茶の本 岡倉天心(哥座うたくら)
     
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     茶の本 

          岡倉天心


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        もくじ

 第一章 人情の碗

茶は日常生活の俗事の中に美を崇拝する一種の審美的宗教すなわち茶道の域に達す――茶道は社会の上下を通じて広まる――新旧両世界の誤解――西洋における茶の崇拝――欧州の古い文献に現われた茶の記録――物と心の争いについての道教徒の話――現今における富貴権勢を得ようとする争い

 第二章 茶の諸流

茶の進化の三時期――唐《とう》、宋《そう》、明《みん》の時代を表わす煎茶《せんちゃ》、抹茶《ひきちゃ》、淹茶《だしちゃ》――茶道の鼻祖陸羽――三代の茶に関する理想――後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想ではない――日本においては茶は生の術に関する宗教である

 第三章 道教と禅道

道教と禅道との関係――道教とその後継者禅道は南方シナ精神の個人的傾向を表わす――道教は浮世をかかるものとあきらめて、この憂《う》き世の中にも美を見いだそうと努める――禅道は道教の教えを強調している――精進静慮することによって自性了解《じしょうりょうげ》の極致に達せられる――禅道は道教と同じく相対を崇拝する――人生の些事《さじ》の中にも偉大を考える禅の考え方が茶道の理想となる――道教は審美的理想の基礎を与え禅道はこれを実際的なものとした

 第四章 茶室

茶室は茅屋《ぼうおく》に過ぎない――茶室の簡素純潔――茶室の構造における象徴主義――茶室の装飾法――外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂

 第五章 芸術鑑賞

美術鑑賞に必要な同情ある心の交通――名人とわれわれの間の内密の黙契――暗示の価値――美術の価値はただそれがわれわれに語る程度による――現今の美術に対する表面的の熱狂は真の感じに根拠をおいていない――美術と考古学の混同――われわれは人生の美しいものを破壊することによって美術を破壊している

 第六章 花

花はわれらの不断の友――「花の宗匠」――西洋の社会における花の浪費――東洋の花卉栽培《かきさいばい》――茶の宗匠と生花の法則――生花の方法――花のために花を崇拝すること――生花の宗匠――生花の流派、形式派と写実派

 第七章 茶の宗匠

芸術を真に鑑賞することはただ芸術から生きた力を生み出す人にのみ可能である――茶の宗匠の芸術に対する貢献――処世上に及ぼした影響――利休の最後の茶の湯


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   茶の本
              岡倉天心
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 第一章 人情の碗
 茶は薬用として始まり後飲料となる。シナにおいては八世紀に高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々《じゅんじゅん》と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。

 茶の原理は普通の意味でいう単なる審美主義ではない。というのは、倫理、宗教と合して、天人《てんじん》に関するわれわれのいっさいの見解を表わしているものであるから。それは衛生学である、清潔をきびしく説くから。それは経済学である、というのは、複雑なぜいたくというよりもむしろ単純のうちに慰安を教えるから。それは精神幾何学である、なんとなれば、宇宙に対するわれわれの比例感を定義するから。それはあらゆるこの道の信者を趣味上の貴族にして、東洋民主主義の真精神を表わしている。

 日本が長い間世界から孤立していたのは、自省をする一助となって茶道の発達に非常に好都合であった。われらの住居、習慣、衣食、陶漆器、絵画等――文学でさえも――すべてその影響をこうむっている。いやしくも日本の文化を研究せんとする者は、この影響の存在を無視することはできない。茶道の影響は貴人の優雅な閨房《けいぼう》にも、下賤《げせん》の者の住み家にも行き渡ってきた。わが田夫は花を生けることを知り、わが野人も山水を愛《め》でるに至った。俗に「あの男は茶気《ちゃき》がない」という。もし人が、わが身の上におこるまじめながらの滑稽《こっけい》を知らないならば。また浮世の悲劇にとんじゃくもなく、浮かれ気分で騒ぐ半可通《はんかつう》を「あまり茶気があり過ぎる」と言って非難する。

 よその目には、つまらぬことをこのように騒ぎ立てるのが、実に不思議に思われるかもしれぬ。一杯のお茶でなんという騒ぎだろうというであろうが、考えてみれば、煎《せん》ずるところ人間享楽の茶碗《ちゃわん》は、いかにも狭いものではないか、いかにも早く涙であふれるではないか、無辺を求むる渇《かわき》のとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。してみれば、茶碗をいくらもてはやしたとてとがめだてには及ぶまい。人間はこれよりもまだまだ悪いことをした。酒の神バッカスを崇拝するのあまり、惜しげもなく奉納をし過ぎた。軍神マーズの血なまぐさい姿をさえも理想化した。してみれば、カメリヤの女皇に身をささげ、その祭壇から流れ出る暖かい同情の流れを、心ゆくばかり楽しんでもよいではないか。象牙色《ぞうげいろ》の磁器にもられた液体|琥珀《こはく》の中に、その道の心得ある人は、孔子《こうし》の心よき沈黙、老子《ろうし》の奇警、釈迦牟尼《しゃかむに》の天上の香にさえ触れることができる。

 おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖《そで》の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的|殺戮《さつりく》を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

 いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆《きも》を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのでないとしても、蓮《はす》の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。

 西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします。まだまだおもしろい種になることはいくらでもあろう、もしわれわれ諸君についてこれまで、想像したり書いたりしたことがすっかりおわかりになれば。すべて遠きものをば美しと見、不思議に対して知らず知らず感服し、新しい不分明なものに対しては、口には出さねど憤るということがそこに含まれている。諸君はこれまで、うらやましく思うこともできないほど立派な徳を負わされて、あまり美しくて、とがめることのできないような罪をきせられている。わが国の昔の文人は――その当時の物知りであった――まあこんなことを言っている。諸君には着物のどこか見えないところに、毛深いしっぽがあり、そしてしばしば赤ん坊の細切《こまぎ》り料理を食べていると! 否、われわれは諸君に対してもっと悪いことを考えていた。すなわち諸君は、地球上で最も実行不可能な人種と思っていた。というわけは、諸君は決して実行しないことを口では説いているといわれていたから。

 かくのごとき誤解はわれわれのうちからすみやかに消え去ってゆく。商業上の必要に迫られて欧州の国語が、東洋幾多の港に用いられるようになって来た。アジアの青年は現代的教育を受けるために、西洋の大学に群がってゆく。われわれの洞察力《どうさつりょく》は、諸君の文化に深く入り込むことはできない。しかし少なくともわれわれは喜んで学ぼうとしている。私の同国人のうちには、諸君の習慣や礼儀作法をあまりに多く取り入れた者がある。こういう人は、こわばったカラや丈《たけ》の高いシルクハットを得ることが、諸君の文明を得ることと心得違いをしていたのである。かかる様子ぶりは、実に哀れむべき嘆かわしいものであるが、ひざまずいて西洋文明に近づこうとする証拠となる。不幸にして、西洋の態度は東洋を理解するに都合が悪い。キリスト教の宣教師は与えるために行き、受けようとはしない。諸君の知識は、もし通りすがりの旅人のあてにならない話に基づくのでなければ、わが文学の貧弱な翻訳に基づいている。ラフカディオ・ハーンの義侠的《ぎきょうてき》ペン、または『インド生活の組織(一)』の著者のそれが、われわれみずからの感情の松明《たいまつ》をもって東洋の闇《やみ》を明るくすることはまれである。

 私はこんなにあけすけに言って、たぶん茶道についての私自身の無知を表わすであろう。茶道の高雅な精神そのものは、人から期待せられていることだけ言うことを要求する。しかし私は立派な茶人のつもりで書いているのではない。新旧両世界の誤解によって、すでに非常な禍《わざわい》をこうむっているのであるから、お互いがよく了解することを助けるために、いささかなりとも貢献するに弁解の必要はない。二十世紀の初めに、もしロシアがへりくだって日本をよく了解していたら、血なまぐさい戦争の光景は見ないで済んだであろうに。東洋の問題をさげすんで度外視すれば、なんという恐ろしい結果が人類に及ぶことであろう。ヨーロッパの帝国主義は、黄禍のばかげた叫びをあげることを恥じないが、アジアもまた、白禍の恐るべきをさとるに至るかもしれないということは、わかりかねている。諸君はわれわれを「あまり茶気があり過ぎる」と笑うかもしれないが、われわれはまた西洋の諸君には天性「茶気がない」と思うかもしれないではないか。

 東西両大陸が互いに奇警な批評を飛ばすことはやめにして、東西互いに得る利益によって、よし物がわかって来ないとしても、お互いにやわらかい気持ちになろうではないか。お互いに違った方面に向かって発展して来ているが、しかし互いに長短相補わない道理はない。諸君は心の落ちつきを失ってまで膨張発展を遂げた。われわれは侵略に対しては弱い調和を創造した。諸君は信ずることができますか、東洋はある点で西洋にまさっているということを!

