するというにも色々の意味があって、単に物質上の利益を与うるというならば、その利益が善い目的に用いらるれば善となるが、悪い目的に用いらるればかえって悪を助けるようにもなる。またいわゆる世道人心を益するという真に道徳的裨益(ひえき)の意味でいうならば、その行為が内面的に真の善行でなかったならばそは単に善行を助くる手段であって、善行其者(そのもの)ではない、たとい小であっても真の善行其者とは比較はできないのである。次に第二の場合について考えて見よう。動機が善くとも、必ずしも事実上善とはいわれないことがある。個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でないと考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。真および美において人心の根本に一般的要素を含むように、善においても一般的要素を含んでおる。ファウストが人世について大煩悶の後、夜深く野の散歩より淋しき己(おの)が書斎にかえった時のように、夜静に心平(たいら)なるの時、自らこの感情が働いてくるのである(Goethe,
Faust, Erster Teil, Studierzimmer)。我々と全く意識の根柢を異にせるものがあったならばとにかく、凡(すべ)ての人に共通なる理性を具した人間であるならば、必ず同一に考え同一に求めねばならぬと思う。勿論人類最大の要求が場合に由っては単に可能性に止まって、現実となって働かぬこともあるであろう、しかしかかる場合でも要求がないのではない、蔽われているのである、自己が真の自己を知らないのである。
右に述べたような理由に由って、我々の最深なる要求と最大の目的とは自ら一致するものであると考える。我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる、これを完全なる真の善行というのである。かくの如き完全なる善行は一方より見れば極めて難事のようであるが、また一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない、ただ自己にある者を見出すのである。世人は往々善の本質とその外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とに由って定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし我々はいかに事業が異なっていても、同一の精神を以て働くことはできる。いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ。ラファエルの高尚優美なる性格は聖母においてもその最も適当なる実現の材料を得たかも知れぬが、ラファエルの性格は啻(ただ)に聖母においてのみではなく、彼の描きし凡ての画において現われているのである。たといラファエルとミケランジェロと同一の画題を択(えら)んだにしても、ラファエルはラファエルの性格を現わしミケランジェロはミケランジェロの性格を現わすのである。美術や道徳の本体は精神にあって外界の事物にないのである。
終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而(しか)して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後蘇(よみがえ)るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。此(かく)の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教(キリストきょう)ではこれを再生といい仏教ではこれを見性(けんしょう)という。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を示すべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならぬ。
第四編 宗教
第一章 宗教的要求
宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一してこれに由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが「すでにわれ生けるにあらず基督(キリスト)我にありて生けるなり」といったように、肉的生命の凡(すべ)てを十字架に釘付け了(おわ)りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。基督が「十字架を取りて我に従はざる者は我に協(かな)はざる者なり」といったように、一点なお自己を信ずるの念ある間は未だ真正の宗教心とはいわれないのである。
現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、徒(いたず)らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば『歎異鈔』にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といってある。また基督教においてもかの単(ひとえ)に神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真の基督教ではない。これらは凡て利己心の変形にすぎないのである。しかのみならず、余は現時多くの人のいう如き宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考をもっているから、進取活動の気象を滅却して少欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已(や)まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者(そのもの)であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。
主意説の心理学者のいうように、意志は精神の根本的作用であって、凡ての精神現象が意志の形をなしているとすれば、我々の精神は欲求の体系であって、この体系の中心となる最も有力なる欲求が我々の自己であるということとなる。而(しか)してこの中心より凡てを統一して行くこと即ち自己を維持発展することが我々の精神的生命である。この統一の進行する間は我々は生きているのであるが、もしこの統一が破れたときには、たとい肉体において生きているにもせよ、精神においては死せるも同然となるのである。然るに我々は個人的欲求を中心として凡てを統一することができるであろうか。即ち、個人的生命はどこまでも維持発展することのできるものであろうか。世界は個人の為に造られたる者ではなく、また個人的欲求が人生最大の欲求でもない。個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陥らねばならぬ。ここにおいて我々は更に大なる生命を求めねばならぬようになる、即ち、意識中心の推移に由りて更に大なる統一を求めねばならぬようになるのである。かくの如き要求は凡て我々の共同的精神の発生の場合においてもこれを見ることができるのであるが、ただ宗教的要求はかかる要求の極点である。我々は客観的世界に対して主観的自己を立しこれに由りて前者を統一せんとする間は、その主観的自己はいかに大なるにもせよ、その統一は未だ相対的たるを免れない、絶対的統一はただ全然主観的統一を棄てて客観的統一に一致することに由りて得られるのである。
元来、意識の統一というのは意識成立の要件であって、その根本的要求である。統一なき意識は無も同然である、意識は内容の対立に由りて成立することができ、その内容が多様なればなる程一方において大なる統一を要するのである。この統一の極まる所が我々のいわゆる客観的実在というもので、この統一は主客の合一に至ってその頂点に達するのである。客観的実在というのも主観的意識を離れて別に存在するのではない、意識統一の結果、疑わんと欲して疑う能わず、求めんと欲してこれ以上に求むるの途なきものをいうのである。而してかくの如き意識統一の頂点即ち主客合一の状態というのは啻(ただ)に意識の根本的要求であるのみならずまた実に意識本来の状態である。コンジャックがいったように、我々が始めて光を見た時にはこれを見るというよりもむしろ我は光其者である。凡て最初の感覚は小児に取りては直(ただち)に宇宙其者でなければならぬ。この境涯においては未だ主客の分離なく、物我一体、ただ、一事実あるのみである。我と物と一なるが故に更に真理の求むべき者なく、欲望の満すべき者もない、人は神と共にあり、エデンの花園とはかくの如き者をいうのであろう。然るに意識の分化発展するに従い主客相対立し、物我相背(そむ)き、人生ここにおいて要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園は長(とこし)えにアダムの子孫より鎖(とざ)されるようになるのである。しかし意識はいかに分化発展するにしても到底主客合一の統一より離れることはできぬ、我々は知識において意志において始終この統一を求めているのである。意識の分化発展は統一の他面であってやはり意識成立の要件である。意識の分化発展するのはかえって一層大なる統一を求めるのである。統一は実に意識のアルファでありまたオメガであるといわねばならぬ。宗教的要求はかくの如き意味における意識統一の要求であって、兼ねて宇宙と合一の要求である。
かくして宗教的要求は人心の最深最大なる要求である。我々は種々の肉体的要求やまた精神的要求をもっている。しかしそは皆自己の一部の要求にすぎない、独り宗教は自己其者の解決である。我々は知識においてまた意志において意識の統一を求め主客の合一を求める、しかしこはなお半面の統一にすぎない、宗教はこれらの統一の背後における最深の統一を求めるのである、知意未分以前の統一を求めるのである。我々の凡ての要求は宗教的要求より分化したもので、またその発展の結果これに帰着するといってよい。人智の未だ開けない時は人々かえって宗教的であって、学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬようになる。世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくの如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命其者の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目(まじめ)ならざるを示すものである。真摯(しんし)に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。
第二章 宗教の本質
宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う、而(しか)して人とは我々の個人的意識をさすのである。この両者の関係の考え方に由って種々の宗教が定まってくるのである。然らば如何なる関係が真の宗教的関係であろうか。もし神と我とはその根柢において本質を異にし、神は単に人間以上の偉大なる力という如き者とするならば、我々はこれに向って毫(ごう)も宗教的動機を見出すことはできぬ。或はこれを恐れてその命に従うこともあろう、或はこれに媚びて福利を求めることもあろう。しかしそは皆利己心より出づるにすぎない、本質を異にせる者の相互の関係は利己心の外に成り立つことはできないのである。ロバルトソン・スミスも「宗教は不可知的力を恐れるより起るのではない、己(おのれ)と血族の関係ある神を敬愛するより起るのである、また宗教は個人が超自然力に対する随意的関係ではなくして、一社会の各員がその社会の安寧秩序を維持する力に対する共同的関係である」といっている。凡(すべ)ての宗教の本には神人同性の関係がなければならぬ、即ち父子の関係がなければならぬ。しかし単に神と人と利害を同じうし神は我らを助け我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである。また神は万物の目的であって即ちまた人間の目的でなければならぬ、人は各(おのおの)神において己(おの)が真の目的を見出すのである。手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我々が神に帰するのは一方より見れば己を失うようであるが、一方より見れば己を得る所以(ゆえん)である。基督(キリスト)が「その生命を得る者はこれを失い我が為に生命を失う者はこれを得べし」といわれたのが宗教の最も醇(じゅん)なる者である。真の宗教における神人の関係は必ず斯(かく)の如き者でなければならぬ。我々が神に祈りまたは感謝するというも、自己の存在の為にするのではない、己が本分の家郷たる神に帰せんことを祈りまたこれに帰せしことを感謝するのである。また神が人を愛するというのもこの世の幸福を与うるのではない、これをして己に帰せしめるのである。神は生命の源である、我はただ神において生く。かくありてこそ宗教は生命に充ち、真の敬虔(けいけん)の念も出でくるのである。単に諦めるといい、任すという如きは尚自己の臭気を脱して居らぬ、未だ真の敬虔の念とはいわれない。神において真の自己を見出すなどいう語は或は自己に重きを置くように思われるかも知らぬが、これかえって真に己をすてて神を崇(たっと)ぶ所以である。
神人その性を同じうし、人は神においてその本に帰すというのは凡ての宗教の根本的思想であって、この思想に基づくものにして始めて真の宗教と称することができると思う。しかし斯の如き一思想の上においてもまた神人の関係を種々に考えることができる。神は宇宙の外に超越せる者であって、外より世界を支配し人に対しても外から働くように考えることもでき、または神は内在的であって、人は神の一部であり神は内より人に働くと考えることもできる。前者はいわゆる有神論
theism の考であって、後者はいわゆる汎神論 pantheism の考である。後者の如く考うる時は合理的であるかも知らぬが、多くの宗教家はこれに反対するのである。何となれば神と自然とを同一視することは神の人格性をなくすることになり、また万有を神の変形の如くに見做(みな)すのは神の超越性を失いその尊厳を害(そこな)うばかりでなく、悪の根源も神に帰せねばならぬような不都合も出てくるのである。しかしよく考えて見ると、汎神論的思想に必ずこれらの欠点があるともいえず、有神論に必ずこれらの欠点がないともいわれない。神と実在の本体とを同一視するも、実在の根本が精神的であるとすれば必ずしも神の人格性を失う事とはならぬ。またいかなる汎神論であっても個々の万物そのままが直(ただち)に神であるというのではない、スピノーザ哲学においても万物は神の差別相
modes である。また有神論においても神の全知全能とこの世における悪の存在とは容易に調和することはできぬ。こは実に中世哲学においても幾多の人の頭を悩ました問題であったのである。
超越的神があって外から世界を支配するという如き考は啻(ただ)に我々の理性と衝突するばかりでなく、かかる宗教は宗教の最深なる者とはいわれないように思う。我々が神意として知るべき者は自然の理法あるのみである、この外に天啓というべき者はない。勿論神は不可測であるから、我々の知る所はその一部にすぎぬであろう。しかしこの外に天啓なるものがあるにしても我々はこれを知ることはできまい、またもしこれに反する天啓ありとすれば、こはかえって神の矛盾を示すのである。我々が基督の神性を信ずるのは、その一生が最深なる人生の真理を含む故である。我々の神とは天地これに由りて位(くらい)し万物これに由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ、この外に神というべきものはない。もし神が人格的であるというならば、此(かく)の如き実在の根本において直に人格的意義を認めるとの意味でなくてはならぬ。然らずして別に超自然的を云々する者は、歴史的伝説に由るにあらざれば自家の主観的空想にすぎないのである。また我々はこの自然の根柢において、また自己の根柢において直に神を見ればこそ神において無限の暖さを感じ、我は神において生くという宗教の真髄に達することもできるのである。神に対する真の敬愛の念はただこの中より出でくることができる。愛というのは二つの人格が合して一となるの謂(いい)であり、敬とは部分的人格が全人格に対して起す感情である。敬愛の本には必ず人格の統一ということがなければならぬ。故に敬愛の念は人と人との間に起るばかりでなく、自己の意識中においても現われるのである。我々のきのう、きょうと相異なれる意識が同一なる意識中心を有するが故に自敬自愛の念を以て充されると同じように、我々が神を敬し神を愛するのは神と同一の根柢を有するが故でなければならぬ、我々の精神が神の部分的意識なるが故でなければならぬ。勿論神と人とは同一なる精神の根柢を有するも、同一なる思想を有する二人の精神が互に独立するが如く独立すると考えることもできるであろう。しかしこは肉体より見て時間および空間的に精神を区別したのである。精神においては同一の根柢を有する者は同一の精神である。我々の日々に変ずる意識が同一の統一を有するが故に同一の精神と見られるが如くに、我々の精神は神と同一体でなければならぬ。かくして我は神において生くというのも単に比喩ではなくして事実であることができる(ウェストコットというビショップも約翰伝(ヨハネでん)第十七章第二十一節に註して「信者の一致とは単に目的感情等の徳義上の合一
moral unity ではなくして生命の合一 vital unity である」といっている)。
かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。即ち我々は意識の根柢において自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験するにあるのである。信念というのは伝説や理論に由りて外から与えらるべき者ではない、内より磨き出さるべき者である。ヤコブ・ベーメのいったように、我々は最深なる内生
die innerste Geburt に由りて神に到るのである。我々はこの内面的再生において直に神を見、これを信ずると共に、ここに自己の真生命を見出し無限の力を感ずるのである。信念とは単なる知識ではない、かかる意味における直観であると共に活力であるのである。凡て我々の精神活動の根柢には一つの統一力が働いている、これを我々の自己といいまた人格ともいうのである。欲求の如きはいうまでもなく、知識の如き最も客観的なる者もこの統一力即ち各人の人格の色を帯びておらぬ者はない。知識も欲望も皆この力に由りて成立するのである。信念とはかくの如く知識を超越せる統一力である。知識や意志に由りて信念が支えられるというよりも、むしろ信念に由りて知識や意志が支えられるのである。信念はかかる意味において神秘的である。信念が神秘的であるというのは知識に反するの意味ではない、知識と衝突する如き信念ならばこれを以て生命の本となすことは出来ぬ。我々は知を尽し意を尽したる上において、信ぜざらんと欲して信ぜざる能わざる信念を内より得るのである。
第三章 神
神とはこの宇宙の根本をいうのである。上に述べたように、余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直(ただち)にこの実在の根柢と考えるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現
manifestation である。外は日月星辰(せいしん)の運行より内は人心の機微に至るまで悉(ことごと)く神の表現でないものはない、我々はこれらの物の根柢において一々神の霊光を拝することができるのである。
ニュートンやケプレルが天体運行の整斉を見て敬虔の念に打たれたというように我々は自然の現象を研究すればする程、その背後に一つの統一力が支配しているのを知ることができる。学問の進歩とはかくの如き知識の統一をいうにすぎないのである。かく外は自然の根柢において一つの統一力の支配を認むるように、内は人心の根柢においても一つの統一力の支配を認めねばならぬ。人心は千状万態殆ど定法なきが如くに見ゆるも、これを達観する時は古今に通じ東西に亙(わた)りて偉大なる統一力が支配しているようである。更に進んで考える時は、自然と精神とは全然没交渉の者ではない、彼此(ひし)密接の関係がある。我々はこの二者の統一を考えずには居られない、即ちこの二者の根柢に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。哲学も科学も皆この統一を認めない者はないのである。而(しか)してこの統一が即ち神である。勿論唯物論者や一般の科学者のいうように、物体が唯一の実在であって万物は単に物力の法則に従うものならば神というようなものを考えることはできぬであろう。しかし実在の真相は果してかくの如き者であろうか。
余が前に実在について論じたように、物体というも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与えられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間といい、時間といい、物力といい皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。物理学者のいうような、すべて我々の個人の性を除去したる純物質という如き者は最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。具体的事実に近づけば近づくほど個人的となる。最も具体的なる事実は最も個人的なる者である。この故に原始的説明は神話においてのように凡(すべ)て擬人的であったが、純知識の進むに従い益々一般的となり抽象的となり遂に純物質という如き概念を生ずるに至ったのである。しかしかくの如き説明は極めて外面的で浅薄なると共に、かかる説明の背後にも我々の主観的統一なる者の潜んでいることを忘れてはならぬ。最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる。宇宙を説明する秘鑰(ひやく)はこの自己にあるのである。物体に由りて精神を説明しようとするのはその本末を顛倒(てんとう)した者といわねばならぬ。
ニュートンやケプレルが見て以て自然現象の整斉となす所の者もその実は我々の意識現象の整斉にすぎない。意識はすべて統一に由りて成立するのである。而してこの統一というのは、小は各個人の日々の意識間の統一より、大は総(す)べての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達するのである(意識統一を個人的意識内に限るは純粋経験に加えたる独断にすぎない)。自然界というのはかくの如き超個人的統一に由りて成れる意識の一体系である。我々が個人的主観に由りて自己の経験を統一し、更に超個人的主観に由りて各人の経験を統一してゆくのであって、自然界はこの超個人的主観の対象として生ずるのである。ロイスも「自然の存在は我々の同胞の存在の信仰と結合されている」といっている(Royce,
The World and the Individual, Second Series,
Lect. IV)。それで自然界の統一というのも畢竟(ひっきょう)意識統一の一種にすぎないということになる。元来精神と自然と二種の実在があるのではない、この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。直接経験の事実においては主客の対立なく、精神物体の区別なく、物即心、心即物、ただ一箇の現実あるのみである。ただかくの如き実在の体系の衝突即ち一方より見ればその発展上より主客の対立が出てくる。換言すれば知覚の連続においては主客の別はない、ただこの対立は反省に由って起ってくるのである。実在体系の衝突の時、その統一作用の方面が精神と考えられ、これが対象としてこれに対抗する方面が自然と考えられるのである。しかしいわゆる客観的自然もその実主観的統一を離れて存することはできず、主観的統一というも統一の対象即ち内容なき統一のある筈はない。両者共に同一種の実在であってただその統一の形を異にするのである。且つかくいずれか一方に偏せるものは抽象的で不完全なる実在である。かかる実在は両者の合一において始めて完全なる具体的実在となるのである。精神と自然との統一というものは二種の体系を統一するのではない、元来同一の統一の下にあるのである。
かく実在に精神と自然との別なく、従うて二種の統一あることなく、ただ同一なる直接経験の事実その物が見方に由りて種々の差別を生ずるものとすれば、余が前にいった実在の根柢たる神とは、この直接経験の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ。然るにすべて我々の意識現象は体系をなした者である。超個人的統一に由りて成れるいわゆる自然現象といえどもこの形式を離れることはできぬ。統一的或者の自己発展というのが凡ての実在の形式であって、神とはかくの如き実在の統一者である。宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟においても意志においても心象が一の目的観念に由り統一せられ、凡てがこの統一的観念の表現と看做(みな)される如くに、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。この比較は単に比喩ではなくして事実である。神は我々の意識の最大最終の統一者である、否、我々の意識は神の意識の一部であって、その統一は神の統一より来るのである。小は我々の一喜一憂より大は日月星辰の運行に至るまで皆この統一に由らぬものはない。ニュートンやケプレルもこの偉大なる宇宙的意識の統一に打たれたのである。
然らばかくの如き意味において宇宙の統一者であり実在の根柢たる神とは如何なる者であろうか。精神を支配する者は精神の法則でなければならぬ。物質という如き者は上にいったように、説明の為に設けられたる最も浅薄なる抽象的概念に過ぎない。精神現象とはいわゆる知情意の作用であって、これを支配する者はまた知情意の法則でなければならぬ。而して精神は単にこれらの作用の集合ではなく、その背後に一の統一力があって、これらの現象はその発現である。今この統一力を人格と名づくるならば、神は宇宙の根柢たる一大人格であるといわねばならぬ。自然の現象より人類の歴史的発展に至るまで一々大なる思想、大なる意志の形をなさぬものはない、宇宙は神の人格的発現ということとなるのである。しかしかくいうも余は或一派の人々の考うるように、神は宇宙の外に超越し、宇宙の進行を離れて別に特殊なる思想、意志を有する我々の主観的精神の如き者と考えることはできぬ。神においては知即行、行即知であって、実在は直に神の思想でありまた意志でなければならぬ(Spinoza,
Ethica, I Pr. 17 Schol. を見よ)。我々の主観的思惟および意志という如き者は種々の体系の衝突より起る不完全なる抽象的実在である。かくの如き者を以て直に神に擬することはできぬ。イリングウォルスという人は『人および神の人格』と題する書中において、人格の要素として自覚、意志の自由、および愛の三つをあげている。しかしこの三つの者を以て人格の要素となす前に、これらの作用が実地において如何なる事実を意味しおるかを明(あきらか)にして置かねばならぬ。自覚とは部分的意識体系が全意識の中心において統一せらるる場合に伴う現象である。自覚は反省に由って起る、而して自己の反省とはかくの如く意識の中心を求むる作用である。自己とは意識の統一作用の外にない、この統一がかわれば自己もかわる、この外に自己の本体というようの者は空名にすぎぬのである。我々が内に省みて一種特別なる自己の意識を得るように思うが、そは心理学者のいう如くこの統一に伴う感情にすぎない。かくの如き意識あってこの統一が行われるのではなく、この統一あってかくの如き意識を生ずるのである。この統一其者(そのもの)は知識の対象となることはできぬ、我々は此者(このもの)となって働くことはできるが、これを知ることはできぬ。真の自覚はむしろ意志活動の上にあって知的反省の上にないのである。もし神の人格における自覚というならば、この宇宙現象の統一が一々その自覚でなければならぬ。たとえば三角形の総べての角の和は二直角なりというは何人も何の時代にもかく考えねばならぬ。これも神の自覚の一つである。すべて我々の精神を支配する宇宙統一の念は神の自己同一の意識であるといってよかろう。万物は神の統一に由りて成立し、神においては凡てが現実である、神は常に能動的である。神には過去も未来もない、時間、空間は宇宙的意識統一に由りて生ずるのである、神においては凡てが現在である。アウグスチヌスのいったように、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである。
次に意志の自由ということにも色々の意味はあるが、真の自由とは自己の内面的性質より働くといういわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志というようのことは啻(ただ)に不合理であるばかりでなく、此(かく)の如きものは自己においても全く偶然の出来事であって、自己の自由的行為とは感ぜられぬであろう。神は万有の根本であって、神の外に物あることなく、万物悉く神の内面的性質より出づるが故に神は自由である、この意味においては神は実に絶対的に自由である。かくいえば、神は自己の性質に束縛せられその全能を失うように見えるかも知らぬが、自己の性質に反して働くというのは自己の性質の不完全なるか或はその矛盾を示すものである。神の完全にして全知なることと彼の不定的なる自由意志とは両立することはできまいと思う。アウグスチヌスも「神の意志は不変であって時に欲し時に欲せず、況(いわ)んや前の決断を後に翻(ひるが)えす如きものにあらず」といっている(Conf.
XII. 15)。選択的意志というが如きはむしろ不完全なる我々の意識状態に伴うべきものであって、これを以て神に擬すべきものではない。たとえば我々が充分に熟達した事柄においては少しも選択的意志を入るるの余地がない、選択的意志は疑惑、矛盾、衝突の場合に必要となるのである。勿論誰もいう如く知るという中には已(すで)に自由ということを含んでおる、知は即ち可能を意味しているのである。しかしその可能とは必ずしも不定的可能の意味でなければならぬことはない。知とは反省の場合にのみいうべきではない、直覚も知である。直覚の方がむしろ真の知である。知が完全となればなる程かえって不定的可能はなくなるのである。かく神には不定的意志即ち随意ということがないのであるから、神の愛というのも神は或人々を愛し、或人々を憎み、或人々を栄えしめ、或人々を亡ぼすという如き偏狭の愛ではない。神は凡ての実在の根柢として、その愛は平等普遍でなければならず、且つその自己発展その者が直に我々に取りて無限の愛でなければならぬ。万物自然の発展の外に特別なる神の愛はないのである。元来愛とは統一を求むるの情である、自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛である。神の統一作用は直に万物の統一作用であるから、エッカルトのいったように神の他愛は即ちその自愛でなければならぬ。我々が自己の手足を愛するが如くに神は万物を愛するのである。エッカルトはまた神の人を愛するは随意の行動ではなく、かくせねばならぬのであるといっている。
以上論じたように、神は人格的であるというも直にこれを我々の主観的精神と同一に見ることはできぬ、むしろ主客の分離なく物我の差別なき純粋経験の状態に比すべきものである。この状態が実に我々の精神の始であり終であり、兼ねてまた実在の真相である。基督(キリスト)が心の清き者は神を見るといい、また嬰児の若(ごと)くにして天国に入るといったように、かかる時我々の心は最も神に近づいているのである。純粋経験というも単に知覚的意識をさすのでない。反省的意識の背後にも統一があって、反省的意識はこれに由って成立するのである、即ちこれもまた一種の純粋経験である。我々の意識の根柢にはいかなる場合にも純粋経験の統一があって、我々はこの外に跳出することはできぬ(第一編を看よ)。神はかかる意味において宇宙の根柢における一大知的直観と見ることができ、また宇宙を包括する純粋経験の統一者と見ることができる。かくしてアウグスチヌスが神は不変的直観を以て万物を直観するといいまた神は静にして動、動にして静といったのも解することができ(Storz,
Die Philosophie des HL. Augstinus, §20)、またエッカルトの「神性」
Gottheit およびベーメの「物なき静さ」Stille ohne Wesen といえる語の意味も窺(うかが)うことができる。すべて意識の統一は変化の上に超越して湛然(たんぜん)不動でなければならぬ、而も変化はこれより起ってくるのである、即ち動いて動かざるものである。また意識の統一は知識の対象となることはできぬ、総べての範疇を超越している、我々はこれに何らの定形を与うることもできぬ、而も万物はこれに由りて成立するのである。それで神の精神という如きことは、一方より見ればいかにも不可知的であるが、また一方より見ればかえって我々の精神と密接しているのである。我々はこの意識統一の根柢において直に神の面影に接することができる。故にベーメも「天は到る処にあり、汝の立つ処行く処皆天あり」といいまた「最深なる内生に由って神に到る」といっている(Morgenrote[#8文字目の「o」はウムラウト(¨)付き])。
或人はいうであろう、右の如く論じた時には、神は物の本質と同一となり、よし精神的なりとするも理性または良心と何らの区別なく、その生きた個人的人格を失うようになるではなかろうか。個人性はただ不定的自由意志より生ずることができるのである(これかつて中世哲学においてスコトゥスがトーマスに反対せる論点であった)。かかる神に対して我々は決して宗教的感情を起すことはできぬ。宗教においては罪は単に法を破るのではない、人格に背くのである、後悔は単に道徳的後悔ではない、親を害し恩人に背いた切なる後悔である。アルスキン
Erskine of Linlathen は「宗教と道徳とは良心の背後に人格を認むると否とに由って分れる」といっている。しかしヘーゲルなどのいったように、真の個人性というのは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたもの、bestimmte
Allgemeinheit が個人性となるのである。一般的なる者は具体的なる者の精神である。個人性とは一般性に外より他の或者を加えたのではない、一般性の発展したものが個人性となるのである。何らの内面的統一もない単に種々の性質の偶然的結合というような者には個人性というべきものはない。個人的人格の要素たる意志の自由ということは一般的なる者が己(おのれ)自身を限定する
self-determination の謂(いい)である。三角形の概念が種々の三角形に分化し得るように、或一般的なる者がその中に含める種々なる限定の可能を自覚するのが自由の感である。全く基礎のない絶対的自由意志よりはかえって個人的自覚は起らぬであろう。個性に理由なし
ratio singularitatis frustra quaeritur という語もあれど、真にかくの如き個人性は何らの内容なき無と同一でなければならぬ。ただ具体的なる個人性は抽象的概念にて知ることができぬまでである。抽象的概念に現わすことのできない個人性でも画家や小説家の筆にて鮮かに現わすことができるのである。
神が宇宙の統一であるというのは単に抽象的概念の統一ではない、神は我々の個人的自己のように具体的統一である、即ち一の生きた精神である。我々の精神が上にいった意味で個人的であるといい得るように、神も個人的といい得るであろう。理性や良心は神の統一作用の一部であろうが、その生きた精神その者ではない。かくの如き神性的精神の存在ということは単に哲学上の議論ではなくして、実地における心霊的経験の事実である。我々の意識の底には誰にもかかる精神が働いているのである(理性や良心はその声である)。ただ我々の小なる自己に妨げられてこれを知ることができないのである。たとえば詩人テニスンの如きも次の如き経験をもっておった。氏が静に自分の名を唱えていると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる、而も意識は決して朦朧(もうろう)たるのではなく最も明晰確実である。この時死とは笑うべき不可能事で、個人の死という事が真の生であると感ぜられるといっている。氏は幼時より淋しき独居の際においてしばしばかかる事を経験したという。また文学者シモンズ
J. A. Symonds の如きも、我々の通常の意識が漸々薄らぐと共にその根柢にある本来の意識が強くなり、遂には一の純粋なる絶対的抽象的自己だけが残るといっている。その外、宗教的神秘家のかかる経験を挙げれば限もないのである(James,
The Varieties of Religious Experience, Lect.