 不思議にも人情は今までのところ茶碗《ちゃわん》に東西相合している。茶道は世界的に重んぜられている唯一のアジアの儀式である。白人はわが宗教道徳を嘲笑《ちょうしょう》した。しかしこの褐色飲料《かっしょくいんりょう》は躊躇《ちゅうちょ》もなく受け入れてしまった。午後の喫茶は、今や西洋の社会における重要な役をつとめている。盆や茶托《ちゃたく》の打ち合う微妙な音にも、ねんごろにもてなす婦人の柔らかい絹ずれの音にも、また、クリームや砂糖を勧められたり断わったりする普通の問答にも、茶の崇拝は疑いもなく確立しているということがわかる。渋いか甘いか疑わしい煎茶《せんちゃ》の味は、客を待つ運命に任せてあきらめる。この一事にも東洋精神が強く現われているということがわかる。

 ヨーロッパにおける茶についての最も古い記事は、アラビヤの旅行者の物語にあると言われていて、八七九年以後|広東《カントン》における主要なる歳入の財源は塩と茶の税であったと述べてある。マルコポーロは、シナの市舶司が茶税を勝手に増したために、一二八五年免職になったことを記録している。ヨーロッパ人が、極東についていっそう多く知り始めたのは、実に大発見時代のころである。十六世紀の終わりにオランダ人は、東洋において灌木《かんぼく》の葉からさわやかな飲料が造られることを報じた。ジオヴァーニ・バティスタ・ラムージオ(一五五九)、エル・アルメイダ(一五七六)、マフェノ(一五八八)、タレイラ(一六一〇)らの旅行者たちもまた茶のことを述べている(二)。一六一〇年に、オランダ東インド会社の船がヨーロッパに初めて茶を輸入した。一六三六年にはフランスに伝わり、一六三八年にはロシアにまで達した。英国は一六五〇年これを喜び迎えて、「かの卓絶せる、かつすべての医者の推奨するシナ飲料、シナ人はこれをチャと呼び、他国民はこれをテイまたはティーと呼ぶ。」と言っていた。

 この世のすべてのよい物と同じく、茶の普及もまた反対にあった。ヘンリー・セイヴィル(一六七八)のような異端者は、茶を飲むことを不潔な習慣として口をきわめて非難した。ジョウナス・ハンウェイは言った。(茶の説・一七五六)茶を用いれば男は身のたけ低くなり、みめをそこない、女はその美を失うと。茶の価の高いために(一ポンド約十五シリング)初めは一般の人の消費を許さなかった。「歓待|饗応《きょうおう》用の王室御用品、王侯貴族の贈答用品」として用いられた。しかしこういう不利な立場にあるにもかかわらず、喫茶は、すばらしい勢いで広まって行った。十八世紀前半におけるロンドンのコーヒー店は、実際喫茶店となり、アディソンやスティールのような文士のつどうところとなり、茶を喫しながらかれらは退屈しのぎをしたものである。この飲料はまもなく生活の必要品――課税品――となった。これに関連して、現代の歴史において茶がいかに主要な役を務めているかを思い出す。アメリカ植民地は圧迫を甘んじて受けていたが、ついに、茶の重税に堪えかねて人間の忍耐力も尽きてしまった。アメリカの独立は、ボストン港に茶箱を投じたことに始まる。

 茶の味には微妙な魅力があって、人はこれに引きつけられないわけにはゆかない、またこれを理想化するようになる。西洋の茶人たちは、茶のかおりとかれらの思想の芳香を混ずるに鈍ではなかった。茶には酒のような傲慢《ごうまん》なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。一七一一年にすでにスペクテイター紙に次のように言っている。「それゆえに私は、この私の考えを、毎朝、茶とバタつきパンに一時間を取っておかれるような、すべての立派な御家庭へ特にお勧めしたいと思います。そして、どうぞこの新聞を、お茶のしたくの一部分として、時間を守って出すようにお命じになることを、せつにお勧めいたします。」サミュエル・ジョンソンはみずからの人物を描いて次のように言っている。「因業《いんごう》な恥知らずのお茶飲みで、二十年間も食事を薄くするにただこの魔力ある植物の振り出しをもってした。そして茶をもって夕べを楽しみ、茶をもって真夜中を慰め、茶をもって晨《あした》を迎えた。」

 ほんとうの茶人チャールズ・ラムは、「ひそかに善を行なって偶然にこれが現われることが何よりの愉快である。」というところに茶道の真髄を伝えている。というわけは、茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。この道はおのれに向かって、落ち着いてしかし充分に笑うけだかい奥義である。従ってヒューマーそのものであり、悟りの微笑である。すべて真に茶を解する人はこの意味において茶人と言ってもよかろう。たとえばサッカレー、それからシェイクスピアはもちろん、文芸|廃頽期《はいたいき》の詩人もまた、(と言っても、いずれの時か廃頽期でなかろう)物質主義に対する反抗のあまりいくらか茶道の思想を受け入れた。たぶん今日においてもこの「不完全」を真摯《しんし》に静観してこそ、東西相会して互いに慰めることができるであろう。

 道教徒はいう、「無始」の始めにおいて「心」と「物」が決死の争闘をした。ついに大日輪|黄帝《こうてい》は闇《やみ》と地の邪神|祝融《しゅくゆう》に打ち勝った。その巨人は死苦のあまり頭を天涯《てんがい》に打ちつけ、硬玉の青天を粉砕した。星はその場所を失い、月は夜の寂寞《せきばく》たる天空をあてもなくさまようた。失望のあまり黄帝は、遠く広く天の修理者を求めた。捜し求めたかいはあって東方の海から女※[#「女+咼」、第3水準1-15-89]《じょか》という女皇、角《つの》をいただき竜尾《りゅうび》をそなえ、火の甲冑《かっちゅう》をまとって燦然《さんぜん》たる姿で現われた。その神は不思議な大釜《おおがま》に五色の虹《にじ》を焼き出し、シナの天を建て直した。しかしながら、また女※[#「女+咼」、第3水準1-15-89]は蒼天《そうてん》にある二個の小隙《しょうげき》を埋めることを忘れたと言われている。かくのごとくして愛の二元論が始まった。すなわち二個の霊は空間を流転してとどまることを知らず、ついに合して始めて完全な宇宙をなす。人はおのおの希望と平和の天空を新たに建て直さなければならぬ。

 現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大《ばくだい》な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、俗悪の闇《やみ》に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行なわれている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二|竜《りゅう》のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女※[#「女+咼」、第3水準1-15-89]《じょか》を必要とする。われわれは大権化《だいごんげ》の出現を待つ。まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟《しょうらい》はわが茶釜《ちゃがま》に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。


     第二章 茶の諸流
 茶は芸術品であるから、その最もけだかい味を出すには名人を要する。茶にもいろいろある、絵画に傑作と駄作《ださく》と――概して後者――があると同様に。と言っても、立派な茶をたてるのにこれぞという秘法はない、ティシアン、雪村《せっそん》のごとき名画を作製するのに何も規則がないと同様に。茶はたてるごとに、それぞれ個性を備え、水と熱に対する特別の親和力を持ち、世々相伝の追憶を伴ない、それ独特の話しぶりがある。真の美は必ず常にここに存するのである。芸術と人生のこの単純な根本的法則を、社会が認めないために、われわれはなんという損失をこうむっていることであろう。宋《そう》の詩人|李仲光《りちゅうこう》は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた、すなわち誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するものこれである。