XVI, XVII)。或はかかる現象を以て尽(ことごと)く病的となすかも知らぬがその果して病的なるか否かは合理的なるか否かに由って定まってくる。余がかつて述べたように、実在は精神的であって我々の精神はその一小部分にすぎないとすれば、我々が自己の小意識を破って一大精神を感得するのは毫(ごう)も怪むべき理由がない。我々の小意識の範囲を固執するのがかえって迷であるかも知れぬ。偉人には必ず右のように常人より一層深遠なる心霊的経験がなければならぬと思う。
第四章 神と世界
純粋経験の事実が唯一の実在であって神はその統一であるとすれば、神の性質および世界との関係もすべて我々の純粋経験の統一即ち意識統一の性質およびこれとその内容との関係より知ることができる。先ず我々の意識統一は見ることもできず、聞くこともできぬ、全く知識の対象となることはできぬ。一切はこれに由りて成立するが故に能く一切を超絶している。黒にあうて黒を現ずるも心は黒なるのではない、白にあうて白を現んずるも心は白なるのではない。仏教はいうに及ばず、中世哲学においてディオニシュース
Dionysius 一派のいわゆる消極的神学が神を論ずるに否定を以てしたのもこの面影を写したのである。ニコラウス・クザヌスの如きは神は有無をも超越し、神は有にしてまた無なりといっている。我々が深く自己の意識の奥底を反省してみる時はかつてヤコブ・ベーメが、神は「物なき静さ」であるとか、「無底」Ungrund
であるとかまたは「対象なき意志」 Wille ohne Gegenstand であるとかいった語に深き意味を見出すこともでき、また一種崇高にして不可思議の感に打たれるのである。その他神の永久とか遍在とか全知全能とかいうようのことも、皆この意識統一の性質より解釈せねばならぬ。時間、空間は意識統一に由って成立するが故に、神は時間、空間の上に超絶し永久不滅にして在らざる所なしである。一切は意識統一に由りて生ずるが故に、神は全知全能であって知らぬ所もなく能(あた)わぬ所もない、神においては知と能と同一である。
然らば右の如き絶対無限なる神とこの世界との関係は如何なるものであろうか。有を離れたる無は真の無でない、一切を離れたる一は真の一でない、差別を離れたる平等は真の平等でない。神がなければ世界はないように、世界がなければ神もない。固(もと)よりここに世界というのは我々のこの世界のみをさすのではない。スピノーザのいったように神の属性
attributes は無限であるから、神は無限の世界を包含しておらねばならぬ。ただ世界的表現は神の本質に属すべきものであって決してその偶然的作用ではない、神はかつて一度世界を創造したのではなく、その永久の創造者である(ヘーゲル)。要するに神と世界との関係は意識統一とその内容との関係である。意識内容は統一に由って成立するが、また意識内容を離れて統一なる者はない。意識内容とその統一とは統一せられる者とする者との二あるのではなく、同一実在の両方面にすぎないのである。すべて意識現象はその直接経験の状態においてはただ一つの活動であるが、これを知識の対象として反省することに由ってその内容が種々に分析せられ差別せられるのである。もしその発展の過程よりいえば、先ず全体が一活動として衝動的に現われたものが矛盾衝突に由ってその内容が反省せられ分別せられたのである。余はここにおいてもベーメの語を想い起さずにはいられない。氏は対象なき意志ともいうべき発現以前の神が己(おのれ)自身を省みること即ち己自身を鏡となすことに由って主観と客観とが分れ、これより神および世界が発展するといっている。
元来、実在の分化とその統一とは一あって二あるべきものではない。一方において統一ということは、一方において分化ということを意味している。たとえば樹において花はよく花たり葉はよく葉たるのが樹の本質を現わすのである。右の如き区別は単に我々の思想上のことであって直接的なる事実上の事ではないのである。ゲーテが「自然は核も殻も持たぬ、すべてが同時に核であり殻である」Natur
hat weder Kern noch Schale, alles ist sie mit
einem Male. といったように、具体的真実在即ち直接経験の事実においては分化と統一とは唯一の活動である。たとえば一幅の画、一曲の譜において、その一筆一声いずれも直(ただち)に全体の精神を現わさざるものはなく、また画家や音楽家において一つの感興である者が直に溢れて千変万化の山水となり、紆余(うよ)曲折の楽音ともなるのである。斯(かく)の如き状態においては神は即ち世界、世界は即ち神である。ゲーテが「エペソ人のディヤナは大なるかな」といえる詩の中にいったように、人間の脳中における抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディヤナの銀龕(ぎんがん)を作りつつパウロの教を顧みなかったという銀工の方が、或意味においてかえって真の神に接していたともいえる。エッカルトのいったように神すらも失った所に真の神を見るのである。右の如き状態においては天地ただ一指、万物我と一体であるが、曩(さき)にもいったように、一方より見れば実在体系の衝突により、一方より見ればその発展の必然的過程として実在体系の分裂を来すようになる、即ちいわゆる反省なる者が起って来なければならぬ。これに由って現実であった者が観念的となり、具体的であった者が抽象的となり、一であった者が多となる。ここにおいて一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、彼此(ひし)相対し物々相背くようになる。我らの祖先が知慧の樹の果を食うて神の楽園より追い出だされたというのも、この真理を意味するのであろう。人祖堕落はアダム、エヴの昔ばかりではなく、我らの心の中に時々刻々行われているのである。しかし翻(ひるがえ)って考えて見れば、分裂といい反省といい別にかかる作用があるのではない、皆これ統一の半面たる分化作用の発展にすぎないのである。分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる、反省は深き統一に達する途である(「善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をや」という語がある)。神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ。人間は一方より見れば直に神の自覚である。基督教(キリストきょう)の伝説をかりていえば、アダムの堕落があってこそ基督の救があり、従って無限なる神の愛が明(あきらか)となったのである。
さて、世界と神との関係を右のように考えることより、我々の個人性は如何に説明せねばならぬであろうか。万物は神の表現であって神のみ真実在であるとすれば、我々の個人性という如き者は虚偽の仮相であって、泡沫(ほうまつ)の如く全く無意義の者と考えねばならぬであろうか。余は必ずしもかく考うるには及ばぬと思う。固より神より離れて独立せる個人性という者はなかろう。しかしこれが為に我々の個人性は全然虚幻とみるべきものではない、かえって神の発展の一部とみることもできる、即ちその分化作用の一とみることもできる。凡(すべ)ての人が各自神より与えられた使命をもって生れてきたというように、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成するのである。この意味において我々の個人性は永久の生命を有し、永遠の発展を成すということができるのである(ロイスの霊魂不滅論を看よ)。神と我々の個人的意識との関係は意識の全体とその部分との関係である。凡て精神現象においては各部分は全体の統一の下に立つと共に、各自が独立の意識でなければならぬ(精神現象においては各部分が
end in itself である)。万物は唯一なる神の表現であるということは、必ずしも各人の自覚的独立を否定するに及ばぬ。たとえば我々の時々刻々の意識は個人的統一の下にあると共に、各自が独立の意識と見ることもできると一般である。イリングウォルスは「一の人格は必ず他の人格を求める、他の人格において自己が全人格の満足を得るのである、即ち愛は人格の欠くべからざる特徴である」といっている(Illingworth,
Personality human and divine)。他の人格を認めるということは即ち自己の人格を認めることである、而(しか)してかく各(おのおの)が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であって、一方より見れば両人格の合一である。愛において二つの人格が互に相尊重し相独立しながら而も合一して一人格を形成するのである。かく考えれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認めるということができる。
次に万物は神の表現であるという如き汎神論的思想に対する非難は、如何にして悪の根本を説明することができるかというのである。余の考うる所にては元来絶対的に悪というべき者はない、物は総べてその本来においては善である。実在は即ち善であるといわねばならぬ。宗教家は口を極めて肉の悪を説けども、肉欲とても絶対的に悪であるのではない、ただその精神的向上を妨ぐることにおいて悪となるのである。また進化論の倫理学者のいうように、今日我々が罪悪と称する所の者も或時代においての道徳であったのである。即ち過去の道徳の遺物であるということもできる、ただ現今の時代に適せざるが為に悪となるのである。されば物其者(ものそのもの)において本来悪なる者があるのではない、悪は実在体系の矛盾衝突より起るのである。而してこの衝突なる者は何から起るかといえば、こは実在の分化作用に基づくもので実在発展の一要件である、実在は矛盾衝突に由りて発展するのである。メフィストフェレスが常に悪を求めて、常に善を造る力の一部と自ら名乗ったように、悪は宇宙を構成する一要素といってもよいのである。固より悪は宇宙の統一進歩の作用ではないから、それ自身において目的とすべきものでないことは勿論(もちろん)である、しかしまた何らの罪悪もなく何らの不満もなき平穏無事なる世界は極めて平凡であって且つ浅薄なる世界といわねばならぬ。罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない。不満なく苦悩なき者は深き精神的趣味を解することはできぬ。罪悪、不満、苦悩は我々人間が精神的向上の要件である、されば真の宗教家はこれらの者において神の矛盾を見ずしてかえって深き神の恩寵を感ずるのである。これらの者あるが為に世界はそれだけ不完全となるのではなく、かえって豊富深遠となるのである。もしこの世から尽(ことごと)くこれらの者を除き去ったならば、啻(ただ)に精神的向上の途を失うのみならず、いかに多くの美しき精神的事業はまたこれと共にこの世から失せ去るであろうか。宇宙全体の上より考え、且つ宇宙が精神的意義に由って建てられたるものとするならば、これらの者の存在の為に何らの不完全をも見出すことはできない、かえってその必要欠くべからざる所以(ゆえん)を知ることができるのである。罪はにくむべき者である、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。余はここにおいてオスカル・ワイルドの『獄中記』De
Profundis の中の一節を想い起さざるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかった。彼はかつて世に知られなかった仕方において罪および苦悩を美しき神聖なる者となした。勿論罪人は悔い改めねばならぬ。しかしこれ彼が為した所のものを完成するのである。希臘人(ギリシャじん)は人は己(おの)が過去を変ずることのできないものと考えた、神も過去を変ずる能わずという語もあった。しかし基督は最も普通の罪人もこれを能(よ)くし得ることを示した。例の放蕩(ほうとう)子息が跪(ひざまず)いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいわれるであろうといっている。ワイルドは罪の人であった、故に能(よ)く罪の本質を知ったのである。
第五章 知と愛
この一篇はこの書の続として書いたものではない。しかしこの書の思想と連絡を有すると思うからここに附加することとした。[#このくだり著者注] 知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想(もうそう)臆断(おくだん)即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽して物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時始めてこれを能(よ)くするのである。たとえば明月の薄黒い処のあるは兎が餅を搗(つ)いているのであるとか、地震は地下の大鯰(なまず)が動くのであるとかいうのは主観的妄想である。然るに我々は天文、地質の学において全然かかる主観的妄想を棄て、純客観的なる自然法則に従うて考究し、ここに始めてこれらの現象の真相に到達することができるのである。我々は客観的になればなるだけ益々能く物の真相を知ることができる。数千年来の学問進歩の歴史は我々人間が主観を棄て客観に従い来った道筋を示した者である。次に何故に愛は主客合一であるかを話して見よう。我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂(いい)である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起るのである。親が子となるが故に子の一利一害は己(おのれ)の利害のように感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣(きんじゅう)草木にまでも及んだのである。
斯(かく)の如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其者(そのもの)と一致するが故に、能く数理を明(あきらか)にすることができるのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りて甫(はじ)めて自然の真を看破し得るのである。また一方より考えて見れば、我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃(こまや)かになる訳である。しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。数理の妙に心を奪われ寝食を忘れてこれに耽ける時、我は数理を知ると共にこれを愛しつつあるのである。また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直(ただち)に自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。愛は他人の感情を直覚するのである。池に陥らんとする幼児を救うに当りては、可愛いという考すら起る余裕もない。
普通には愛は感情であって純粋なる知識と区別されねばならぬという。しかし事実上の精神現象には純知識という者もなければ純感情という者もない。斯の如き区別は心理学者が学問上便宜の為に作った抽象的概念にすぎない。学理の研究が一種の感情に由って維持せられねばならぬように、他を愛するには一種の直覚が基とならねばならぬ。余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用その者にあるのではなく、むしろ対象の種類に由るといってよろしい。而(しか)して古来幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であって実在その者を捕捉することはできぬ。我々はただ愛に由りてのみこれに達することができる。愛は知の極点である。
以上少しく知と愛との関係を述べた所で、今これを宗教上の事に当てはめて考えて見よう。主観は自力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力をすてて他力の信心に入る謂(いい)である。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いているのである。学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教という者はこの作用の極致である。学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。「父よ、もしみこころにかなはばこの杯を我より離したまへ、されど我が意のままをなすにあらず、唯みこころのままになしたまへ」とか、「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」とかいう語が宗教の極意である。而してこの絶対無限の仏もしくは神を知るのはただこれを愛するに因りて能くするのである、これを愛するが即ちこれを知るである。印度(インド)のヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の聖道門(しょうどうもん)はこれを知るといい、基督教や浄土宗はこれを愛すといいまたはこれに依るという。各自その特色はないではないがその本質においては同一である。神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知りおる者である。
[了]
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底本:「善の研究」岩波文庫、岩波書店
1950(昭和25)年1月10日第1刷発行
1979(昭和54)年10月16日第48刷改版発行
1999(平成11)年10月25日第86刷発行
底本の親本:「善の研究」岩波書店
1937(昭和12)年改版
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絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎
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一
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
現在において過去は既に過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らざるものであり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているというのは、抽象論理的に考えられるように、単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。相互否定的に一となるというのである。過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、何処までも過去から未来へと動いて行く。しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、時は現在から現在へと動き行くのである。一が多の一ということが空間的ということであり、多から一へということが機械的ということであり、過去から未来へということである。これに反し多が一の多ということは世界を動的に考えること、時間的に考えることであり、一から多へということは世界を発展的に考えること、合目的的に考えることであり、未来から過去へということである。多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、現在から現在へと考えられる世界でなければならない。現実は形を有(も)ち、現実においてあるものは、何処までも決定せられたもの、即ち実在でありながら、矛盾的自己同一的に決定せられたものとして、現実自身の自己矛盾から動き行くものでなければならない。その背後に一を考えることもできない、多を考えることもできない。決定せられることそのことが自己矛盾を含んでいなければならない。
右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。しかし如何(いか)に人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。隠喩(いんゆ)的でもあるが、アリストテレスはこれを「自然が作る」η
φυσι※ ποιειという。無論斯(か)くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。手が物を作るのでもない。然らば物を作るとは、如何なることであるか。物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない(ライプニッツのいわゆるコムポーゼの世界において可能である)。現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。これを何処までも多から一へと考えるならば、そこに製作という如きものを入れる余地がない。これを一から多への世界と考えても、それは何処までも合目的的世界たるを免れない。唯自然の作用あるのみである、生物的世界たるに過ぎない。この世界の根柢に多を考えることもできず、一を考えることもできず、何処までも多と一との相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界にして、個物が何処までも個物として形成的であり物を作ると共に、それは作られたものから作るものへとして、何処までも歴史的自然の形成作用ということができる。
時が何処までも一度的なると共に、現在が時の空間として、現在から現在へと、現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、個物が製作的であるということであり、逆に個物が製作的であるということは、世界が作られたものから作るものへということである。我々がホモ・ファーベルであるということは、世界が歴史的ということであり、世界が歴史的であるということは、我々がホモ・ファーベルであるということである。而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、作られたものから作るものへとして、ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、そこに映すという意義があるのである。我々は行為的直観的に製作するのである、製作は意識的でなければならない。絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、製作的自己は思惟的と考えられ、自由と考えられる。我々の個人的自覚は製作より起るのである。