 芸術と同じく、茶にもその時代と流派とがある。茶の進化は概略三大時期に分けられる、煎茶《せんちゃ》、抹茶《ひきちゃ》および掩茶《だしちゃ》すなわちこれである。われわれ現代人はその最後の流派に属している。これら茶のいろいろな味わい方は、その流行した当時の時代精神を表わしている。と言うのは、人生はわれらの内心の表現であり、知らず知らずの行動はわれわれの内心の絶えざる発露であるから。孔子いわく「人いずくんぞ※[#「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15]《かく》さんや、人いずくんぞ※[#「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15]《かく》さんや」と。たぶんわれわれは隠すべき偉大なものが非常に少ないからであろう、些事《さじ》に自己を顕《あら》わすことが多すぎて困る。日々起こる小事件も、哲学、詩歌の高翔《こうしょう》と同じく人種的理想の評論である。愛好する葡萄酒《ぶどうしゅ》の違いでさえ、ヨーロッパのいろいろな時代や国民のそれぞれの特質を表わしているように、茶の理想もいろいろな情調の東洋文化の特徴を表わしている。煮る団茶、かき回す粉茶、淹《だ》す葉茶《はぢゃ》はそれぞれ、唐《とう》、宋《そう》、明《みん》の気分を明らかに示している。もし、芸術分類に濫用された名称を借りるとすれば、これらをそれぞれ、古典的、ローマン的、および自然主義的な茶の諸流と言えるであろう。

 南シナの産なる茶の木は、ごく早い時代からシナの植物学界および薬物学界に知られていた。古典には、※[#「木+余」、32-9]《た》、※[#「くさかんむり/設」、32-9]《せつ》、※[#「くさかんむり/舛」、32-9]《せん》、※[#「木+賈」、第4水準2-15-63]《か》、茗《みょう》、というようないろいろな名前で書いてあって、疲労をいやし、精神をさわやかにし、意志を強くし、視力をととのえる効能があるために大いに重んぜられた。ただに内服薬として服用せられたのみならず、しばしばリューマチの痛みを軽減するために、煉薬《れんやく》として外用薬にも用いられた。道教徒は、不死の霊薬の重要な成分たることを主張した。仏教徒は、彼らが長時間の黙想中に、睡魔予防剤として広くこれを服用した。

 四五世紀のころには、揚子江《ようすこう》流域住民の愛好飲料となった。このころに至って始めて、現代用いている「茶」という表意文字が造られたのである。これは明らかに、古い「※[#「木+余」、32-15]《た》」の字の俗字であろう。南朝の詩人は「液体硬玉の泡沫《ほうまつ》」を熱烈に崇拝した跡が見えている。また帝王は、高官の者の勲功に対して上製の茶を贈与したものである。しかし、この時期における茶の飲み方はきわめて原始的なものであった。茶の葉を蒸して臼《うす》に入れてつき、団子として、米、薑《はじかみ》、塩、橘皮《きっぴ》、香料、牛乳等、時には葱《ねぎ》とともに煮るのであった。この習慣は現今チベット人および蒙古《もうこ》種族の間に行なわれていて、彼らはこれらの混合物で一種の妙なシロップを造るのである。ロシア人がレモンの切れを用いるのは――彼らはシナの隊商宿から茶を飲むことを覚えたのであるが――この古代の茶の飲み方が残っていることを示している。

 茶をその粗野な状態から脱して理想の域に達せしめるには、実に唐朝の時代精神を要した。八世紀の中葉に出た陸羽《りくう》(三)をもって茶道の鼻祖とする。かれは、仏、道、儒教が互いに混淆《こんこう》せんとしている時代に生まれた。その時代の汎神論的《はんしんろんてき》象徴主義に促されて、人は特殊の物の中に万有の反映を見るようになった。詩人陸羽は、茶の湯に万有を支配しているものと同一の調和と秩序を認めた。彼はその有名な著作茶経(茶の聖典)において、茶道を組織立てたのである。爾来《じらい》彼は、シナの茶をひさぐ者の保護神としてあがめられている。

 茶経は三巻十章よりなる。彼は第一章において茶の源を論じ、第二章、製茶の器具を論じ、第三章、製茶法を論じている(四)。彼の説によれば、茶の葉の質の最良なものは必ず次のようなものである。胡人《こじん》の※[#「革+華」、第4水準2-92-10]《かわぐつ》のごとくなる者|蹙縮然《しゅくしゅくぜん》たり(五) ※[#「封/牛」、第4水準2-80-24]牛《ほうぎゅう》の臆《むね》なる者|廉※[#「ころもへん+譫のつくり」、33-16]然《れんせんぜん》たり(六) 浮雲の山をいずる者輸菌然たり(七) 軽※[#「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1-94-8]《けいえん》の水を払う者|涵澹然《かんせんぜん》たり(八) また新治の地なる者暴雨|流潦《りゅうりょう》の経る所に遇《あ》うがごとし(九) 第四章はもっぱら茶器の二十四種を列挙してこれについての記述であって、風炉《ふろ》(一〇)に始まり、これらのすべての道具を入れる都籃《ちゃだんす》に終わっている。ここにもわれわれは陸羽の道教象徴主義に対する偏好を認める。これに連関して、シナの製陶術に及ぼした茶の影響を観察してみることもまた興味あることである。シナ磁器は、周知のごとく、その源は硬玉のえも言われぬ色合いを表わそうとの試みに起こり、その結果唐代には、南部の青磁と北部の白磁を生じた。陸羽は青色を茶碗《ちゃわん》に理想的な色と考えた、青色は茶の緑色を増すが白色は茶を淡紅色にしてまずそうにするから。それは彼が団茶を用いたからであった。その後|宋《そう》の茶人らが粉茶を用いるに至って、彼らは濃藍色《のうらんしょく》および黒褐色《こくかっしょく》の重い茶碗を好んだ。明人《みんじん》は淹茶《だしちゃ》を用い、軽い白磁を喜んだ。

 第五章において陸羽は茶のたて方について述べている。彼は塩以外の混合物を取り除いている。彼はまた、これまで大いに論ぜられていた水の選択、煮沸の程度の問題についても詳述している。彼の説によると、その水、山水を用うるは上《じょう》、江水は中、井水は下である。煮沸に三段ある。その沸、魚目(一一)のごとく、すこし声あるを一沸となし、縁辺の涌泉蓮珠《ゆうせんれんしゅ》(一二)のごとくなるを二沸となし、騰波鼓浪《とうはころう》(一三)を三沸となしている。団茶はこれをあぶって嬰児《えいじ》の臂《ひじ》のごとく柔らかにし、紙袋を用いてこれをたくわう。初沸にはすなわち、水量に合わせてこれをととのうるに塩味をもってし、第二沸に茶を入れる。第三沸には少量の冷水を※[#「金+腹のつくり」、第4水準2-91-15]《かま》に注ぎ、茶を静めてその「華(一四)」を育《やしな》う。それからこれを茶碗に注いで飲むのである。これまさに神酒! 晴天|爽朗《そうろう》なるに浮雲鱗然《ふうんりんぜん》たるあるがごとし(一五)。その沫《あわ》は緑銭の水渭《すいい》に浮かべるがごとし(一六)。唐の詩人|盧同《ろどう》の歌ったのはこのような立派な茶のことである。

一|椀《わん》喉吻《こうふん》潤い、二椀|孤悶《こもん》を破る。三椀枯腸をさぐる。惟《おも》う文字五千巻有り。四椀軽汗を発す。平生不平の事ことごとく毛孔に向かって散ず。五椀|肌骨《きこつ》清し。六椀|仙霊《せんれい》に通ず。七椀|吃《きつ》し得ざるに也《また》ただ覚ゆ両腋《りょうえき》習々清風の生ずるを。蓬莱山《ほうらいさん》はいずくにかある 玉川子《ぎょくせんし》この清風に乗じて帰りなんと欲す(一七)。

 茶経の残りの章は、普通の喫茶法の俗悪なこと、有名な茶人の簡単な実録、有名な茶園、あらゆる変わった茶器、および茶道具のさし絵が書いてある。最後の章は不幸にも欠けている。
 茶経が世に出て、当時かなりの評判になったに違いない。陸羽は代宗《だいそう》(七六三―七七九)の援《たす》くるところとなり、彼の名声はあがって多くの門弟が集まって来た。通人の中には、陸羽のたてた茶と、その弟子《でし》のたてた茶を飲み分けることができる者もいたということである。ある官人はこの名人のたてた茶の味がわからなかったために、その名を不朽に伝えている。

 宋代《そうだい》には抹茶《ひきちゃ》が流行するようになって茶の第二の流派を生じた。茶の葉は小さな臼《うす》で挽《ひ》いて細粉とし、その調製品を湯に入れて割り竹製の精巧な小箒《こぼうき》でまぜるのであった。この新しい方法が起こったために、陸羽が茶の葉の選択法はもちろん、茶のたて方にも多少の変化を起こすに至って、塩は永久にすてられた。宋人の茶に対する熱狂はとどまるところを知らなかった。食道楽の人は互いに競うて新しい変わった方法を発見しようとした、そしてその優劣を決するために定時の競技が行なわれた。徽宗《きそう》皇帝(一一〇一―一一二四)はあまりに偉い芸術家であって行ないよろしきにかなった王とはいえないが、茶の珍種を得んためにその財宝を惜しげもなく費やした。王みずから茶の二十四種についての論を書いて、そのうち、「白茶」を最も珍しい良質のものであるといって重んじている。

 宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界に映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫《えいごう》はこれただ瞬時――涅槃《ねはん》はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。かくのごとくして人は直ちに天に直面するようになった。新しい意味は次第に生の術にはいって来た。茶は風流な遊びではなくなって、自性了解《じしょうりょうげ》の一つの方法となって来た。王元之《おうげんし》は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快《そうかい》な苦味は善言の余馨《よけい》を思わせると言った。蘇東坡《そとうば》は茶の清浄|無垢《むく》な力について、真に有徳の君子のごとく汚《けが》すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教義を多く交じえた南方の禅宗が苦心|丹精《たんせい》の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨《ぼだいだるま》の像の前に集まって、ただ一個の碗《わん》から聖餐《せいさん》のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して十五世紀における日本の茶の湯となった。

 不幸にして十三世紀|蒙古《もうこ》種族の突如として起こるにあい、元朝《げんちょう》の暴政によってシナはついに劫掠《こうりゃく》征服せられ、宋代《そうだい》文化の所産はことごとく破壊せらるるに至った。十七世紀の中葉に国家再興を企ててシナ本国から起こった明朝《みんちょう》は内紛のために悩まされ、次いで十八世紀、シナはふたたび北狄《ほくてき》満州人の支配するところとなった。風俗習慣は変じて昔日の面影もなくなった。粉茶は全く忘れられている。明の一|訓詁学者《くんこがくしゃ》は宋代典籍の一にあげてある茶筅《ちゃせん》の形状を思い起こすに苦しんでいる。現今の茶は葉を碗《わん》に入れて湯に浸して飲むのである。西洋の諸国が古い喫茶法を知らない理由は、ヨーロッパ人は明朝の末期に茶を知ったばかりであるという事実によって説明ができるのである。

 後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想的なものではない。かの国の長い災禍は人生の意義に対する彼の強い興味を奪ってしまった。彼は現代的になった、すなわち老いて夢よりさめた。彼は詩人や古人の永遠の若さと元気を構成する幻影に対する崇高な信念を失ってしまった。彼は折衷家となって宇宙の因襲を静かに信じてこんなものだと悟っている。天をもてあそぶけれども、へりくだって天を征服しまたはこれを崇拝することはしない。彼の葉茶は花のごとき芳香を放ってしばしば驚嘆すべきものがあるが、唐宋《とうそう》時代の茶の湯のロマンスは彼の茶|碗《わん》には見ることができない。

 日本はシナ文化の先蹤《せんしょう》を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも七二九年|聖武《しょうむ》天皇|奈良《なら》の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。茶の葉はたぶん遣唐使によって輸入せられ、当時流行のたて方でたてられたものであろう。八〇一年には僧|最澄《さいちょう》茶の種を携え帰って叡山《えいざん》にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族|僧侶《そうりょ》の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。宋の茶は一一九一年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西《えいさい》禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所京都に近い宇治《うじ》は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播《でんぱ》し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。十五世紀のころには将軍|足利義政《あしかがよしまさ》の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来《じらい》茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶《せんちゃ》は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地歩を占めてはいるが。

 日本の茶の湯においてこそ始めて茶の理想の極点を見ることができるのである。一二八一年|蒙古《もうこ》襲来に当たってわが国は首尾よくこれを撃退したために、シナ本国においては蛮族侵入のため不幸に断たれた宋の文化運動をわれわれは続行することができた。茶はわれわれにあっては飲む形式の理想化より以上のものとなった、今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。茶室は寂寞《せきばく》たる人世の荒野における沃地《よくち》であった。疲れた旅人はここに会して芸術鑑賞という共同の泉から渇《かわき》をいやすことができた。茶の湯は、茶、花卉《かき》、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行なう――こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことには、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。


     第三章 道教と禅道
 茶と禅との関係は世間周知のことである。茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということはすでに述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。風俗習慣の起源に関するシナの教科書に、客に茶を供するの礼は老子の高弟|関尹《かんいん》(一八)に始まり、函谷関《かんこくかん》で「老哲人」にまず一|碗《わん》の金色の仙薬《せんやく》をささげたと書いてある。道教の徒がつとにこの飲料を用いたことを確証するようないろいろな話の真偽をゆっくりと詮議《せんぎ》するのも価値あることではあるが、それはさておきここでいう道教と禅道とに対する興味は、主としていわゆる茶道として実際に現われている、人生と芸術に関するそれらの思想に存するのである。

 遺憾ながら、道教徒と禅の教義とに関して、外国語で充分に表わされているものは今のところ少しもないように思われる。立派な試みはいくつかあったが(一九)。

 翻訳は常に叛逆《はんぎゃく》であって、明朝《みんちょう》の一作家の言のごとく、よくいったところでただ錦《にしき》の裏を見るに過ぎぬ。縦横の糸は皆あるが色彩、意匠の精妙は見られない。が、要するに容易に説明のできるところになんの大教理が存しよう。古《いにしえ》の聖人は決してその教えに系統をたてなかった。彼らは逆説をもってこれを述べた、というのは半面の真理を伝えんことを恐れたからである。彼らの始め語るや愚者のごとく終わりに聞く者をして賢ならしめた。老子みずからその奇警な言でいうに、「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」と。「道」は文字どおりの意味は「径路」である。それは the Way(行路)、the Absolute(絶対)、the Law(法則)、Nature(自然)、Supreme Reason(至理)、the Mode(方式)、等いろいろに訳されている。こういう訳も誤りではない。というのは道教徒のこの言葉の用法は、問題にしている話題いかんによって異なっているから。老子みずからこれについて次のように言っている。物有り混成し、天地に先だって生ず。寂《せき》たり寥《りょう》たり。独立して改めず。周行して殆《あやう》からず。もって天下の母となすべし。吾《われ》その名を知らず。これを字《あざな》して道という。強《し》いてこれが名をなして大という。大を逝《せい》といい、逝を遠といい、遠を反という。「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。「道」は道教徒の愛する象徴|竜《りゅう》のごとくにすでに反《かえ》り、雲のごとく巻ききたっては解け去る。「道」は大推移とも言うことができよう。主観的に言えば宇宙の気であって、その絶対は相対的なものである。