世界の底に一を考えることもできない、多を考えることもできない、多と一とが相互否定的として、作られたものから作るものへといえば、多くの人にはそれが実在の世界とは考えられないかも知れない。多くの人は世界の底に多を考える、原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、物質の世界と考えている。矛盾的自己同一の世界は一面に何処までも爾(しか)考えられる世界でなければならない。しかしそれは現実の矛盾的自己同一から爾考えられるのでなければならない。現実とは単に与えられたものではない、単に与えられたものは考えられたものである。我々がそこに於(おい)てあり、そこに於て働く所が、現実なのである。働くということは唯意志するということではない、物を作ることである。我々が物を作る。物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。しかのみならず、我々の作為そのものが物の世界から起る。私のいわゆる行為的直観的なる所が、現実と考えられるのである。故に我々は普通に身体的なる所を現実と考えているのである。作るものと作られたものとが矛盾的に自己同一なる所、現在が現在自身を限定する所が、現実と考えられるのである。科学的知識というのも、かかる現実の立場から成立するのでなければならない。科学的実在の世界も、かかる立場から把握せられるのでなければならない。また我々の身体が運動によって外から知られるといわれる如く(Noire【#「e」はアキュートアクセント付き】)、我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって知られるのであろう。歴史的社会的世界というのは、作られたものから作るものへという世界でなければならない。社会的ということなくして、作られたものから作るものへということはない、ポイエシスということはない。我々が考えるという立場も、歴史的社会的立場に制約せられていなければならない。 哲学の出立点については多くの議論があることであろう。我国の今日まででは、大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。かかる立場からは、私のいう所が独断論的とも考えられるであろう。しかしかかる立場も、歴史的社会的に制約せられたものでなければならない。我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世界というものを分析して見なければならない。かかる立場から、私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。知るということも歴史的社会的世界においての出来事である。私は古い形而上学に還ろうというのではない。私はカント以後にロッチェがオントロギーの立場に還って認識作用を考えたと思う。しかしロッチェのオントロギーは私のいう如き歴史的社会的ではなかった。 多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、真に働くものではない。真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。モナドは世界を映すと共に、世界のペルスペクティーフの一観点なのである、表出即表現である(exprimer
= representer【#「representer」の二番目の「e」はアキュートアクセント付き】)。しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない、表現作用的でなければならない。
その底に一を考えることもできず、また多を考えることもできず、絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。世界を自己の中に映すことによって働くのである。それを意識的というのである。動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質を有(も)ったものでなければならない。故に我々の行為は、固(もと)行為的直観的に起る、物を見るから起るというのである。行為的直観とは作用が自己矛盾的に対象に含まれていることである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、世界は行為的直観的であり、個物は何処までも欲求的である。私の形というのは、静止する物の形という如きものをいうのでなく、多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。プラトンのイデヤというのも、固此(もとかく)の如きものでなければならない。
自己矛盾的に物を見るということなくして欲求というものがなく、形というものなくして働くということはない。動物的生命においては見るといっても、朦朧(もうろう)たるに過ぎない、夢の如くに物の影像を見るまでであろう。動作が本能的と考えられる所以である。本質的には表現作用的といっても、真に外に物を作るということはできない。動物はなお対象界を有たない、真に行為的直観的に働くということはない。動物にはいまだポイエシスということはない。作られたものが作るものから離れない、作られたものが作るものを作るということがない、故に作られたものから作るものへではない。それは生物的身体的形成たるに過ぎない。然るにモナド的に自己が世界を映すことが逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという人間に至っては、行為的直観的に客観界において物を見ることから働く、いわば自己を外に見ることから働く。作られたものが作るものを作る、作られたものから作るものへである。故に人間はポイエシス的である、歴史的身体的ということができるのである。而して表出即表現の立場から働くとして、それは論理的ということもできるであろう。
右にいった如く、個物は何処までも個物として創造的であり、世界を形成すると共に、自己自身を形成する創造的世界の創造的要素として、個物が個物である。矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、形から形へと考えられる世界でなければならない。始に現在が現在自身を限定するといった如く、形が形自身を限定すると考えられる世界でなければならない。多と一との絶対矛盾的自己同一の世界は、かかる立場からは何処までも自己自身を形成する、形成作用的でなければならない。かかる意味において自己自身を形成する形が、歴史的種というものであり、それが歴史的世界において主体的役目を演ずるものであるのである。私の形といっているのは、実在から遊離した、唯抽象的に考えられる、静止的な形をいうのではない。形から形へといっても、唯無媒介的に移り行くというのではない。多と一との矛盾的自己同一として、実在の有つ形をいうのである。生物現象というも、何処までも化学的物理的現象に還元して考えることができるであろう。しかしその故に生物現象を単に物質の偶然的結合というのならばとにかく、いやしくもそれ自身に実在性を認めるならば、それは形成作用的と考えられねばならない。生物の有つ形というのは、機能的でなければならない。形と機能とは、生物において不可分離的である。形というのは、唯、眼にて見る形の如きものをいっているのではない。生物の本能という如きものも、形成作用である。文化的社会という如きも、形を有ったものでなければならない。形とはパラデーグマである。我々は種の形によって働くのである。而(しか)してそれは行為的直観的に見ることによって働き、働くことによって見るということでなければならない。作られたものから作るものへということでなければならない。
右の如く作られたものから作るものへと無限に動き行く絶対矛盾的自己同一の世界は、形から形へとして何処までも形成作用的である、即ち主体的である。これに無限なる環境が対立する。而して主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。しかし絶対矛盾的自己同一の世界において環境というのは単に質料的なものではない、形相を否定するものでなければならない。一から多へというに対して、多から一へということでなければならない。主体は自己否定的に環境を、環境は自己否定的に主体を形成するのである。形相が質料となり質料が形相となるとか、形相と質料とか形成の程度的差異とかというのではない。多から一へというのは、世界を因果的に決定論的に考えることである、過去から考えることである、機械的に考えることである。これに反し一から多へというのは、合目的的に考えることであろう。しかし単に合目的的というのは、生物的生命においてのように、なお空間的たるを脱せない、決定論的たるを免れない。真に一から多へというには、何処までも時間的なものと考えなければなるまい、ベルグソンの純粋持続の如きものを考えなければなるまい。何処までも創造的ということは、いつも未来からということであろう、つまり過去からということはないのである。純粋持続が自己自身を否定して自己矛盾的に空間的なる所に、現実の世界があるのである。一瞬の前にも還(かえ)ることのできない純粋持続の世界には、現在というものもあることはできない。これに反し空間的なるものが自己否定的に時間的なる所に、即ち自己矛盾的に自己自身から動き行く所に、現実の世界があるのである。故に絶対矛盾的自己同一として現在から現在へと動き行く世界の現在において、何処までも主体と環境とが相対立し、主体が自己否定的に環境を、環境が自己否定的に主体を形成する。而して現実の世界の現在は、主体と環境と、一と多との矛盾的自己同一として、決定せられたもの即ち作られたものから、作るものへと動き行く。それが過去から未来へと動き行くということである。作られたものというのは既に環境に入ったものである、過去となったものである。しかも(無が有として、過去は過ぎ去ったものでありながらあるものとして)それは自己否定的に主体を形成するものである。
世界を多から、あるいは一から考えるならば、作られたものから作るものへということはあり得ない。世界を機械的にあるいは合目的的に考えても、かかることがあることはできない、否、作るという如きことも入れられる余地はないのである。然るに多が自己否定的に一、一が自己否定的に多として、多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである。時の現在が過去へと過ぎ去ることは、未来が生ずることである。歴史の世界においては単に与えられたものというものはない。与えられたものは作られたものであり、自己否定的に作るものを作るものである。作られたものは過ぎ去ったものであり、無に入ったものである。しかし時が過去に入ることそのことが、未来を生むことであり、新なる主体が出て来ることである。かかる意味において、作られたものから作るものへというのである。歴史的世界において主体と環境とが何処までも相互否定的に相対立するというのは、時の現在において過去と未来とが相互否定的に対立する如く対立するのである。而して現在が矛盾的自己同一として過去から未来へ動き行く如く、作られたものから作るものへと動き行くのである。而してそれは同時に個物がモナド的に世界を映すと共に逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという如き、多と一との絶対矛盾の自己同一の世界であるということである。かかる世界において作られたということから、作るものが出て来る、而してまた新に作り行くのである。
それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、いつも現在において自己矛盾的である、現在が矛盾の場所である。抽象論理の立場からは、矛盾するものが結合するとはいわれないであろう、結合することができないから矛盾するというのである。しかし何処かで相触れなければ矛盾ということもあり得ない。対立が即綜合(そうごう)である。そこに弁証法的論理があるのである。矛盾の尖端(せんたん)としては、時の瞬間の如きものが考えられるであろう。しかし瞬間が時の外にあると考えられる如く、それも対立を否定すると共に対立せしめる弁証法的空間の一点と考うべきであろう。時というものを抽象概念的に考えれば、過去から未来へと無限に動き行く単なる直線的進行と考えられるであろう。しかし歴史的世界において現実的に時と考えられるものはその生産様式というべきものであろう。作られたものから作るものへということでなければならない。それが過去から未来へということである。時の現在の有つ形というのがその生産様式の形である。
歴史的世界の生産様式が非生産的として、同じ生産が繰返されると考えられる時、それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。現在というものは無内容である、現在が形を有たない、把握することのできない瞬間の一点と考えられる。過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。物理的に考えられる時というのは、かかるものであろう。物理的に考えられる世界には、生産ということはない、同じ世界の繰返しに過ぎない。空間的な、単なる多の世界である。生物的世界に至っては、既に生産様式が内容を有つ、時が形を有つということができる。合目的的作用において、過去から未来へということは逆に未来からということであり、過去から未来へというのが、単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。生産様式が一種の内容を有つということである、過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形を有つということである。かかる形というのが、生物の種というものである。歴史的世界の生産様式である。これを主体的という。生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。而してそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、個物的として自己自身を形成するということである。しかし生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。
真に矛盾的自己同一的な歴史的社会的世界においては、いつも過去と未来とが自己矛盾的に現在において同時存在的である、世界が自己矛盾的に一つの現在であるということができる。生物の合目的的作用においては過去と未来とが現在において結び附くといっても、なお過程的であって、真の現在というものはない。従って真の生産というものはない、創造というものはない。私が生物的生命においては作られたものが作るものを離れない、単に主体的だという所以(ゆえん)である。然るに歴史的社会的世界においては何処までも過去と未来とが対立する、作られたものと作るものとが対立する、而してまた作るものを作るのである。生産せられたものが単に過去に入り去るのでなくまた生産するものを生産するのである、そこに真の生産というものがあるのである。世界が一つの現在となるということは、世界が一つの生産様式となるということであり、それによって新な物が生れる、新な世界が生れるということである。それが歴史的創造の生産様式である、唯環境から因果的に物が出来るというのでもない、また単に主体的に潜在的なるものが顕現的となるというのでもない。創造ということは、ベルグソンのいうように、単に一瞬の過去にも還ることのできない尖端的進行ということではない。無限なる過去と未来との矛盾的対立から、矛盾的自己同一的に物が出来るということでなければならない。直線的なるものが円環的なる所に、創造ということがあるのである、真の生産があるのである。
歴史的世界においては、過去は単に過ぎ去ったものではない、プラトンのいう如く非有が有である。歴史的現在においては、何処までも過去と未来とが矛盾的に対立し、かかる矛盾的対立から矛盾的自己同一的に新な世界が生れる。これを私は歴史的生命の弁証法というのである。過去を決定せられたもの、与えられたものとしてテージスとすれば、それに対し無数の否定、無数の未来が成立する。しかし過去というものが矛盾的自己同一的に決定せられたものであり、過去を矛盾的自己同一的に決定したものが真の未来を決定する、即ちアンティテージスが成立する。世界が矛盾的自己同一として創造的であり、生きた世界であるかぎり、かかるアンティテージスが成立せなければならない。而してその矛盾的対立が深く大なればなるほど、即ち真に矛盾的対立であればあるほど、矛盾的自己同一的に新なる世界が創造せられる、それがジンテージスである。現在において無限の過去と未来とが矛盾的に対立すればするほど、大なる創造があるのである。新なる世界が創造せられるということは、単に過去の世界が否定せられるとか、なくなるとかいうのではない、弁証法においていう如くアウフヘーベンせられるのである。歴史的世界においては無限の過去が現在においてアウフゲホーベンされているのである。人間となっても、我々は動物性を脱するのではない。
過去と未来とが自己矛盾的に現在において対立するというには、現在が形を有(も)たなければならない。それが歴史的世界の生産様式である。個人的立場からいえば、我々はそこに行為的直観的に物を見、また作られたものから作るものへということができる。逆に我々がポイエシス的なる所、行為的直観的なる所が、歴史的現在であるのである。生物の形というのは機能的である。生物が機能的に働くということが、形を有つということである。而してそれは矛盾的自己同一たる歴史的現在が、生産様式として一つの形を有つということである。しかしさきにいった如く、生物的生産様式では、なお真に過去と未来との矛盾的対立というものはない、真の歴史的現在というものはない。矛盾的自己同一として現在が現在自身を限定するとか、形が形自身を限定するとかいうことはない。従って生物的動作は行為的直観的ではない。ヘーゲル的にいえば、それはなおアン・ジヒの状態である。世界が一つの現在として、無限の過去と未来とが現在において対立する歴史的社会的生産様式においては、現在が矛盾的自己同一として、何処までも動き行くものでありながら、現在が現在自身の形を有し、現在が現在自身を限定するとか、形が形自身を限定するとかいうのである。現在というものを唯抽象的に考えれば、現在から現在へなどということは、飛躍的とか無媒介的とか考えられるかも知らぬが、弁証法においては、対立が即綜合、綜合が即対立ということであり、対立なくして綜合はないが、綜合なくして対立もない。綜合と対立とは何処までも二であって一でなければならない。而して実践的弁証法においては、綜合というのはいわゆる理性の要求という如きものではなく、現実の世界の有つ形、現実の世界の生産様式というものでなければならない。無限の過去と未来とが何処までも相互否定的に結合する絶対矛盾的自己同一的現在の世界においては、それはイデヤ的ということができる。ヘーゲルのイデヤとは、此(かく)の如きものでなければならない。綜合は対立を否定する綜合ではない。故にそれはまた矛盾的自己同一として自己矛盾的に動き行くのである。
過去と未来との矛盾的自己同一として自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、いつも自己自身の中に自己を越えたもの、超越的なるものを含むということができる。いつも超越的なるものが内在的であるのである。現在が形を有(も)ち、過去未来を包むということ、そのことが自己自身を否定し、自己自身を越え行くことでなければならない。而してかかる世界は、個物がモナド的に世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点であるという如き、表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。現在が自己自身の中に自己自身を越えたものを含む世界は、表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。過去と未来とが相互否定的に現在において結合するという世界において、我々は表現作用的に物を見、表現作用的に物を見るから働くということができるのである。それは機械的でもない、合目的的でもない、而してそれが真に論理的ということである。矛盾的自己同一的に自己自身によって動き行くもの、即ち真に具体的なるものが、論理的に真なるものである。時が単に直線的に考えられ、現在というもののない世界においては、我々が働くということはない。私の過去と未来とが現在において結合し、作られたものから作るものへ、現在から現在へという矛盾的自己同一は、我々の自己意識によっても分るであろう。我々の自己意識は、過去と未来とが現在の意識の野において結合し、それが矛盾的自己同一として動き行く所にあるのである。単なる直線的進行において自己の意識的統一というものが可能なるのではない。私の意識現象が多なると共に私の意識として一であるというのは、右の如き意昧においての矛盾的自己同一でなければならない。矛盾的自己同一などいうことは考えられないという人の自己は、矛盾的自己同一的に爾(しか)考えているのであろう。しかし斯(か)くいうのは我々の意識的統一の体験によって客観的世界を説明しようとするのではない。逆に我々の自己は多と一との絶対矛盾的自己同一の世界の個物として即ちモナド的に爾あるのである。 右の如くにして、歴史的世界において、主体と環境とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成し行くということは、過去と未来とが現在において対立し、矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということである。歴史的世界においては単に与えられたものはない。与えられたものは作られたものである。環境というものも、何処までも歴史的に作られたものでなければならない。故に歴史的世界において主体が環境を形成するということは、形相が質料を形成するという如きことではない。物質的世界というも、矛盾的自己同一的に自己自身を形成するものである。絶対矛盾的自己同一としての歴史的現在の世界においては、種々なる自己自身を限定する形、即ち種々なる生産様式が成立する。それが歴史的種と考えられるものであり、即ち種々なる社会である。社会というのは、ポイエシスの様式でなければならない。故に社会は本質的にイデヤ的なものを含まなければならない。そこに生物的種との区別があるのである。イデヤ的に生産的なるかぎり、即ち深き意義においてポイエシス的なるかぎり、それは生きた社会である。
私のイデヤ的生産的というのは、歴史的物質的地盤を離れて、単に文化的となるということではない。それは形成的主体が環境を離れることであり主体が亡び行くことである、イデヤがイデールとなることである。主体が環境を形成する。環境は主体から作られたものでありながら、単に作った主体のものではなく、これに対立しこれを否定するものである。我々の生命は自己の作ったものに毒せられて死に行くのである。何処までも主体が生きるには、主体が更生して行かなければならない、絶対矛盾的自己同一の歴史的世界の種として世界的生産的となって行かなければならない。歴史的世界のイデヤ的構成力となって行かなければならない。生産した所のものが世界性を有たなければならない、即ち世界的環境を作って行かなければならない。かかる主体のみ、いつまでも生きるのである。主体が歴史的種として世界的生産的となるということは、主体がなくなるということではない、その特殊性を失って単なる一般となるということではない。無限の過去と未来とが何処までも現在に包まれるという絶対矛盾的自己同一の世界の生産様式においては、種々なる主体が一つの世界的環境において結合すると共に、それぞれがポイエシス的にイデヤ的であり、永遠に触れるということができるのである。すべての主体的なもの、特殊的なものが否定せられて、抽象的一般の世界となるということでもなければ、すべての主体が合目的的に一つの主体に綜合せられるということでもない。種の主体的生存ということと、文化とは必ずしも一致せないと考えられるが、何らかの意義においてイデヤ的生産的ならざる主体は世界歴史において生存することはできないであろう。イデヤは主体的生命の原理でなければならない。但(ただ)、作られたものとして既に環境的となったもの、而して作るものを作るという力を有せないものが、主体から遊離した文化である。世界を唯作られたものとして見るのが、単なる文化的見方である。
二
絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合する世界であり、矛盾的自己同一的に現在が形を有(も)ち、現在から現在へと自己自身を形成し行く世界である。世界がいつも一つの現在として、作られたものから作るものへである。矛盾的自己同一として現在の形というものが世界の生産様式である。此(かく)の如き世界がポイエシスの世界である。かかる世界においては、見るということと働くということとが矛盾的自己同一として、形成することが見ることであり、見ることから働くということができる。我々は行為的直観的に物を見、物を見るから形成するということができる。働くという時、我々は個人的主観から出立する。しかし我々が世界の外から働くのではなく、その時既に我々は世界の中にいるのでなければならない。働くことは働かれることでなければならない。我々の働くということは、単に機械的にとか合目的的にとかいうことでなく、形成作用的ということであるならば、形成することは形成せられることでなければならない。我々は自己自身を形成する世界の個物として形成作用的に働くのでなければならない。