 まず第一に記憶すべきは、道教はその正統の継承者禅道と同じく、南方シナ精神の個人的傾向を表わしていて、儒教という姿で現われている北方シナの社会的思想とは対比的に相違があるということである。中国はその広漠《こうばく》たることヨーロッパに比すべく、これを貫流する二大水系によって分かたれた固有の特質を備えている。揚子江《ようすこう》と黄河《こうが》はそれぞれ地中海とバルト海である。幾世紀の統一を経た今日でも南方シナはその思想、信仰が北方の同胞と異なること、ラテン民族がチュートン民族とこれを異にすると同様である。古代交通が今日よりもなおいっそう困難であった時代、特に封建時代においては思想上のこの差異はことに著しいものであった。一方の美術、詩歌の表わす気分は他方のものと全く異なったものである。老子とその徒および揚子江畔自然詩人の先駆者|屈原《くつげん》の思想は、同時代北方作家の無趣味な道徳思想とは全く相容《あいい》れない一種の理想主義である。老子は西暦紀元前四世紀の人である。

 道教思想の萌芽《ほうが》は老※[#「耳+冉の4画目左右に突き出る」、第4水準2-85-11]《ろうたん》出現の遠い以前に見られる。シナ古代の記録、特に易経《えききょう》は老子の思想の先駆をなしている。しかし紀元前十二世紀、周朝《しゅうちょう》の確立とともに古代シナ文化は隆盛その極に達し、法律慣習が大いに重んぜられたために、個人的思想の発達は長い間阻止せられていた。周崩解して無数の独立国起こるにおよび、始めて自由思想がはなやかに咲き誇ることができた。老子|荘子《そうじ》は共に南方人で新派の大主唱者であった。一方孔子はその多くの門弟とともに古来の伝統を保守せんと志したものである。道教を解せんとするには多少儒教の心得がいる。この逆も同じである。

 道教でいう絶対は相対であることは、すでに述べたところであるが、倫理学においては道教徒は社会の法律道徳を罵倒《ばとう》した。というのは彼らにとっては正邪善悪は単なる相対的の言葉であったから。定義は常に制限である。「一定」「不変」は単に成長停止を表わす言葉に過ぎない。屈原《くつげん》いわく「聖人はよく世とともに推移す。」われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。人は真に徳行ある人たることを教えられずして行儀正しくせよと教えられる。われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行なう。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。世の中そのものがばかばかしいのにだれがよくまじめでいられよう! といい、物々交換の精神は至るところに現われている。義だ! 貞節だ! などというが、真善の小売りをして悦《えつ》に入っている販売人を見よ。人はいわゆる宗教さえもあがなうことができる。それは実のところたかの知れた倫理学を花や音楽で清めたもの。教会からその付属物を取り去ってみよ、あとに何が残るか。しかしトラスト(二〇)は不思議なほど繁盛する、値段が途方もなく安いから――天国へ行く切符代の御祈祷《ごきとう》も、立派な公民の免許状も。めいめい速く能を隠すがよい。もしほんとうに重宝だと世間へ知れたならば、すぐに競売に出されて最高入札者の手に落とされよう。男も女も何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。

 道教思想の雄渾《ゆうこん》なところは、その後続いて起こった種々の運動を支配したその力にも見られるが、それに劣らず、同時代の思想を切り抜けたその力に存している。秦朝《しんちょう》、といえばシナという名もこれに由来しているかの統一時代であるが、その朝を通じて道教は一活動力であった。もし時の余裕があれば、道教がその時代の思想家、数学家、法律家、兵法家、神秘家、錬金術家および後の江畔自然詩人らに及ぼした影響を注意して見るのも興味あることであろう。また白馬は白く、あるいは堅きがゆえにその実在いかんを疑った実在論者(二一)や、禅門のごとく清浄、絶対について談論した六朝《りくちょう》の清談家も無視することはできぬ。なかんずく、道教がシナ国民性の形成に寄与したところ、「温なること玉のごとし」という慎み、上品の力を与えた点に対して敬意を表すべきである。シナ歴史は、熱心な道教信者が王侯も隠者も等しく彼らの信条の教えに従って、いろいろな興味深い結果をもたらした実例に満ち満ちている。その物語には必ずその持ち前の楽しみもあり教訓もあろう。逸話、寓言《ぐうげん》、警句も豊かにあろう。生きていたことがないから死んだこともないあの愉快な皇帝と、求めても言葉をかわすくらいの間がらになりたいものである。列子とともに風に御《ぎょ》して寂静無為《じゃくじょうむい》を味わうこともできよう、われらみずから風であり、天にも属せず地にも属せず、その中間に住した河上の老人とともに中空にいるものであるから。現今のシナに見る、かの奇怪な、名ばかりの道教においてさえも、他の何道にも見ることのできないたくさんの比喩《ひゆ》を楽しむことができるのである。

 しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を――われら自身を取り扱うものであるから。われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあすの分かれるところである。「現在」は移動する「無窮」である。「相対性」の合法な活動範囲である。「相対性」は「安排」を求める。「安排」は「術」である。人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂《う》き世の中にも美を見いだそうと努めている。宋代《そうだい》のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるが、三教義の傾向を実に立派に説明している。昔、釈迦牟尼《しゃかむに》、孔子、老子が人生の象徴|酢瓶《すがめ》の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが酸《す》いと知り、仏陀《ぶっだ》はそれを苦《にが》いと呼び、老子はそれを甘いと言った。

 道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣《ひけつ》である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩《いんゆ》で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。

 道教徒のこういう考え方は、剣道|相撲《すもう》の理論に至るまで、動作のあらゆる理論に非常な影響を及ぼした。日本の自衛術である柔術はその名を道徳経の中の一句に借りている。柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。

 生の術をきわめた人は、道教徒の言うところの「士」であった。士は生まれると夢の国に入る、ただ死に当たって現実にめざめようとするように。おのが身を世に知れず隠さんために、みずからの聡明《そうめい》の光を和らげ、「予《よ》として冬、川を渉《わた》るがごとく、猶《ゆう》として四隣をおそるるがごとく、儼《げん》としてそれ客のごとく、渙《かん》として冰《こおり》のまさに釈《と》けんとするがごとく、敦《とん》としてそれ樸《ぼく》のごとく、曠《こう》としてそれ谷のごとく、渾《こん》としてそれ濁るがごとし(二二)。」士にとって人生の三宝は、慈、倹、および「あえて天下の先とならず(二三)。」ということであった。

 さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語《ぼんご》の禅那《ぜんな》(Dhyana)から出た名であってその意味は静慮《じょうりょ》である。精進《しょうじん》静慮することによって、自性了解《じしょうりょうげ》の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅密《ろっぱらみつ》の一つであって、釈迦牟尼《しゃかむに》はその後年の教えにおいて、特にこの方法を力説し、六則をその高弟|迦葉《かしょう》に伝えたと禅宗徒は確言している。かれらの言い伝えによれば、禅の始祖迦葉はその奥義を阿難陀《あなんだ》に伝え、阿難陀から順次に祖師相伝えてついに第二十八祖|菩提達磨《ぼだいだるま》に至った。菩提達磨は六世紀の前半に北シナに渡ってシナ禅宗の第一祖となった。これらの祖師やその教理の歴史については不確実なところが多い。禅を哲学的に見れば昔の禅学は一方において那伽閼剌樹那《ながあらじゅな》(二四)のインド否定論に似ており、また他方においては商羯羅阿闍梨《しゃんからあじゃり》の組み立てた無明《むみょう》観(二六)に似たところがあるように思われる。今日われらの知っているとおりの禅の教理は南方禅(南方シナに勢力があったことからそういわれる)の開山シナの第六祖|慧能《えのう》(六三七―七一三)が始めて説いたに違いない。慧能の後、ほどなく馬祖《ばそ》大師(七八八滅)これを継いで禅を中国人の生活における一活動勢力に作りあげた。馬祖の弟子《でし》百丈《ひゃくじょう》(七一九―八一四)は禅宗|叢林《そうりん》を開創し、禅林清規《ぜんりんしんぎ》を制定した。馬祖の時代以後の禅宗の問答を見ると、揚子江岸《ようすこうがん》精神の影響をこうむって、昔のインド理想主義とはきわ立って違ったシナ固有の考え方を増していることがわかる。いかほど宗派的精神の誇りが強くて、そうではないといったところで、南方禅が老子や清談家の教えに似ていることを感じないわけにはいかない。道徳経の中にすでに精神集中の重要なことや気息を適当に調節することを述べている――これは禅定に入るに必要欠くべからざる要件である。道徳経の良注釈の或《あ》るものは禅学者によって書かれたものである。

 禅道は道教と同じく相対を崇拝するものである。ある禅師は禅を定義して南天に北極星を識《し》るの術といっている。真理は反対なものを会得することによってのみ達せられる。さらに禅道は道教と同じく個性主義を強く唱道した。われらみずからの精神の働きに関係しないものはいっさい実在ではない。六祖|慧能《えのう》かつて二僧が風に翻る塔上の幡《ばん》を見て対論するのを見た。「一はいわく幡動くと。一はいわく風動くと。」しかし、慧能は彼らに説明して言った、これ風の動くにあらずまた幡《ばん》の動くにもあらずただ彼らみずからの心中のある物の動くなりと。百丈が一人の弟子と森の中を歩いていると一匹の兎《うさぎ》が彼らの近寄ったのを知って疾走し去った。「なぜ兎はおまえから逃げ去ったのか。」と百丈が尋ねると、「私を恐れてでしょう。」と答えた。祖師は言った、「そうではない、おまえに残忍性があるからだ。」と。この対話は道教の徒荘子の話を思い起させる。ある日荘子友と濠梁《ごうりょう》のほとりに遊んだ。荘子いわく「※[#「條」の「木」に代えて「黨−尚」、第3水準1-14-46]魚《じょうぎょ》いで遊びて従容《しょうよう》たり。これ魚の楽しむなり。」と。その友彼に答えていわく「子《し》は魚にあらず。いずくんぞ魚の楽しきを知らん。」と。「子は我れにあらず、いずくんぞわが魚の楽しきを知らざるを知らん。」と荘子は答えた。

 禅は正統の仏道の教えとしばしば相反した、ちょうど道教が儒教と相反したように。禅門の徒の先験的|洞察《どうさつ》に対しては言語はただ思想の妨害となるものであった。仏典のあらん限りの力をもってしてもただ個人的思索の注釈に過ぎないのである。禅門の徒は事物の内面的精神と直接交通しようと志し、その外面的の付属物はただ真理に到達する阻害と見なした。この絶対を愛する精神こそは禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨絵の略画を選ばしめるに至ったのである。禅学徒の中には、偶像や象徴によらないでおのれの中に仏陀《ぶっだ》を認めようと努めた結果、偶像破壊主義者になったものさえある。丹霞和尚《たんかおしょう》は大寒の日に木仏を取ってこれを焚《た》いたという話がある。かたわらにいた人は非常に恐れて言った、「なんとまあもったいない!」と。和尚は落ち着き払って答えた、「わしは仏様を焼いて、お前さんたちのありがたがっているお舎利《しゃり》を取るのだ。」「木仏の頭からお舎利が出てたまるものですか。」とつっけんどんな受け答えに、丹霞和尚がこたえて言った、「もし、お舎利の出ない仏様なら、何ももったいないことはないではないか。」そう言って振り向いてたき火にからだをあたためた。

 禅の東洋思想に対する特殊な寄与は、この現世の事をも後生《ごしょう》のことと同じように重く認めたことである。禅の主張によれば、事物の大相対性から見れば大と小との区別はなく、一原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。極致を求めんとする者はおのれみずからの生活の中に霊光の反映を発見しなければならぬ。禅林の組織はこういう見地から非常に意味深いものであった。祖師を除いて禅僧はことごとく禅林の世話に関する何か特別の仕事を課せられた。そして妙なことには新参者には比較的軽い務めを与えられたが、非常に立派な修行を積んだ僧には比較的うるさい下賤《げせん》な仕事が課せられた。こういう勤めが禅修行の一部をなしたものであって、いかなる些細《ささい》な行動も絶対完全に行なわなければならないのであった。こういうふうにして、庭の草をむしりながらでも、蕪菁《かぶら》を切りながらでも、またはお茶をくみながらでも、いくつもいくつも重要な論議が次から次へと行なわれた。茶道いっさいの理想は、人生の些事《さじ》の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え禅はこれを実際的なものとした。


     第四章 茶室
 石造や煉瓦《れんが》造り建築の伝統によって育てられた欧州建築家の目には、木材や竹を用いるわが日本式建築法は建築としての部類に入れる価値はほとんどないように思われる。ある相当立派な西洋建築の研究家がわが国の大社寺の実に完備していることを認め、これを称揚したのは全くほんの最近のことである。わが国で一流の建築についてこういう事情であるから、西洋とは全く趣を異にする茶室の微妙な美しさ、その建築の原理および装飾が門外漢に充分にわかろうとはまず予期できないことである。

 茶室(数寄屋《すきや》)は単なる小家で、それ以外のものをてらうものではない、いわゆる茅屋《ぼうおく》に過ぎない。数寄屋の原義は「好き家」である。後になっていろいろな宗匠が茶室に対するそれぞれの考えに従っていろいろな漢字を置き換えた、そして数寄屋という語は「空《す》き家」または「数奇家」の意味にもなる。それは詩趣を宿すための仮りの住み家であるからには「好き家」である。さしあたって、ある美的必要を満たすためにおく物のほかは、いっさいの装飾を欠くからには「空《す》き家」である。それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させるからには「数奇家」である。茶道の理想は十六世紀以来わが建築術に非常な影響を及ぼしたので、今日、日本の普通の家屋の内部はその装飾の配合が極端に簡素なため、外国人にはほとんど没趣味なものに見える。

 始めて独立した茶室を建てたのは千宗易《せんのそうえき》、すなわち後に利休《りきゅう》という名で普通に知られている大宗匠で、彼は十六世紀|太閤秀吉《たいこうひでよし》の愛顧をこうむり、茶の湯の儀式を定めてこれを完成の域に達せしめた。茶室の広さはその以前に十五世紀の有名な宗匠|紹鴎《じょうおう》によって定められていた。初期の茶室はただ普通の客間の一部分を茶の会のために屏風《びょうぶ》で仕切ったものであった。その仕切った部分は「かこい」と呼ばれた。その名は、家の中に作られていて独立した建物ではない茶室へ今もなお用いられている。数寄屋は、「グレイスの神よりは多く、ミューズの神よりは少ない。」という句を思い出させるような五人しかはいれないしくみの茶室本部と、茶器を持ち込む前に洗ってそろえておく控えの間(水屋《みずや》)と、客が茶室へはいれと呼ばれるまで待っている玄関(待合《まちあい》)と、待合と茶室を連絡している庭の小道(露地《ろじ》)とから成っている。茶室は見たところなんの印象も与えない。それは日本のいちばん狭い家よりも狭い。それにその建築に用いられている材料は、清貧を思わせるようにできている。しかしこれはすべて深遠な芸術的思慮の結果であって、細部に至るまで、立派な宮殿寺院を建てるに費やす以上の周到な注意をもって細工が施されているということを忘れてはならない。よい茶室は普通の邸宅以上に費用がかかる、というのはその細工はもちろんその材料の選択に多大の注意と綿密を要するから。実際茶人に用いられる大工は、職人の中でも特殊な、非常に立派な部類を成している。彼らの仕事は漆器家具匠の仕事にも劣らぬ精巧なものであるから。