過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合より成ると考えることができる。斯(か)くいうことは、かかる世界は一面にライプニッツのモナドの世界の如く何処(どこ)までも自己自身を限定する無数なる個物の相互否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕(はら)む一つの時間的連続である、一つの世界である。しかしかかる個物と世界との関係は、結局ライプニッツのいう如く表出即表現ということのほかにない。モナドが世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点である。かかる世界は多と一との絶対矛盾的自己同一として、逆に一つの世界が無数に自己自身を表現するということができる。無数なる個物の相互否定的統一の世界は、逆に一つの世界が自己否定的に無数に自己自身を表現する世界でなければならない。かかる世界においては、物と物は表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である。現在がいつも自己の中に自己自身を越えたものを含み、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的なる世界である。過去から未来へという機械的世界においても、未来から過去へという合目的的世界においても、客観的表現というものはない。客観的表現の世界とは、多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界でなければならない。過ぎ去ったものは既に無に入ったものでありながらなお有であり、未来は未(いま)だ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)において、物と物とが表現的作用的に相対し相働くのである。そこには因果的に過去からの必然として、また合目的的に未来からの必然として相対し相働くのではない。矛盾的自己同一的に、一つの現在として現在から現在へと動き行く世界、作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界においてのみ、爾(しか)いうことができるのである。
自己自身を形成し行く世界の形から形へということは、あるいは飛躍的とか無媒介的とか考えられるであろう。個物の働きというものがないとも考えられるであろう。しかし私の考はその逆である。個物とは何処までも自己自身を表現的に限定するものでなければならない、表現作用的に働くものでなければならない。世界の有つ形とは、かかる個物の相互否定的統一、矛盾的自己同一として現れるものでなければならない。それは逆に無数なる個物の表現作用が絶対矛盾的自己同一的世界の無数の仕方においての自己表現といわなければならない。再び我々の自己の意識統一によって考えて見よう。我々の意識現象とは、その一々が独立であり、自己表現的である。その一々が自己たるを主張し要求するといってよかろう。しかも我々の自己というのはジェームスのいう羊群の焼印の如きものではなく、かかる自己自身を表現するものの否定的統一として、形を有ったものでなければならない。それが我々の性格とか個性とかいうものである。自己というものが超越的に外にあるのでなく、意識する所そこに自己があるのであり、その時その時の意識が我々の全自己たるを主張し要求する。しかもそれを否定的に統一し行く所に、真の自己というものがあるのである。我々の自己の意識統一においても、現在において過去と未来とが矛盾的に結合し、全自己が一つの矛盾的自己同一的現在として、過去から未来へと、生産的であり創造的である。意識統一というものも、通常は世界から離して抽象的に(心理学的に)考えられるのであるが、具体的には自己自身を形成する世界の表現作用的個物として考うべきであろう。
一々の個物が何処までも個物的として表現作用的に自己自身を限定するというべき絶対矛盾的自己同一の世界において、個物的多が自己否定的に単に点集合的に考えられる時、それが物理的世界である。物理的世界は数学的記号によって表される数学的形の世界である。個物がそれぞれの仕方において世界を表現すると考えられる時、それが生命の世界である。その環境に即したものが生物的生命の世界である。そこでは個物はなお真に表現作用的でない。個物が何処までも表現作用的に自己自身を限定するという時、人間の歴史的世界である。世界は絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く。生物的世界はいうまでもなく、物質的世界も形を有つ。しかしそれは生産的でない、創造的でない。故になお現在から現在へ、形から形へといわれない、なお真に作られたものから作るものへとはいわれない。過去と未来とが相互否定的に現在において結合する所、そこにはいつも過去から未来へという時が消されると考えられる、即ち意識面がある。歴史的世界は意識的である。表現作用というものを考えなければ、形から形へということは単に無媒介と考えられる、作用と形というものが無関係と考えられる。しかし働くということは、全世界との関係において、全世界の形において成立するのである。物理現象においても爾(しか)いわなければならない(ロッチェはその『形而上学』においてこの点を明(あきらか)にしていると思う)。全世界の有つ形、私のいわゆる生産様式と作用とは離して考えることはできない。人は多く作用というものを全世界との関係から離して抽象的に考えている。物理作用とか、生物的作用とかいうものでも、爾考えることができる。しかし表現的作用というものは、爾考えることはできない。主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる絶対矛盾的自己同一の世界においては、物質的世界というものも既に作られたものであり、作られたものは環境的として主体を形成し行く。物質の世界から生物の世界へ、生物の世界から人間の世界へ発展するのである。矛盾的自己同一ということが、抽象論理的に考えられないといっても、実在とは此(かく)の如く自己自身から動くものであろう。
我々がこの世界において働くということは、物を形成することであり、私が行為的直観的に物を見、物を見るから働くというのは、右の如く個物が何処までも表現的に世界を形成することによって個物であり、逆にそれが絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の一角であるというによるのである。行為的直観というのは、我々が自己矛盾的に客観を形成することであり、逆に我々が客観から形成せられることである。見るということと働くということとの矛盾的自己同一をいうのである。過去と未来とが現在において相互否定的に結合する、即ち現在が矛盾的自己同一として過去未来を包む、現在が形を有(も)つという時、そこに私のいわゆる自己自身を形成する世界があるのである。世界は一つの現在として、作られたものから作るものへと無限に自己自身を形成し行く。我々はかかる世界の個物として意識的に世界を映すことによって形成的であり、而して自己矛盾的に世界を形成し行く、即ち表現作用的である(表現作用とは世界を媒介として働くことである)。そこに我々は我々の生命を有つのである。
行為的直観的に物を見るということは、世界の生産様式的に物を把握することでなければならない。かかる意味において物を見ることは世界を映すことである。ヘーゲルの如き意味において概念的に実在を把握することは、此(かく)の如きことでなければならない。物を具体概念的に把握するというのは、(作られて作るものとして)物を歴史的生産様式的に把握することでなければならない。かかる立場から把握せられる物の本質がその具体概念である。具体概念とは抽象作用によって作られるのではない、行為的直観的に把握せられるのである。そこに作ることが見ることである、表出即表現である。我々は個物として世界を映すことから働き、行為的直観的に物を構成することによって、実在を歴史的生産様式的に即ち具体概念的に把握するのである。この故に芸術家の創造作用の如きものでも、制作によって生産様式的に物の具体概念を把握するということができる(かかる意味において美も真である)。しかし無限なる過去と未来とが現在において結合し、絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、超越的方向においては全く記号的に表現せられる世界でなければならない。世界のかかる方向においての生産様式即ち物の具体概念を、行為的直観的に把握し行くのが実験科学である。そこでは私の行為的直観とは科学的実験ということである。物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。私の行為的直観とは単に受働的なる直覚をいうのではない。また単に行為を否定した受働的な直覚という如きものは、抽象概念的に考え得るかも知れないが、実在の世界にはないのである。
具体概念というのが右の如く矛盾的自己同一的に動き行く世界の生産様式と考えられるならば、理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的であるということができる。而して我々はいつも此処(ここ)にロードゥスがある、此処で踊れといわなければならない。行為的直観の現実が、いつも矛盾の場所であり、事は此(ここ)に決せられるのである。思惟の真偽も此に決せられるのである。我々が表現作用的自己として単に世界を映すという時、我々は意識的である、作用的には志向的と考えられる。単にかかる作用が作用として形成的なる時、それは抽象論理的である。抽象作用とは表現作用的自己が記号的に世界を映ずることである(即ち言語的に)。然るにかかる立場から表現作用的に物を構成し行為的直観的にこれを現実に見ることによって、自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くのが、具体的論理である。行為的直観とは全体が無媒介的に一時に現前するという如きことではない。直観とは唯我々の自己が世界の形成作用として、世界の中に含まれているということでなければならない。 個物は何処までも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。しかしそれは個物が自己否定において自己を有つということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。世界は無限なる表現作用的個物の否定的統一として自己自身を形成し行く。かかる世界において個物が世界の自己形成を宿すという時、個物は無限に欲求的である。我々が欲求的であるということは、我々が機械的であるということでもなく、単に合目的的ということでもない。世界を自己の内に映すということでなければならない。世界を自己形成の媒介とするということでなければならない。動物の生命というものも、既に此(かく)の如きものでなければならない、即ち既に意識的でなければならない。動物といえども、高等なればなるほど、いわば一種の世界像を有っていなければならない。無論それは意識的にとか自覚的にとかいうのではない。しかし動物の本能作用というのは一種の形成作用でなければならない。昔、ハルトマンなどの考えた如き無意識ともいうことができる。動物は無意識的に自己自身を形成する世界を宿すことによって本能的であるのである。
絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である。生物の身体的生命というのは、かかる形成作用でなければならない。是(ここ)において個物は既に機械的でもなく、単に合目的的でもなく、形成的でなければならない。動物的身体的であっても、意識的であるかぎり斯(か)くいうことができる。この故に動物の動作は衝動的であり、その形成において本能的であり、即ち身体的ということができる。そこに見ることが働くことであり、働くことが見ることである、即ち構成的である。見ることと働くこととの矛盾的自己同一的体系が身体である。しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、従って作られたものが作るものを作るということはない。そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。現在がなお形を有たない、世界が真に形成的でない。生物的生命は創造的ではない。個物はなお表現作用的ではない、即ち自由でない。歴史的世界においては主体が環境を、環境が主体を形成するといったが、生物的生命においてはそれはなお環境的である、歴史的主体的ではない。なお真に作られたものから作るものへではなくて、作られたものから作られたものへである。
(私が斯くいうのは、かつて生物的生命を単に主体的といったのに反すると考えられるかも知れないが、生物的生命の世界ではいまだ主体と環境とが真に矛盾的自己同一とならないのである。真に矛盾的自己同一の世界においては、主体が真に環境に没入し自己自身を否定することが真に自己が生きることであり、環境が主体を包み主体を形成するということは環境が自己自身を否定して即主体となることでなければならない。作るものが自己自身を否定して作られたものとなることが真に作るものとなるということが、作られたものから作るものへということであるのである。生物的生命の世界においてはいつも主体と環境とが相対立し、主体が環境を形成することは逆に環境から形成せられることである。単に主体的ということそのことがかえって環境的たる所以(ゆえん)である。自己自身を環境の中に没することによって、環境そのものの中から生きる主体にして、歴史的主体ということができる。そこでは環境は与えられたものでなく、作られたものであるのである。そこに真に主体が環境を脱却するということができる。生物的生命の世界はなおアン・ウント・フュール・ジヒの世界ではない。)
生物的生命の世界といえども、右にいった如く既に矛盾的自己同一的であるが、作られたものから作るものへとして、矛盾的自己同一に徹することによって、歴史的世界は生物の世界から人間の世界へと発展する。歴史的生命が自己自身を具体化するのである、世界が真に自己自身から動くものとなるのである。かかる発展は単に生物的生命の連続としてというのではない。さらばといって、単に生物的生命を否定することによってというのでもない。その自己矛盾に徹することである。生物的生命といえども既に自己矛盾を含んでいる。しかし生物的生命はなお環境的である、いまだ真に作られたものから作るものへではない。かかる自己矛盾の極限において人間の生命に達するのである。無論それは幾千万年かの歴史的生命の労作の結果でなければならない。作られたものから作るものへという労作的生命の極において、主体は環境の中に自己を没することによって生き、環境は自己否定的に主体化することによって環境となるという域に達するのである。
過去と未来とが矛盾的に現在において結合し、矛盾的自己同一として現在から現在へと世界が自己自身を形成し行く、即ち世界が生産的であり、創造的である。身体は生物的身体的ではなくして歴史的身体的である。我々は作られたものにおいて身体を有つのである。人間の身体は制作的である。我々は生物的個体として既に自己否定的に世界を映すことによって欲求的である、本能作用的に形成的である。絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界においては、我々は何処までも表現作用的形成の欲求を有っている、制作欲を蔵している。この故に多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、真の個物であるのである。我々が表現作用的に世界を形成することは逆に世界の一角として自己自身を形成することであり、世界が無数の表現的形成的な個物的多の否定的統一として自己自身を形成することである。生物の本能的形成においても、既に爾(しか)いうことができる。本能というのも、生物と世界との関係から理解せられなければならない(行動心理学においてのように)。人間の本能は単にいわゆる身体的形成ではなくして、歴史的身体的即ち制作的でなければならない。人間の行為は表現作用的に世界を映すことから起るのである、制作的身体的に物を見ることから起るのである。行為的直観的に物を見るということは、制作的身体的に物を見ることである。
我々は制作的身体的に物を見、斯(か)く物を見ることから働く制作的身体的自己においては、見るということと作るということとが矛盾的自己同一的である。物を制作的身体的に見るということは、物を生産様式的に把握することである、即ち具体概念的に把握することである。表現作用的自己として、矛盾的自己同一的現在の立場において物を把握するのである。それが真の具体的論理の立場であろう。そこに真なるものが実なるものである。抽象的知識とはかかる立場を離れたものとも考えられるであろう。しかしかかる実験の立場を離れて客観的知識というものはない。学問的知識の立場といえども、かかる立場を否定することではなく、かえってかかる立場に徹底し行くことでなければならない。矛盾は我々の行為的直観的なる所、制作的身体的なる所にあるのである。この故に矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、作られたものとして与えられたものを越え行くのである。而してその極、全然行為的直観的なるもの、身体的なるものを越えたものに到(いた)ると考えられるでもあろう。しかしそれは何処までも此処(ここ)から出立したものであり、此処に戻り来るものでなければならない。無限の過去と未来とが相互否定的に現在において結合し世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、世界は何処までも超身体的として記号によって表現せられる、即ち単に思惟的と考えられるであろう。しかしそれはまた何処までも我々の歴史的身体を離れるということではない。
絶対矛盾的自己同一の世界において、我々に対して与えられるものといえば、課題として与えられるものでなければならない。我々はこの世界において或物を形成すべく課せられているのである。そこに我々の生命があるのである。我々はこの世界に課題を有(も)って生れ来るのである。与えられたものは単に否定すべきものでもなく、また媒介し媒介せられるものでもない。成し遂げらるべく与えられたものである、即ち身体的に与えられたものである。我々は無手でこの世界に生れて来たのではない、我々は身体を有って生れて来たのである。身体を有って生れて来るということそのことが、既に歴史的自然によってそこに一つの課題が解かれたといい得ると共に(例えば昆虫(こんちゅう)の眼ができたという如く)、矛盾的自己同一として無限の課題が含まれているのである。我々が身体を有って生れるということは、我々は無限の課題を負うて生れることである。我々の行為的自己に対して真に直接に与えられたものというのは、厳粛なる課題として客観的に我々に臨んで来るものでなければならない。現実とは我々を包み、我々を圧し来るものでなければならない。単に質料的のものでもなければ、媒介的のものでもない。我々の自己に対して、汝(なんじ)これを為(な)すか然らざれば死かと問うものでなければならない。世界が一つの矛盾的自己同一的現在として私に臨む所に、真に与えられたものがあるのである。真に与えられたもの、真の現実は見出されるものでなければならない。何処に現実の矛盾があるかを知る時、真に我々に対して与えられたものを知るのである。単に与えられたものというものは、抽象概念的に考えられたものに過ぎない。我々は身体的なるが故に、自己矛盾的であるのである。行為的直観的に我々に臨む世界は、我々に生死を迫るものである。 絶対矛盾的自己同一の世界の個物として、我々の自己は表現作用的であり、行為的直観的に制作的身体的に物を見るから働く。作られたものから作るものへとして、我々は作られたものにおいて身体を有つ、即ち歴史的身体的である。斯(か)くいうのは、我々人間は何処までも社会的ということでなければならない。ホモ・ファーベルはゾーン・ポリティコンであり、その故にまたロゴン・エコーンである。家族というものが、人間の社会的構成の出立点であり、社会の細胞と考えられる。進化論的に考えれば、人間の家族も動物の集団本能の如きものに基(もとづ)くとも考えられるであろう。ゴリラが多くの牝(めす)を連れて生活しおるのは、原始人の生活と同様であるといわれる。しかしマリノースキイなどのいうように、動物の本能的集団と人間の社会とは、一言にいえば本能と文化とは根本的に異なったものでなければならない(Malinowski,
Sex and Repression in Savage Society[『原始社会における性と抑圧』])。エディプス複合の如きものが、既に人間の家族というものが社会的であって動物のそれと異なることを示すものであろう。本能というのは、有機的構造に基いた、或種に通じての行動の型である。動物の共同作業というものも、本能の内的応化によって支配せられているのである。それは人間の社会的構造とは異なったものである。人間の社会的構造には、それが如何に原始的なものであっても、個人というものが入っていなければならない。何処までも集団的ではあるが、個人が非集団的にも働くということが含まれていなければならない。故に動物の本能的集団というものは与えられたものたるに反し、人間の社会というのは作られて作り行くものでなければならない。多くの人が原始社会を唯団体的と考えるのに反し、私はマリノースキイなどの如く始(はじめ)から個人というものを含んでいるという考に同意したいと思うのである。原始社会にも罪というものがあるのである(Malinowski,
Crime and Custom in Savage Society[『原始社会における犯罪と慣習』])。それは社会というものが動物の本能的集団と異なり、多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへと動き行くものたるを示すものでなければならない。個物は本能的適応的に働くのではなくして、既に表現的形成的でなければならない。原始社会構造において近親相姦(そうかん)禁止というものが強き意義を有するように、社会は本能の抑圧を以て始まると考えられる。夫婦親子兄弟の関係がすべて本能的でなく、一々制度的に束縛せられる所に、社会というものがあるのである。
かかる社会の成立の根拠は何処にあるか。既にいった如く、それは作られたものから作るものへ、即ち主体と環境との矛盾的自己同一にあるのでなければならない。社会はポイエシスから始まるということができる。動物の本能的集団という如きものから、原始社会が区別せられるのに、色々特徴が挙げられる。しかしそれはすべてポイエシスということから考えられねばならない。私が社会を歴史的身体的と考える所以(ゆえん)である。社会は一つの経済的機構と考えられるであろう。社会は何処までも物質的生産的でなければならない。そこに社会の実在的基礎がある。しかしそれはいうまでもなく、ポイエシス的でなければならない。人間は用具を有(も)つということによって、動物から区別せられる。そして作られたものから作るものへとして、社会の経済的機構が発展して行く。家族制度の如きも、一面にはかかる経済的機構から考えられるであろう。財産制度の起源については、色々の学説があるようであるが、我々が物において自己の身体を有つという歴史的身体的形成から成立すると考えなければなるまい。
矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、一面には環境から主体へということでなければならない。それを生物的生命的といったが、人間に至ってもそれを脱するというのではない。而して矛盾的自己同一としての人間の世界に至っては、それは単に本能的でなく、表現的形成的でなければならない。それが環境が何処までも自己否定によって主体的となるということである。矛盾的自己同一的な人間の世界では、主体が自己を環境に没することによって主体であり、環境が自己否定によって主体的となることによって環境でなければならない。而して世界が斯(か)くあるということは、何処までも自己自身の中に世界を映し表現的形成的である個物が、自己自身を形成する世界の一角として爾(しか)あるということでなければならない。かかる世界において個物が客観界において自己を有(も)つ、即ち物において自己を有つということが我々が財産を有つということである。故に我々が財産を有つということは、単に個人の働きによって爾いい得るのではなく、客観的世界によって承認せられなければならない、世界において或個人の物として表現せられねばならない、主権から認められなければならない。多と一との矛盾的自己同一として表現的に自己自身を形成する世界は、法律的でなければならない。我々が物において身体を有つということは法律的でなければならない。ヘーゲルによるも(Philos.