 茶室はただに西洋のいずれの建築物とも異なるのみならず、日本そのものの古代建築とも著しい対照をなしている。わが国古代の立派な建築物は宗教に関係あるものもないものも、その大きさだけから言っても侮りがたいものであった。数世紀の間不幸な火災を免れて来たわずかの建築物は、今なおその装飾の壮大華麗によって、人に畏敬《いけい》の念をおこさせる力がある。直径二尺から三尺、高さ三十尺から四十尺の巨柱は、複雑な腕木《うでぎ》の網状細工によって、斜めの瓦屋根《かわらやね》の重みにうなっている巨大な梁《はり》をささえていた。建築の材料や方法は、火に対しては弱いけれども地震には強いということがわかった。そしてわが国の気候によく適していた。法隆寺《ほうりゅうじ》の金堂《こんどう》や薬師寺《やくしじ》の塔は木造建築の耐久性を示す注目すべき実例である。これらの建物は十二世紀の間事実上そのまま保全せられていた。古い宮殿や寺の内部は惜しげもなく装飾を施されていた。十世紀にできた宇治《うじ》の鳳凰堂《ほうおうどう》には今もなお昔の壁画彫刻の遺物はもとより、丹精《たんせい》をこらした天蓋《てんがい》、金を蒔《ま》き鏡や真珠をちりばめた廟蓋《びょうがい》を見ることができる。後になって、日光や京都二条の城においては、アラビア式またはムーア式華麗をつくした力作にも等しいような色彩の美や精巧をきわめたたくさんの装飾のために、建築構造の美が犠牲にせられているのを見る。

 茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものである。禅院は他の宗派のものと異なってただ僧の住所として作られている。その会堂は礼拝巡礼の場所ではなくて、禅修行者が会合して討論し黙想する道場である。その室は、中央の壁の凹所《おうしょ》、仏壇の後ろに禅宗の開祖|菩提達磨《ぼだいだるま》の像か、または祖師|迦葉《かしょう》と阿難陀《あなんだ》をしたがえた釈迦牟尼《しゃかむに》の像があるのを除いてはなんの飾りもない。仏壇には、これら聖者の禅に対する貢献を記念して香華《こうげ》がささげてある。茶の湯の基をなしたものはほかではない、菩提達磨の像の前で同じ碗《わん》から次々に茶を喫《の》むという禅僧たちの始めた儀式であったということはすでに述べたところである。が、さらにここに付言してよかろうと思われることは禅院の仏壇は、床の間――絵や花を置いて客を教化する日本間の上座――の原型であったということである。

 わが国の偉い茶人は皆禅を修めた人であった。そして禅の精神を現実生活の中へ入れようと企てた。こういうわけで茶室は茶の湯の他の設備と同様に禅の教義を多く反映している。正統の茶室の広さは四畳半で維摩《ゆいま》の経文《きょうもん》の一節によって定められている。その興味ある著作において、馥柯羅摩訶秩多《びからまかちった》(二七)は文珠師利菩薩《もんじゅしりぼさつ》と八万四千の仏陀《ぶっだ》の弟子《でし》をこの狭い室に迎えている。これすなわち真に覚《さと》った者には一切皆空《いっさいかいくう》という理論に基づくたとえ話である。さらに待合から茶室に通ずる露地は黙想の第一階段、すなわち自己照明に達する通路を意味していた。露地は外界との関係を断って、茶室そのものにおいて美的趣味を充分に味わう助けとなるように、新しい感情を起こすためのものであった。この庭径を踏んだことのある人は、常緑樹の薄明に、下には松葉の散りしくところを、調和ある不ぞろいな庭石の上を渡って、苔《こけ》むした石燈籠《いしどうろう》のかたわらを過ぎる時、わが心のいかに高められたかを必ず思い出すであろう。たとえ都市のまん中にいてもなお、あたかも文明の雑踏や塵《ちり》を離れた森の中にいるような感がする。こういう静寂純潔の効果を生ぜしめた茶人の巧みは実に偉いものであった。露地を通り過ぎる時に起こすべき感情の性質は茶人によっていろいろ違っていた。利休のような人たちは全くの静寂を目的とし、露地を作るの奥意は次の古歌の中にこもっていると主張した(二八)。
 見渡せば花ももみじもなかりけり    浦のとまやの秋の夕暮れ(二九) 
その他|小堀遠州《こぼりえんしゅう》のような人々はまた別の効果を求めた。遠州は庭径の着想は次の句の中にあると言った。夕月夜《ゆうづくよ》海すこしある木《こ》の間《ま》かな(三〇)

彼の意味を推測するのは難くない。彼は、影のような過去の夢の中になおさまよいながらも、やわらかい霊光の無我の境地に浸って、渺茫《びょうぼう》たるかなたに横たわる自由をあこがれる新たに目ざめた心境をおこそうと思った。

 こういう心持ちで客は黙々としてその聖堂に近づいて行く。そしてもし武士ならばその剣を軒下の刀架《とうか》にかけておく、茶室は至極平和の家であるから。それから客は低くかがんで、高さ三尺ぐらいの狭い入り口〔にじり口〕からにじってはいる。この動作は、身|貴《たっと》きも卑しきも同様にすべての客に負わされる義務であって、人に謙譲を教え込むためのものであった。席次は待合で休んでいる間に定まっているので、客は一人ずつ静かにはいってその席につき、まず床の間の絵または生花に敬意を表する。主人は、客が皆着席して部屋《へや》が静まりきり、茶釜《ちゃがま》にたぎる湯の音を除いては、何一つ静けさを破るものもないようになって、始めてはいってくる。茶釜は美しい音をたてて鳴る。特殊のメロディーを出すように茶釜の底に鉄片が並べてあるから。これを聞けば、雲に包まれた滝の響きか岩に砕くる遠海の音か竹林を払う雨風か、それともどこか遠き丘の上の松籟《しょうらい》かとも思われる。

 日中でも室内の光線は和らげられている。傾斜した屋根のある低いひさしは日光を少ししか入れないから。天井から床に至るまですべての物が落ち着いた色合いである。客みずからも注意して目立たぬ着物を選んでいる。古めかしい和らかさがすべての物に行き渡っている。ただ清浄|無垢《むく》な白い新しい茶筅《ちゃせん》と麻ふきんが著しい対比をなしているのを除いては、新しく得られたらしい物はすべて厳禁せられている。茶室や茶道具がいかに色あせて見えてもすべての物が全く清潔である。部屋《へや》の最も暗いすみにさえ塵《ちり》一本も見られない。もしあるようならばその主人は茶人とはいわれないのである。茶人に第一必要な条件の一は掃き、ふき清め、洗うことに関する知識である、払い清めるには術を要するから。金属細工はオランダの主婦のように無遠慮にやっきとなってはたいてはならない。花瓶《かびん》からしたたる水はぬぐい去るを要しない、それは露を連想させ、涼味を覚えさせるから。

 これに関連して、茶人たちのいだいていた清潔という考えをよく説明している利休についての話がある。利休はその子|紹安《じょうあん》が露地を掃除《そうじ》し水をまくのを見ていた。紹安が掃除を終えた時利休は「まだ充分でない。」と言ってもう一度しなおすように命じた。いやいやながら一時間もかかってからむすこは父に向かって言った、「おとうさん、もう何もすることはありません。庭石は三度洗い石燈籠《いしどうろう》や庭木にはよく水をまき蘚苔《こけ》は生き生きした緑色に輝いています。地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」「ばか者、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と言ってその茶人はしかった。こう言って利休は庭におり立ち一樹を揺すって、庭一面に秋の錦《にしき》を片々と黄金、紅の木の葉を散りしかせた。利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。

「好き家」という名はある個人の芸術的要求にかなうように作られた建物という意味を含んでいる。茶室は茶人のために作ったものであって茶人は茶室のためのものではない。それは子孫のために作ったのではないから暫定的である。人は各自独立の家を持つべきであるという考えは日本民族古来の習慣に基づいたもので、神道の迷信的習慣の定めによれば、いずれの家もその家長が死ぬと引き払うことになっている。この習慣はたぶんあるわからない衛生上の理由もあってのことかもしれない。また別に昔の習慣として新婚の夫婦には新築の家を与えるということもあった。こういう習慣のために古代の皇居は非常にしばしば次から次へとうつされた。伊勢《いせ》の大廟《たいびょう》を二十年ごとに再築するのは古《いにしえ》の儀式の今日なお行なわれている一例である。こういう習慣を守るのは組み立て取りこわしの容易なわが国の木造建築のようなある建築様式においてのみ可能であった。煉瓦《れんが》石材を用いるやや永続的な様式は移動できないようにしたであろう、奈良朝《ならちょう》以後シナの鞏固《きょうこ》な重々しい木造建築を採用するに及んで実際移動不可能になったように。