d.Rechts. §29)、存在が自由意志的存在と見られることが法律である。作られたものから作るものへとして、我々がポイエシス的である、歴史的身体的であるということは、我々の社会が本能的ではなく、既に法律的であるということでなければならない。ポイエシスということが可能なるのは、法律的に構成せられた世界においてでなければならない。人類学者のいう所によれば、原始社会の生産作用も広義において法律的に支配せられているのである。而してまたそれらの社会制度は逆にポイエシス的生産の可能発展の形態ということができる、即ち特殊的な一種の歴史的生産様式であるのである。作られたものから作るものへとしての歴史的生産の世界は、環境的には何処までも物質的生産的でなければならない。そこにマキァヴェリ的なシュターツ・レーゾンの根拠がある。そしてそれが歴史的生産的世界の成立の条件とならねばならない。
作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界は作られたものからとして、物質的生産的でなければならない。社会は経済機構を有たなければならない、物質的生産的様式でなければならない。しかしそれは、世界が機械的だということでもなく、単に合目的的だということでもない。世界が一つの現在として自己形成的だということである。そこには既に矛盾的自己同一として歴史的形成作用が働いていなければならない。世界が矛盾的自己同一的に絶対に触れるということがなければならない。社会成立の根柢に宗教的なるものが働いているのである。故に原始社会はミトス的である。原始社会においては、神話は人間世界を支配する生きた実在であるのである(Malinowski,
Myth in Primitive Psychology[『原始的心理における神話』])。古代宗教は宗教というよりもむしろ社会制度であるといわれる(Robertson
Smith)。私は社会形成の根柢にはディオニュソス的なものが働いていると思う。ディオニュソス的舞踊から神々が生れたというハリソンの如き考に興味を有つのである(Jane
Harrison, Themis)。或地理的環境に或民族が住むことによって、或文化が形成せられると考えられる。地理的環境が文化形成の重大な因子となるはいうまでもない。しかし地理的環境が文化を形成するのでもなく、民族といっても歴史的形成前に潜在的に民族というものがあるのではない。民族というのも、形成することによって形成せられ行くものでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する時、それは生命の世界である、無限なる形の世界、種の世界である。動物においてはそれは本能的であるが、人間においてはそれはデモーニッシュである。そして動物においても然るが如く、それが作られたものから作るものへとして、創造的形成的なるかぎり生きた種であるのである。民族というのは、かかるデモーニッシュな形成力でなければならない。作られたものから作るものへということは、作られたものは、種から作られたものでありながら、作るものを作るとしてイデヤ的である、世界的であるということである、種の形成が歴史的生産様式的であるということである。矛盾的自己同一的に何処までもかかる方向に進むことが歴史的発展の方向にほかならない。 動物の本能的動作においても、既に爾(しか)考えられる如く、我々の行為は我々が自己矛盾的に世界を映すということから起る、即ち歴史的身体的であるということから起る。而してそれは我々の行為は社会的に起るということである。私と汝との人格的対立も、社会的発展から出て来るのである。子供の自己意識は、社会的関係から発展するものでなければならない。社会というものが、矛盾的自己同一的現在の自己形成として成立するものなるが故である。
生物的生命には、矛盾的自己同一的形成として生物的身体即ちいわゆる身体というものがある如く、歴史的生命には行為的直観的に歴史的身体即ち社会というものがあるのである。行為的直観というのは、矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界を、かかる世界の個物として我々が生産様式的に把握することである。ヘーゲルのいわゆる概念的に把握することである。ポイエシス的に実在をベグライフェンすることである。かかる行為的直観的なる歴史的身体的社会は、絶対矛盾的自己同一によって基礎附けられたものとして、何処までも自己矛盾的に自己自身を越え行かなければならない。しかしそれは何処までも自己自身を越え行くといっても、その実在的地盤を離れるのではない。これを離れれば、唯抽象的世界となるのほかない。単に抽象論理の立場から行為的直観の現実を否定することはできない。否定は現実の自己矛盾からでなければならない。与えられるものは、歴史的個人的に与えられるのである。生命の矛盾は生命の成立する所にある。そしてそれは何処まで行っても矛盾である。人間に至って矛盾の極に達する。矛盾の立場からは、何処までも矛盾を脱することはできない。宗教家が原始罪悪というものを考える所以である。禁断の果実を食ったアダムの子孫として、我々は原罪を負うて生れるのである。
三
矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する世界は、多と一との矛盾的自己同一の世界であり、かかる世界の個物として、何処(どこ)までも自己自身を限定する我々は、無限なる欲求でなければならない、生への意志でなければならない。而(しか)して世界は我々を生むと共に我々を殺すものでなければならない。世界は無限なる圧力を以て我々に臨み来るものである、何処までも我々に迫り来るものである。我々はこれと戦うことによって生きるのである。抽象的な知的自己に対しては単に与えられたものという如きものが考えられるであろう。しかし個物的自己としての我々に与えられるものは、生死の課題として与えられるものでなければならない。世界とは我々に向って生死を問うものでなければならない。個物的自己に対して与えられる世界は、一般的な世界ではなく、唯一的な世界でなければならない。我々が個物的なればなるほど、爾(しか)いうことができる。そしてそれはまた逆に矛盾的自己同一的に世界が唯一的なればなるほど、個物は個物的となるということができる。この故に個物は絶対矛盾的自己同一、即ち絶対に対することによって、個物であるということができる。自己自身の生死を媒介とする所に、個物が個物であるということができる。而してそれが行為的直観を媒介とするということである。生物の種というものが出来るのも、かかる過程によるものでなければならない。
個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対する。そこに矛盾的自己同一的に一つの生産様式というものが出来るかぎり、個物が生きるのである。無論そこには、いつも種々なる様式が可能でもあろう。種々なる種の成立する所以(ゆえん)である。多と一との絶対矛盾的自己同一の世界において、矛盾が解かれるかぎり、一つの種が成立するのである。行為的直観的なるかぎり、種的生命が成立するということができる。種も生命も既に弁証法的である(概念的であるのである)。種によって個が生き、個によって種が生きるかぎり、種の生命であるのである。生命はいつも動揺的である、動揺的なるかぎり生命というものがあるのである。弁証法的発展というのは、与えられたものを外から否定するのでなく、与えられたものそれ自身が自己矛盾的として、自己の内から自己を越え行くことでなければならない。生物的生命といえども、単に機械的でもなければ合目的的でもない。今日固定せる種と考えられるものも、無限なる弁証法的発展の結果として成立したものであり、それはまたいつかは変じ行くもの、亡び行くものでなければならない。種が固定するといっても、いつも或範囲内では動揺的である。唯それが基準的な形を有(も)ったということである。
動物の行為的直観的とか、概念的とかいうのは、言い過ぎといわれるでもあろう。しかし動物的生命といえども、矛盾的自己同一的現在の自己限定として形成作用的であり、見るということと働くということとが不可分離的でなければならない。例えば、動物の眼の如きものでも、無限なる矛盾的自己同一的形成の結果としてできたものであり、動物そのものの種的生命と離すべからざるものでなければならない。矛盾的自己同一的に実在が把握せられる所に、行為的直観というものがあるのである。それはそこに実在の創造的な生産様式が把握せられるということである。生物的生命の種というものも、かかる弁証法的過程によって出来たものでなければならない。この故にその深き根柢には、イデヤというものを考えることができる。イデヤとはイデールではなく、ヘーゲルのそれの如く弁証法的形成作用でなければならない。行為を離れた直観という如きは、抽象的に考えられたものか、然らざれば幻想に過ぎない。生命は動揺的である。そこにはいつも無限なる方向があり、無限に幻想的でなければならない。生命が矛盾的自己同一的なればなるほど爾(しか)いうことができる。我々が個性的に深ければ深いほど、幻想的ということができる。しかし矛盾的自己同一的に形成的なる所、行為的直観的なる所に、我々の個人的生命があるのである、真の自己があるのである。我々はそこに絶対矛盾的自己同一として、我々に生死を問うものに対しているのである。かかる行為的直観を離れた時、我々の働きは単に機械的か合目的的たるかに過ぎない。当為といっても行為的実現を離れては唯形式的たるに過ぎない。
我々の種的生命というものも、無限なる弁証法的発展の結果として出来たものであるが、我々が単に因襲的に種的に働くということは、自己の機械化であり、同時に種の死である。我々は時々刻々に創造的でなければならない。私の行為的直観というのは、全体が受働的に一時に現前するなどいう如きことではない。それでは自己というものがなくなることである、自己が単なる一般となることである。これに反し我々が何処までも個物的として、絶対矛盾的自己同一的に、我々の自己に臨む世界に対することである、創造的となることである。私は個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対するというが、生死ということが個物の個物たる所以でなければならない。個物は生死するものでなければならない、然らざれば個物ではない。そして生物的生命といえども、個物の生死ということがなければならない。死ということは絶対の無に入ることであり、生れるということは絶対の無から出て来ることである。それは唯絶対矛盾的自己同一の現在の自己限定としてのみいい得るのである。
生物的生命といえども、形成的でなければならない。そこには既に行為的直観が含まれていなければならない。行為的直観的なる形成作用というのは、個物が何処までも超越的なるもの即ち絶対に対し、絶対矛盾的自己同一を媒介とするということである。真の当為はかかる個物の立場から起るものでなければならない。然らざれば、それは主観的たるを免れない。具体的当為は、我々が自己自身を否定するものによって生きるという個人的存在としての自己矛盾から起るものでなければならない。欲求的なる身体的存在としても、我々は既にかかる自己矛盾的存在であるのである。真の具体的当為とは、何処までも我々を越えたものが行為的直観的に外から我々に求めるものでなければならない、ポイエシスを通して現れ来るものでなければならない(真の実践はいつも行為的直観を媒介するものでなければならない)。身体的なるが故に、我々は自己存在の根柢において自己矛盾である。而して歴史的身体的なるが故に、我々は何処までも当為的であるのである。単に論理的矛盾から具体的当為は出ない。真の絶対として我々に臨むものは、論理的に考えられた絶対ではなく、現実に我々の生死を問うものでなければならない。 絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く世界でなければならない。かかる世界は何処までも作られたものから作るものへと、動き行く行為的直観的現在を中心として、無限に自己自身を映すと考えられる意識面を含む世界でなければならない。無限なる過去と未来とが自己矛盾的に現在において合一するという時、そこに時が消される立場がなければならない。矛盾的自己同一的現在の自己形成は意識を契機とするものでなければならない。形成作用というのは機械的でもなく単なる合目的的でもない、意識的でなければならない。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、現在が現在自身を越えると考えられ、自己自身を越えたものを映すとして、意識は志向的と考えられる。矛盾的自己同一的現在を中心として、世界は何処までも符号的に表現せられると考えられるのである。しかし世界が斯(か)く何処までも表現的に、換言すれば抽象概念的に考えられて行くというのも、それは行為的直観の現実からであり、世界はいつも絶対矛盾的自己同一として、かかる自己否定を契機として行くのである。我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである、個物的なればなるほど、爾(しか)いうことができる。この故に絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、何処までも論理的ということができる。
絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成において、時が消されると考えられる意識面においては、世界は何処までも動揺的である。そこには行為的直観が失われるとすら考えられる。我々は自由に考え自由に行い得ると考えられる。我々は絶対矛盾的自己同一として我々に臨むものから離れる。抽象的自由の世界があるのである。しかしそれは世界が亡び行く方向であり、我々が我々自身を失い行く方向たるに過ぎない。我々の意識というのは絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の契機として現れるのであり、意識的に過去と未来とが自己矛盾的に現在に合一するということは、逆に世界が何処までも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するということでなければならない。我々は意識的に自由であればあるほど、逆に行為的直観的に絶対矛盾的自己同一に対するのである。絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界の個物として、我々は何処までも自己自身の生死を問うものに対するのである。そこに我々の意識作用は何処までも当為的でなければならない所以(ゆえん)のものがあるのである。
幾度かいうのであるが、私の行為的直観とは本能的とか芸術的とかいうことではない。無論、本能とはその未発展の状態といい得るであろう。芸術とはその一方向への極限とも考えられるであろう。しかし行為的直観というのは、我々が意識的に実在を把握する、最も根本的な、最も具体的な仕方でなければならない。概念というのは、唯抽象によって成立するのではない。物を概念的に把握するということは、行為的直観的に把握することでなければならない。我々は行為的直観によって、物を概念的に把握するのである(概念とはベグリッフである)。行為的直観的に物を把握するということは、作ることによって見ることである、ポイエシスによって物を知ることである。私は従来、我々が物を作る、物は我々によって作られたものでありながら、それ自身によって独立せるものとして逆に我々を限定する、我々は物の世界から生れるといったが、作られたものから作るものへとして作用が自己矛盾的に対象に含まれる時我々は行為的直観的に実在を把握するのである。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界においてのみ、かかる概念的知識が可能なのである。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時右にいった如く世界は意識的である。かかる世界の形成的要素として、我々は行為的直観的に即ちポイエシス的に実在を把握する。それが我々の概念的知識の本質であるのである。我々の今日概念的知識というものは、その根柢において物を作ることによって行為的直観的に把握し来ったものである。いわゆる実践によって獲得し来ったものである。一般には、眼が実用を離れて知識的と考えられる。しかしアリストテレスが我々は手を有(も)つ故に理性的であるといった如く私は我々の概念的知識は手から得られたのであると思う。手は運動の機関であり把握の機関であると共に、製作の道具であるのである(Noire,
Das Werkzeug【#「Noire」の「e」はアキュートアクセント付き】[『道具』])。
動物より人間へという時我々は社会的となる。上にいった如く、社会においては既に個人というものがあるのである。社会というものは、ポイエシスを中心として成立するのである。我々の概念的知識というのは、固(もと)社会的制作から発展し来ったものでなければならない。物の概念とは、固社会的制作によって把握せられたものでなければならない。社会的制作的に把握せられる物の生産様式が概念的知識の起源となるのであろう。言語というものなくして思惟というものなく、言語学者は言語は固社会的共同作用に伴うという。而して概念的知識は生産様式的に生産的なればなるほど、真なのである。今日の科学といえども、かかる立場から発展し、また何処までもかかる立場を離れないものでなければならない。無論それは何処までもかかる立場を越えたものと考えられるであろう、かかる立場を否定するとすら考えられるでもあろう。しかしそれは何処までも此処(ここ)から出て此処へ還(かえ)り来る性質を有ったものでなければならない、いわば技術的意義を有ったものでなければならない。しかのみならず、純知識的といっても、実験ということは行為的直観的に実在を把握することでなければならない。無論科学は単なる実験ではない。しかし科学においては実験と理論とは不可分離的でなければならない。而(しか)して理論というものが、如何に純理論的といっても、私のいわゆる制作によって行為的直観的に物の生産様式を把握するということから発展し来ったものでなければならない。何処までもかかる立場から歴史的に発展し来ったものでなければならない。行為的直観の地盤を離れて科学はない。ミンコフスキーは時間空間の相対性を講ずるに当って、この見解は物理的実験の地盤から生れた、そこに強味があるといった如く。
過去と未来との矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時我々は何処までも絶対矛盾的自己同一として我々の生死を問うものに対する、即ち唯一なる世界に対するのである。我々が個物的なればなるほど、爾(しか)いうことができる。而して斯(か)くなればなるほど、逆に我々は自己矛盾的に世界と一つになるということができる。かかる立場において、世界が意識面的であり、我々の自己が意識作用的であると考えられる時、世界が一つの論理的一般者と考えられる。かかる個物的自己として行為的直観的に物を把握するのが、我々の判断作用というものである。現在において、我々が何処までも個人的自己として、個人的自己の尖端(せんたん)において行為的直観的に物を把握する所に、客観的実在の判断的知識が成立するのである。現在においての個人的自己とは何を意味するか。過去と未来とが何処までも矛盾的に合一する矛盾的自己同一的現在の世界においての個物としてということを意味するのである。いわば絶対現在としての歴史的空間の個物ということである。かかる個物的自己として行為的直観的に即ちポイエシス的に物を把握するということは、物を絶対現在としての歴史的空間において見ることであり、過去未来を包んだ現在においての物の法則を明(あきらか)にすることである、私のいわゆる世界の生産様式を把握することである。そこに客観的認識の世界があるのである。
行為的直観的自己が何処までも個物的であり、現在が何処までも絶対現在的であればあるほど、認識が客観的ということができる。例えば、物理学者が実験をするというのも、物理学者が物理学的世界の個人的自己として行為的直観的に物を把握することでなければならない。物理学的世界といっても、この歴史的世界の外にあるのではなく、歴史的世界の一面たるに過ぎない。矛盾的自己同一的現在が形を有(も)たない世界の生産様式が非創造的である、同じ生産様式が繰返される。斯く見られた時、歴史的世界は物理学的世界であるのである、而してまた歴史的世界は一面に何処までもかかる世界でなければならない。我々も身体的には物質的としてかかる世界の中にいるのであり、我々は社会的制作的に歴史的生命の始から既に物理学的に世界を見ているのである。今日の物理学というも、かかる立場から発展し来ったものでなければならない。我々が個人的自己として世界に対するということは、世界が唯一的に我々に臨むことである。世界が唯一的に我々に臨む所に、我々の個人的自己があるのである。今日の物理学的世界が唯一的に我々に臨む所に、今日の物理学的個人的自己というものがあり、行為的直観的に今日の物理学的知識が把握せられるのである。
過去未来合一的に絶対矛盾的自己同一として、即ち絶対現在として自己自身を形成する世界は、何処までも論理的である。かかる世界の自己形成の抽象的形式が、いわゆる論理的形式と考えられるものである。絶対矛盾的自己同一的現在の意識面において世界は動揺的である。我々は過去から未来への因果的束縛を越えて思惟的であると考えられる、自由と考えられる。行為的直観的現実をヒポケーメノンとして種々なる判断が成立する。我々が個物的なればなるほど、斯(か)くいうことができる。世界は種々に表現せられる。モナドが世界を映すと考えられる如く、個物の立場から全世界が表現せられるということができる。個物の立場からの世界の表現即ち判断が、行為的直観的に即ちポイエシス的に証明せられるかぎり、それが真であるのである。我々が自己自身を形成する世界の形成的要素として、行為的直観的に物を把握する所に、真理があるのである。そこには逆に世界が世界自身を証明するということができるであろう。
我々が世界の形成要素として個物的なればなるほど、矛盾的自己同一的に自己自身を形成する唯一なる世界に撞着(どうちゃく)するのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、時が否定せられると考えられる世界の意識面的形成として、知識は形式論理的でなければならない。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界から、その行為的直観的なる核を除去すれば形式論理的となるのである。しかし形式論理が行為的直観的な歴史的形成作用の外にあって、これと相媒介をなすのではなく、かえってこれに含まれているのでなければならない。知識は論理と直覚とが相対立し相媒介することによって成立するのではなく、具体的一般者の自己限定として成立するのでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、それが意識面的形成的に、即ち論理的に具体的一般者ということができる。モナドが世界を映すことは、世界のペルスペクティーフの一観点となることである。多と一との矛盾的自己同一的一般者、いわゆる弁証法的一般者の自己限定として、作られたものから作るものへと、ポイエシス的に、行為的直観的に実在を把握し行く所に、客観的知識が成立するのである(真の具体的一般者とは個物を含むものでなければならない、場所的でなければならない)。行為的直観の過程というのは、かかる具体的一般者の自己限定として具体的論理の過程でなければならない。帰納法的知識即ち科学的知識というのは、かかる過程によって成立するのである。
上にいった如く、すべて我々の行為は行為的直観的に起るのである、個物が世界を映すから起るのである(故に表現作用的である)。我々の知識作用というも、何処までも歴史的行為として見られねばならない。如何にそれが抽象論理的と考えられても、客観的認識であるかぎり、ポイエシス的に、行為的直観的に物を把握するという立場を離れない。無論それは矛盾的自己同一的現在の自己限定として何処までも論理的に自己自身を媒介すべきはいうまでもない。我々が何処までも個物的であり、知識が客観的であればあるほど、爾(しか)いうことができる。従来の認識論においては、認識作用を歴史的世界においての歴史的形成作用として、即ちその全過程において考えていない。これを全過程として見ないで、一々の意識作用として、いわば歴史の横断面においてのみ見ているのである。これを意識面において中断して見れば、論理と直覚とが相対立し相媒介するとのみ考えられる。しかし全過程としては、知識とは固(もと)歴史的制作的自己としての我々のポイエシスより、何処までも行為的直観的に実在を把握し行くことでなければならない。問題は歴史的生命の地盤から起るのである、抽象論理的に起るのではない。しかし斯(か)くいうのは、真理を実用主義的に考えるのではない。歴史的生命とは矛盾的自己同一的現在の自己形成としてイデヤ的であるのである。 私の行為的直観というのは、判断論理を媒介とせないで、唯無媒介的に、単に受働的ないわゆる直観から直観へと移り行くことを意味するのではない。矛盾的自己同一的現在の世界においては、何処までも個物と世界との対立がなければならない、作られたものと作るものとの対立がなければならない。かかる立場からは、直観と行為とは何処までも対立するものでなければならない。その間には単に主体的立場から考えられる相互否定的対立以上のものがなければならない。そこには絶対の過去と未来との対立がなければならない。無限なる歴史的過去が絶対現在において無限に我々に迫りおるのである。無限の過去が現在において我々に対するということは表現的ということであり、それは単に了解の対象と考えられるが、何処までも我々に対するものが表現的に我々に迫るということ、即ち表現作用的に我々を動かすということが、物が直観的に我々に現れることである。我々の自己の存在そのものを動かすものが、直観的に見られるものである。上に絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界においては環境が自己否定的に自己自身を主体化することによって真の環境となるといったが、我々の自己が自己矛盾的にその中に包まれる世界が我々に直観的な世界である。作用が自己矛盾的に対象に含まれ、見ることから働く世界である、いわば我々が何処までもその中に吸い込まれ行く世界である。
絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのでもない、また相互に媒介するのでもない、生か死かの戦である。絶対矛盾的自己同一の世界において、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それは我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、我々の魂を殺すのである。作用が自己矛盾的に対象に含まれるというのは、その根柢において此(かく)の如きことでなければならない。環境が自己否定的に自己自身を主体化するということは、自己自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。我々の自己が個物的なればなるほど、斯くいうことができる。物が直観的に与えられるということは、単に受働的に見られることであるとか、あるいは作用がなくなることであるとかいうのは、知的自己の立場からの非弁証法的見方に過ぎない。作用が我々に逆に向い来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個物的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。動物的本能の世界においても、個物が自己の中に世界を映すことによって欲求的であり、見ることから働く。しかしそこでは個物は真に個物的ではない故になお直観というものはない。本能的動物は悪魔に囚(とら)われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起(じゃっき)するもの、我々の魂の底までも唆(そその)かすものである。然るに人は唯心像とか夢想の如くにしか考えていない。
矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時、過去は既に過ぎ去ったものでありながら、自己矛盾的に現在においてあるものである、無にして有である。作られて作るものたる我々に対して、世界は表現的である。我々人間に対しては、環境が何処までも表現的ということができる。而してそれが作られたものから作るものへとして、何処までも我々に迫るという時、我々に直観的である。個人的自己としての我々の作用的存在を動かすかぎり、直観的である。しかし過去は自己自身を否定して、未来へ行くことによって過去である。未来ありての過去である、無論その逆も真である。歴史においては、単に与えられたものはない、与えられたものは作られたものである、作られたものから作るものへと否定すべく作られたものである。我々は作られたものから作るものへの世界の作るものとして、自己自身を形成する世界の形成要素として、何処までもこれに対立する。而して作られたものから作るものへと世界を形成し行くのである。そこに私のいわゆる行為的直観の立場があるのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する創造的世界の形成要素として個物的なればなるほど、即ち具体的人格的なればなるほど、我々は行為的直観的に歴史的創造の尖端(せんたん)に立つのである。かかる意味において、行為と直観とは何処までも相反するということができる。世界が一つの表現として何処までも我々に迫るというのは我々の自己の底にまで迫るのである、我々の魂の譲渡を求めるのである。
此処(ここ)に我々が形成的というのは、絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、世界を創造的に把握するということでなければならない。歴史的創造作用として現実を把握することが、具体的理性的ということである。そこには判断論理の媒介というものが、含まれていなければならない。行為的直観の立場に深くなるということは、理性的となることである。生産様式的に実在を把握することである。具体概念とは、実在の生産様式でなければならない。科学的知識も、かかる基礎の上に立つのである。而して世界を創造作用的に把握するということは、イデヤ的にということである。イデヤとは世界の創造作用でなければならない。ヘーゲルのイデヤとは此(かく)の如きものであろう。
ポイエシスを中心とする歴史的世界は、その創造の尖端において、無限の過去と未来とに対立する。而してそれは絶対矛盾的自己同一的現在においての対立として主体と環境との対立ということができる。かかる絶対現在においての主体と環境との対立、相互形成は機械的でも、合目的的でもあることはできない。環境は何処までも表現的であり、主体へ、作るものへ、何処までも直観的に迫るのである。直観とは物が我々の自己を奪い去らんとすることである。物と自己とが無関心に対立することではない。物を創造するというのは、自己が物に奪われることではない。自己が物となること、自己がなくなることではない。さらばといって、単に自己が意識的に作用することでもない。作ることによって、真に能働的に、物の真実が把握せられることでなければならない。行為的直観ということが単に自己が物に奪われるということなら、論理を否定するとも考えられるでもあろう。しかしそこには自己が何処までも能働的となることである。物をそのままに受取ることではない、物を能働的に把握することである。我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこに何処までも論理的でなければならない。論理を否定することは、自己を暗ますことである。行為的直観的に、ポイエシス的に、我々の自己は益※(ますます)明となるのである。芸術は非論理的と考えられる。芸術的直観とは、行為的直観において、物が自己を奪うという方向において成立するものなるを以て、非論理的とも考えられるが、具体的論理の立場からは、芸術的直観もその一方向として含まれなければならない(芸術も理性的でなければならない)。
創造の立場においては過去と未来とが絶対に相対立するものでなければならない。しかもそれは単なる対立ではなく、矛盾的自己同一的対立として、作られたものから作るものへと創造的に動き行くのである。この故に世界は矛盾的自己同一的現在として自己形成的である、即ち意識的である。過去と未来との矛盾的自己同一なるが故に、意識的なのである。世界は絶対の過去として必然的に我々を圧して来る。しかし矛盾的自己同一的世界の過去として、単に因果的に、我々を圧するのでない。単なる因果的必然は、我々の自己を否定するものではない。それは歴史的過去として我々の個人的自己の生命の根柢に迫るものでなければならない、我々を魂の底から動かすものでなければならない。行為的直観の立場において、歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根柢から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的でもなく、単に否定的でもなく、悪魔的に我々に迫り来るものでなければならない。真に我々の魂に迫るものは、かえって抽象論理を以て我々を唆(そその)かすものでなければならない、真理の仮面を以て我々を誑(たぶらか)すものでなければならない。右の如く絶対過去として我々の個人的自己の根柢に迫り来るものに対して、我々は絶対未来の立場に立つものとして、行為的直観的に何処までも形成的である、創造的世界の創造的要素として何処までも創造的である(我々はいつも超越的なるものにおいて自己を有つ、この論文の終参照)。そこに理想主義の根拠があるのである。
行為的直観的に世界を見るということは、逆に行為的直観的に世界を形成することを含むのである。過去は自己自身を否定して未来へ行くべく過去であり、未来は自己自身を否定して過去となるべく未来である。世界が絶対過去として何処までも直観的に、我々の個人的自己をその生命の根柢から奪うということは、世界が非創造的となることである、世界が自己自身を否定することである。直観自身が自己矛盾である。世界が生きるかぎり、即ち創造的であり生産的であるかぎり、世界は自己矛盾に陥らざるを得ない。我々の行為的自己は、かかる世界の自己矛盾の底より生れるのである。世界が絶対過去として直観的に個人的自己に迫り来るというのは、機械的にでもなく合目的的にでもなく、我々の魂の譲与を迫り来ることでなければならない。単なる了解の対象としてでなく、信念の対象として、行為を唆すものとして、迫り来ることでなければならない。それは何処までも論理性を有ったものでなければならない。然らざれば、我々の個人的自己を動かすものではない、我々の行為的自己に対して与えられたものとはいえない。絶対矛盾的自己同一的現在において、作られたものとして我々を動かすものは、抽象論理的に我々に迫るものでなければならない(斯(か)くあったから斯くすべしとして)。抽象論理の立場からは、世界を決定したものとして考えるのである。我々の行為的自己が過去から自己に臨む所に、抽象論理的である。これを反省という。しかし我々の行為的自己は、矛盾的自己同一的世界の形成要素として、行為的直観的に、ポイエシス的に、歴史的世界の生産様式を把握し行く所に、具体的論理があるのである。過去というものがなければ未来はない。我々の行為には、何処までも過去が基とならなければならない。決定せられたものからという立場からは、我々の行為は抽象論理的でなければならない。矛盾的自己同一的世界が何処までも行為的直観的に我々に臨むということは、抽象論理的に我々を動かすことが含まれていなければならない。しかしそれは何処までも絶対矛盾的自己同一的現在においての過去として、形成作用的に然るのである。具体的論理は矛盾的自己同一的現在の自己形成として、抽象論理を媒介とするが、抽象論理は具体的論理の媒介として、論理の意義を有するのである。然らざれば単なる形式たるに過ぎない。
私の行為的直観的に実在を把握するというのは、抽象論理を媒介とせないというのではなく、我々が矛盾的自己同一的世界の形成要素として個物的であり、創造的であればあるほど、絶対矛盾的自己同一的現在において行為的直観的に与えられるものは、論理的に我々を動かすものでなければならない。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するのが、具体的論理である。かかる意味において、芸術も具体的論理的である。私は人間の歴史的形成の立場から芸術を見るのであって、後者から前者を見るのではない。
四
直観的に与えられたものが、論理的に我々を動かすというのは、普通の考に反することであろう。私のいう所があるいは無理押しと考えられるかも知れない。しかし直観とか所与とかについて、従来の考え方は知的自己の立場からであって、具体的な歴史的・社会的自己の立場からではない、即ち行為的・制作的自己の立場からではない。判断論理の立場からは、与えられたものといえば非合理的と考えられ、直観といえば論理を拒否すると考えられるでもあろう。しかし具体的人間としては、我々は制作的・行為的として歴史的・社会的世界に生れ来るのであり、何処まで行ってもかかる立場を脱するものではない。与えられるものは歴史的・社会的に与えられるのであり、直観的に見られるものは行為的・制作的に見られるのであり、表現的に我々を動かすものである。矛盾的自己同一的現在の世界において与えられたものとして、我々の個人的自己に迫るものでなければならない。社会というのは、矛盾的自己同一的世界の自己形成として成立するのである。如何に原始的であっても、単に本能的ではない、単に全体的ではない、多と一との矛盾的自己同一的でなければならない。我々は個人的自己として絶対矛盾的自己同一的なるもの超越的なるものに対しているのである。マリノースキイのいう如く、原始社会にも既に個人というものが含まれていなければならない。動物的群居と異なるものがあるのである。原始社会はトーテムとかタブーとかにより極度に束縛せられる。しかしなお個人の自由というものがあるのである、故に罪というものがあるのである。
具体的人間としての我々に与えられるものは、心理学者の直覚という如きものではなく、社会的に与えられるものでなければならない、我々を包むものとして与えられるのである。矛盾的自己同一的世界の自己形成として強迫的に与えられるのである、私のいわゆる弁証法的一般者の自己限定として与えられるのである。社会的因襲的に過去からとして要請せられるのである。論理的には特殊的といっても、我々が歴史的・社会的であるかぎり、種的であるかぎり、本質的にそれから動かされざるを得ないのである。それはレヴィ・ブリュールの如く論理以前ということができるであろう。しかしプラトンの論理といえども、その根柢においてイデヤの分有にほかならない。単なる抽象的論理はかえって真の論理ではない。具体的論理は両面の矛盾的自己同一でなければならない。いうまでもなく、論理が真の論理となるには、ミトス的なものは否定せられて行かなければならない。作られたものから作るものへと、社会は弁証法的に進展し行くのである。しかし何処まで行っても、その根柢において、歴史的・社会的形成として、ポイエシス的に実在を把握し行くという行為的直観の過程たるを脱せない。具体的論理たるかぎり、爾(しか)いうことができる。しかし斯(か)くいうのは、論理の根柢に神秘的直観的なものを考えるということではない。何処までもポイエシス的に、実践的に、真実在に肉迫し行くことである。絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くことである。そこには何処までもミトス的に我々を抑圧するものを否定し行かねばならない。単に特殊的なるもの単に歴史的なるものを越え行かねばならない。そこには直観的に与えられるものが否定せられると考えられる。しかしそれは抽象的合理論者の考える如く、歴史的過去が否定せられるとか、特殊が単に一般の特殊となるとかいうことではない。原始社会というものが、既に矛盾的自己同一として成立するのである。而(しか)して我々の社会は何処までもかかる立場において発展し行くのである。否、矛盾的自己同一的なるが故に、作られたものから作るものへと発展し行くのである。
歴史的に与えられたものは、絶対矛盾的自己同一的現在において世界史的に与えられたものとして、我々が個人的自己であればあるほど、それを否定することができないまでに自己の生命の根柢に迫るのである。直観的に我々に迫るものは、世界史的に迫るものとなるのである。社会の特殊性は単なる特殊性ではなく、固(もと)歴史的世界の生産様式であったのである。我々は個人的自己として、すべて直観的なるものを棄(す)てて、合理的となると考える。しかしそれはかえって自己同一的世界の形成要素として、真に行為的直観的となるということである。原始社会においての如く、我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである。否、我々は個人的なればなるほど、爾いうことができる。矛盾的自己同一的世界の形成要素として絶対矛盾的自己同一に対することによって我々は個人的自己となるのである。我々はこれに至って真に個人的自己となるということができる。而して我々は矛盾的自己同一的世界の自己形成によって、即ち具体的論理的にそこに至るのである。具体的論理は何処までも抽象論理を媒介とする。しかし抽象論理的媒介によって具体的論理に行くのではない。 ヘーゲルは人格がイデヤ的存在であるために、財産を有(も)たねばならぬという。具体的人格は歴史的身体的でなければならない。社会は作られたものから作るものへという歴史的生産作用として成立し、我々の自己はかかる矛盾的自己同一的に自己自身を形成する社会の形成要素としてあるのである。人格というものも、かかる立場から考えられねばならない。人間の社会は動物のそれと異なって最初より個人というものがあり、多と一との矛盾的自己同一において、全体的一に対する個物的多として人格的自己というものが成立するのである。矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。故に我々は神に対することによって人格であり、而してまた神を媒介とすることによって私は汝(なんじ)に対し、人格は人格に対するということでもある。社会は矛盾的自己同一的現在の自己形成として、何処までも作られたものから作るものへと動いて行く。かかる過程は機械的でもなく合目的的でもない。多と一との矛盾的自己同一的過程として行為的直観的でなければならない。多が一の多、一が多の一、動即静、静即動として、そこに永遠なるものの自己形成即ちイデヤ的形成の契機が含まれていなければならない。文化というのはかかる契機において成立するのである。この故にそれは何処までも種的形成でありながら、絶対矛盾的自己同一的現在の自己形成として世界史的となる。矛盾的自己同一的に自己自身を形成する社会は、是(ここ)においてイデヤ的形成的として国家となる、即ち理性的となるのである。かかる社会の形成要素として我々は具体的人格となるのである。かかる意味において国家が倫理的実体であり、我々の道徳的行為は国家を媒介とするということができるのである。文化的ならざる国家というものはない。非文化的な社会は国家の名に価せないものである。但、文化はイデヤ的として世界史的なるを以て或社会の種的形成でありながら、いつもそれだけのものではない。
歴史的世界は、生物の始から人間に至るまで、多と一との矛盾的自己同一である。而して作られたものから作るものへと動いて行くのである。動物的生命においては、なお個物的多が全体的一に対立せない、即ち個物が独立せない。作られたものから作るものへとの歴史的進展の過程が、全体的一の過程と考えられる、即ち合目的的と考えられる。個物が独立せないということは、逆に一がなお真の一でないということである、個物的多の世界に対して超越的でないということである、なお多の一であるということである。これに反して人間の世界においては、如何に原始的であっても既に多と一との矛盾的自己同一的である。しかしそれでも原始的社会にあっては、個物はなお真に独立的ではない、全体的一は抑圧的である。全体的一は単に超越的である。多は一の多である。然るに個物は何処までも独立的たることによって個物である。絶対矛盾的自己同一の世界においては、個物が個物自身を形成することが世界が世界自身を形成することであり、その逆に世界が世界自身を形成することが個物が個物自身を形成することである。多と一とが相互否定的に一となる、作られたものから作るものへである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、かかる契機が含まれていなければならない。それが文化的過程である。かかる立場において、個物的多を生かすことが全体的一が生きることであり、全体的一が生きることが個物的多が生きることである。社会が実体的自由として倫理的実体となり、歴史的世界の形成作用として我々の行為は道徳的意義を有つ。世界が絶対矛盾的自己同一として矛盾的自己同一的に、イデヤ的に自己自身を形成し行く所に、我々が行為的直観的に創造的なる所に、真の道徳があるのである。
かかる意味において、文化的過程は倫理的でなければならない。文化的発展が実体的自由としての国家を媒介とするということもできるのである。倫理的実体たる社会の個人として創造的なるかぎり、我々の行為が道徳的であり、絶対矛盾的自己同一的世界の形成作用として、イデヤ的形成的なるかぎり、社会が倫理的実体であるのである。かかる世界のイデヤ的形成の要求が何処までも独立的に自己自身を限定する個人的自己において、当為として意識せられるのである。芸術や学問も、かかる立場においてイデヤ的形成作用たるかぎり、倫理的意義を有するということができる。これに反し真の国家の名に価するものは、いわゆる政治以上のものでなければならない。マキアヴェルリが国家の本質とした「力」virtu
【#「u」はグレーブアクセント付き】というものすら、創造性を意味していたものと考えることができるであろう。多と一との矛盾的自己同一的形成作用として、国家はそれ自身が自己矛盾的存在である。故に国家存在理由には、いつも矛盾が含まれている。しかしそこに国家の存在理由があるのでなければならない。歴史的世界に実在するものは、すべて自己矛盾的でなければならない。而して文化はかかる実在の自己形成から成立するのである。現在の十字架において薔薇(ばら)を認めることでなければならない、然らざれば真の文化ではない。芸術という如きものも、矛盾的自己同一的な社会の自己形成作用として生れるのである。かかる意味において、私は芸術が社会の儀式から生れるという考に興味を有するのである(Jane
Harrison, Ancient Art and Ritual[『古代芸術と祭式』])。而してそれは何処まで進んでも、かかる立場が失われないであろう。芸術も具体的論理的という所以(ゆえん)である。しかし矛盾的自己同一的形成が深くなればなるほど、行為的直観の現実を中心として種々なる文化が相異なる方向に分化発展するのである。
絶対矛盾的自己同一の世界は、作られたものから作るものへとの自己形成の過程において、イデヤ的である、直観的なるものを含むといった。しかし私はそこに世界の自己同一を置くのではない。もし然(しか)いうならば、それは絶対矛盾的自己同一の世界ではない。絶対矛盾的自己同一の世界においては、自己同一は何処までもこの世界を越えたものでなければならない。それは絶対に超越的でなければならない、人間より神に行く途(みち)はない。個物的多と全体的一とは、この世界において何処までも一とならないものでなければならない。この世界に内在的に、イデヤ的なるものに、自己同一を置くかぎり、世界は真に自己自身から動く現実の世界ではない。この故に絶対矛盾的自己同一の世界は、イデヤ的なるものをも否定する世界でなければならない、文化をも否定する世界でなければならない。イデヤ的世界は仮現の世界である。イデヤ的なるものは、生れるもの、死に行くもの、変じ行くもの、過程的なものでなければならない。世界が絶対矛盾的自己同一的なる故に、その自己形成の過程が単に機械的でもなく、合目的的でもなく、イデヤ的形成でなければならないのである。絶対弁証法的なるが故にイデヤ的直観的契機が含まれるのである。故に文化と宗教とは何処までも相反する所に、相結合するということができる。私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。自己が自己において自己の影を映すということは、私がしばしば表現作用の場合においていう如く、それは絶対の断絶の連続ということでなければならない。それは何処までも超越的なるものが自己矛盾的に内在的、即ち絶対矛盾的自己同一ということでなければならない。宗教は文化を目的とするものではない、かえってその逆である。しかし真の文化は宗教から生れるものでなければならない。
絶対矛盾的自己同一の世界は自己自身の中に自己同一を有(も)たない。矛盾的自己同一として、いつもこの世界に超越的である。この故に限定するものなき限定として、その自己形成がイデヤ的である。斯(か)くこの世界が絶対に超越的なるものにおいて自己同一を有つということは、個物的多が何処までも超越的一に対するということでなければならない、個物が何処までも超越的なるものに対することによって個物となるということでなければならない。我々は神に対することによって人格となるのである。而して斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、逆に我々が神に結び附くことでなければならない。神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。絶対矛盾的自己同一的世界の個物として我々は自己成立の根柢において自己矛盾的なのである。それは文化発展によって減ぜられ行く矛盾ではなくして、かえって益※明(あきらか)となる矛盾であるのである。超越的なるものにおいて自己同一を有つ矛盾的自己同一的世界においては、作られたものから作るものへとの行為的直観的なポイエシス的過程は何処までも無限進行でなければならない。我々はその方向において絶対者に、神に結び附くのではない。我々は我々の自己成立の根柢において神に結合するのである(我々は被創造物であるのである)。
過去と未来とが自己矛盾的に、現在において同時存在的なる矛盾的自己同一的現在の形成要素として、我々は生命の始においてかかる約束の下に立たねばならない。我々はいつも絶対に接しているのである。唯これを意識せないのである。我々は自己矛盾の底に深く省みることによって、自己自身を翻して絶対に結合するのである、即ち神に帰依するのである。これを回心(えしん)という。そこには自己自身を否定することによって、真の自己を見出すのである。ルターは基督(キリスト)者の自由を論じて、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、すべてのものに奉仕する従僕であるという。故に我々はこの世界の中に自己同一を置く我々の行為によって宗教に入るのでなく、かかる行為そのもの、自己そのものの自己矛盾を反省することによって宗教に入るのである。而して我々が斯く自己自身の根柢において自己矛盾に撞着(どうちゃく)するというも、自己自身によるのでなく絶対の呼声でなければならない。自己自身によって自己否定はできない(ここに宗教家は恩寵(おんちょう)というものを考える)。この故に宗教は出世間的と考えられる。しかし右にもいった如く、宗教は絶対矛盾的自己同一的立場として、それによって真の文化が成立するのでなければならない。我々は何処までも超越的なる一者に対することによって、真の人格となるのである。而して超越的一者に対することによって自己が自己であるということは、同時に私がアガペ的に隣人に対することである。他を人格と見ることによって自己が人格となるという道徳的原理は、これに基(もとづ)くものでなければならない。かかる道徳的制約の下に、矛盾的自己同一的に、自己自身を形成する世界として、作られたものから作るものへと、世界はイデヤ的形成的でなければならない。
宗教は道徳の立場を無視するものではない。かえって真の道徳の立場は宗教によって基礎附けられるのである。しかしそれは自力作善(さぜん)の道徳的行為を媒介として宗教に入るということではない。親鸞(しんらん)が『歎異抄(たんにしょう)』においての善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやという語、深く味(あじわ)うべきである。また今日往々宗教の目的を個人的救済にあるかに考え、国家道徳と相容(あいい)れないかの如く思うのも、宗教の本質を知らないからである。宗教の問題は個人的安心にあるのではない。今日かかる撞着に迷うものは、絶対他力を私していたものに過ぎない。真に絶対に帰依したものは真に道徳を念とするものでなければならない。倫理的実体としての国家と宗教は矛盾するものではない。
東洋的無の宗教は即心是仏と説く。それは唯心論でもなく神秘主義でもない。論理的には、多と一との矛盾的自己同一ということでなければならない。一切即一というのは、一切が無差別的に一というのではない。それは絶対矛盾的自己同一として、一切がそれによって成立する一でなければならない。そこに絶対現在として歴史的世界成立の原理があるのである。我々は絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、いつもこれに対するということもできない絶対に接しているのである。即今目前孤明歴々地聴者、此人処々不滞、通貫十方[即今(そっこん)目前孤明歴歴(れきれき)地(じ)に聴く者、此の人は処処に滞(とどこお)らず、十方に通貫す]といわれる。我々は自己矛盾の底に絶対に死して、一切即一の原理に徹するのが即心是仏の宗教である。※祇今聴法者、不是※四大、能用※四大、若能如是見得、便乃去住自由[※(なんじ)が祇(た)だ今聴法するは、是れ※が四大にあらずして、能く※が四大を用う。若し能く是の如く見得せば、便乃(すなわ)ち去住自由ならん]という。しかもそれは虚幻の伴子たる意識的自己ということではなく、そこには絶対否定的転換がなければならない。故にそれは唯心論とか神秘主義とかいうものとは逆に、絶対の客観主義でなければならない。真の学問も道徳も、これによって成立するのである。心といっても主観的意識をいうのでなく、内亦不可得であり、無といっても、有に対する相対的無をいうのではない。
多と一との絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、自己自身をイデヤ的に形成し行く世界は、超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界である。故にこの世界においては、個物は個物的であればあるほど、超越的一者に対する。而して斯(か)く超越的一者に対するということは、内在的にはアガペ的に個物が個物に対することである。我々は作られたものから作るものへとして、歴史的にこの世界から生れるものでありながら、いつも我々は直接にこの世界を越えたものに対するものであり、即ちこの世界を越えたものである。そこに個物と世界とが対立する。前に行為的直観の立場において与えられたものというのは、我々の個人的自己に迫るもの、我々の魂を奪うものといったのは、これによるのである。それは我々の身体的生命を否定するのみならず、我々の魂を否定するものでなければならない。超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界の個物として、我々はこれに対して何処までも対立的である。与えられたものとして自己自身に迫り来るものに自己を奪われるかぎり、超越的一者において自己を有つ真の個物ではない。我々は何処までも物に奪われてはならない。そこに無上命法の根拠があるのである。しかしそれはまた何処までも絶対矛盾的自己同一的世界の個物としてでなければならない。然らざれば、単なる道徳的自尊として一種のヒュブリスたるに過ぎない。我々が右の如き個物として、人格的であればあるほど、作られたものから作るものへとして、イデヤ的形成的でなければならない。それは我々が創造的世界の創造的要素として、超越的一者の機関となるということでなければならない。そこに道徳的ということが、即ち宗教的ということであるのである。
世界は絶対矛盾的自己同一として、自己自身を越えたものにおいて自己同一を有(も)ち、我々は超越的一者に対することによって個物なるが故に、我々は個物的なればなるほど、現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を越えて、反省的であり、思惟的であるのである。世界が自己自身を越えたものにおいて自己同一を有つという時世界は表現的である、我々はかかる世界の個物として表現作用的である。而して世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。反省とは過去と未来とが現在において結合することでなければならない。かかる方向において過去と未来とが何処までも現在において否定せられ、無限に動き行く世界を一つの現在として把握するのが思惟の立場である。思惟の立場においては、表現的に世界を一つの現在として把握するのである。矛盾的自己同一的世界がそこには自己自身の中に自己同一を有つものとして把握せられるのである。自己矛盾的世界を非矛盾的に把握するのである。この故に思惟の立場は何処までも自己矛盾的である。而してそこに思惟と実践とが何処までも対立する、純なる知識の立場というものが成立するのである。世界が矛盾的自己同一として、イデヤ的形成的なればなるほど、我々は個物的として思惟的となるということができる。無限なる過去から無限なる未来へとして、何処までも自己自身の中に自己同一を有たない世界が、自己自身の中に自己同一を有つものとして推論式的一般者と考えられるのである。そこに科学的知識というものが成立するのである。
右の如く絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、いつもその矛盾的自己同一的現在において論理的に推論式的一般者と考えられる。斯く世界が何処までも自己自身の中に自己否定の契機を有つということが、世界が矛盾的自己同一的たる所以(ゆえん)であるのである。然らざれば、それは矛盾的自己同一的世界ではないのである。しかし絶対矛盾的自己同一的世界を何処までもかかる立場から把握して行くこと、即ち内在的に自己同一的に見るということは、それを抽象化することでなければならない。具体的論理はその否定的契機として抽象的論理を含まねばならないが、抽象的論理の立場から具体的論理的に考えることはできない。絶対矛盾的自己同一的世界は何処までも自己自身の中に、自己同一を有つことはできない。それは作られたものから作るものへという歴史のイデヤ的形成の契機として、含まれるものでなければならない。我々の自己が歴史的制作的自己として実在を把握し行く所に、具体的論理というものがあるのである。そこに多と一との矛盾的自己同一として我々が含まれている世界が、自己自身を明にするといい得るであろう。我々の意識は自己矛盾的に世界の意識となるのである。故にそこに我々が実践によって実在を映すとか、物が物自身を証明するとかいうこともできる。知識は抽象的分析から始まるといっても、如何なる立場から如何にということは、作られたものから作るものへとして、自己が如何なる立場にあるかの自覚からでなければならない。知識は歴史的過程でなければならない。私は右の如き歴史的生命の自覚という如きものを弁証法的論理というのである。故に科学も弁証法的である。但(ただ)それは作られたものからというに即するが故に、環境的といわねばならない。その立場からのみ歴史的生命の世界を見ることは、抽象的たるを免れない。
我々の生物的身体というものが歴史的生命として既に技術的である。アリストテレスのいう如く、身体的発展は自然のポイエシスである。しかし我々の社会的生命において、それが真に技術的となる。我々の身体は歴史的身体的と考えられる。かかる立場から、我々の歴史的生命は何処までも技術的といい得るであろう。しかしまた逆に歴史的生命が技術的ということは、矛盾的自己同一的に、何処までもイデヤ的形成的ということでなければならない。故に種的形成からイデヤ的形成に発展する。かかる意味においてのみ、特殊が即一般といい得るのである。
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底本:「西田幾多郎哲学論集III」岩波文庫、岩波書店
1989(昭和64)年 12月18日 第1刷発行
底本の親本:「西田幾多郎全集」岩波書店
入力:nns 校正:ちはる
ファイル作成:野口英司 2001年6月5日公開
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)のデータを縦書き表記に変更したものです。
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●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
η φυσι※ ποιει
第3水準1-6-57
益※(ますます)明となるのである。
益※明(あきらか)となる矛盾
第3水準1-2-22
※祇今聴法者、不是※四大、能用※四大、
第3水準1-14-45
※(なんじ)が祇(た)だ今聴法するは、是れ※が四大にあらずして、能く※が四大を用う。
第3水準1-14-13
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哥座 美学研究所
2009年4月14日
YU HASEGAWA
「哥座美学研究所」
二千九年一月
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