 しかしながら十五世紀禅の個性主義が勢力を得るにつれて、その古い考えは茶室に連関して考えられ、これにある深い意味がしみこんで来た。禅は仏教の有為転変《ういてんぺん》の説と精神が物質を支配すべきであるというその要求によって家をば身を入れるただ仮りの宿と認めた。その身とてもただ荒野にたてた仮りの小屋、あたりにはえた草を結んだか弱い雨露しのぎ――この草の結びが解ける時はまたもとの野原に立ちかえる。茶室において草ぶきの屋根、細い柱の弱々しさ、竹のささえの軽《かろ》やかさ、さてはありふれた材料を用いて一見いかにも無頓着《むとんじゃく》らしいところにも世の無常が感ぜられる。常住は、ただこの単純な四囲の事物の中に宿されていて風流の微光で物を美化する精神に存している。

 茶室はある個人的趣味に適するように建てらるべきだということは、芸術における最も重要な原理を実行することである。芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。伝統や型式に屈従することは、建築に個性の表われるのを妨げるものである。現在日本に見るような洋式建築の無分別な模倣を見てはただ涙を注ぐほかはない。われわれは不思議に思う、最も進歩的な西洋諸国の間に何ゆえに建築がかくも斬新《ざんしん》を欠いているのか、かくも古くさい様式の反復に満ちているのかと。たぶん今芸術の民本主義の時代を経過しつつ、一方にある君主らしい支配者が出現して新たな王朝をおこすのを待っているのであろう。願わくは古人を憬慕《けいぼ》することはいっそうせつに、かれらに模倣することはますます少なからんことを! ギリシャ国民の偉大であったのは決して古物に求めなかったからであると伝えられている。

「空《す》き家」という言葉は道教の万物|包涵《ほうかん》の説を伝えるほかに、装飾精神の変化を絶えず必要とする考えを含んでいる。茶室はただ暫時美的感情を満足さすためにおかれる物を除いては、全く空虚である。何か特殊な美術品を臨時に持ち込む、そしてその他の物はすべて主調の美しさを増すように選択配合せられるのである。人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできぬ、美しいものの真の理解はただある中心点に注意を集中することによってのみできるのであるから。かくのごとくわが茶室の装飾法は、現今西洋に行なわれている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わっているような装飾法とは趣を異にしていることがわかるだろう。装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品《こっとうひん》のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。一個の傑作品でも絶えずながめて楽しむには多大の鑑賞力を要する。してみれば欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌《こんとん》たる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心はさぞかし際限もなく深いものであろう。

「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良《なら》時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表わすのみならず重複を表わすものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。人物は見る人みずからの姿として現われているのであるから。実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえも単調になりがちである。茶室においては重複の恐れが絶えずある。室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜《かま》を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。黒釉薬《くろうわぐすり》の茶わんは黒塗りの茶入れとともに用いてはならぬ。香炉や花瓶《かびん》を床の間にすえるにも、その場所を二等分してはならないから、ちょうどそのまん中に置かぬよう注意せねばならぬ。少しでも室内の単調の気味を破るために、床の間の柱は他の柱とは異なった材木を用いねばならぬ。

 この点においてもまた日本の室内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。西洋の家ではわれわれから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことである。肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人であろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をいだいてくる。お祝いの饗宴《きょうえん》に連なりながら食堂の壁に描かれたたくさんのものをつくづくながめて、ひそかに消化の傷害をおこしたことは幾度も幾度もある。何ゆえにこのような遊猟の獲物を描いたものや魚類|果物《くだもの》の丹精《たんせい》こめた彫刻をおくのであるか。何ゆえに家伝の金銀食器を取り出して、かつてそれを用いて食事をし今はなき人を思い出させるのであるか。

 茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。十六世紀日本の改造統一にあずかった政治家やたけき武士《もののふ》にとって茶室はありがたい休養所となった。十七世紀徳川治世のきびしい儀式固守主義の発達した後は、茶室は芸術的精神と自由に交通する唯一の機会を与えてくれた。偉大なる芸術品の前には大名も武士も平民も差別はなかった。今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。


     第五章 芸術鑑賞
 諸君は「琴ならし」という道教徒の物語を聞いたことがありますか。
 大昔、竜門《りゅうもん》の峡谷《きょうこく》に、これぞ真の森の王と思われる古桐《ふるぎり》があった。頭はもたげて星と語り、根は深く地中におろして、その青銅色のとぐろ巻きは、地下に眠る銀竜《ぎんりゅう》のそれとからまっていた。ところが、ある偉大な妖術者《ようじゅつしゃ》がこの木を切って不思議な琴をこしらえた。そしてその頑固《がんこ》な精を和らげるには、ただ楽聖の手にまつよりほかはなかった。長い間その楽器は皇帝に秘蔵せられていたが、その弦から妙《たえ》なる音《ね》をひき出そうと名手がかわるがわる努力してもそのかいは全くなかった。彼らのあらん限りの努力に答えるものはただ軽侮の音、彼らのよろこんで歌おうとする歌とは不調和な琴の音ばかりであった。

 ついに伯牙《はくが》という琴の名手が現われた。御《ぎょ》しがたい馬をしずめようとする人のごとく、彼はやさしく琴を撫《ぶ》し、静かに弦をたたいた。自然と四季を歌い、高山を歌い、流水を歌えば、その古桐の追憶はすべて呼び起こされた。再び和らかい春風はその枝の間に戯れた。峡谷《きょうこく》をおどりながら下ってゆく若い奔流は、つぼみの花に向かって笑った。たちまち聞こえるのは夢のごとき、数知れぬ夏の虫の声、雨のばらばらと和らかに落ちる音、悲しげな郭公《かっこう》の声。聞け! 虎《とら》うそぶいて、谷これにこたえている。秋の曲を奏すれば、物さびしき夜に、剣《つるぎ》のごとき鋭い月は、霜のおく草葉に輝いている。冬の曲となれば、雪空に白鳥の群れ渦巻《うずま》き、霰《あられ》はぱらぱらと、嬉々《きき》として枝を打つ。

 次に伯牙は調べを変えて恋を歌った。森は深く思案にくれている熱烈な恋人のようにゆらいだ。空にはつんとした乙女《おとめ》のような冴《さ》えた美しい雲が飛んだ。しかし失望のような黒い長い影を地上にひいて過ぎて行った。さらに調べを変えて戦いを歌い、剣戟《けんげき》の響きや駒《こま》の蹄《ひづめ》の音を歌った。すると、琴中に竜門《りゅうもん》の暴風雨起こり、竜は電光に乗じ、轟々《ごうごう》たる雪崩《なだれ》は山々に鳴り渡った。帝王は狂喜して、伯牙に彼の成功の秘訣《ひけつ》の存するところを尋ねた。彼は答えて言った、「陛下、他の人々は自己の事ばかり歌ったから失敗したのであります。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か伯牙が琴か、ほんとうに自分にもわかりませんでした。」と。

 この物語は芸術鑑賞の極意《ごくい》をよく説明している。傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である。美の霊手に触れる時、わが心琴の神秘の弦は目ざめ、われわれはこれに呼応して振動し、肉をおどらせ血をわかす。心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。名匠はわれわれの知らぬ調べを呼び起こす。長く忘れていた追憶はすべて新しい意味をもってかえって来る。恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬《どうけい》が、栄《は》えばえと現われて来る。わが心は画家の絵の具を塗る画布である。その色素はわれわれの感情である。その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。

 美術鑑賞に必要な同情ある心の交通は、互譲の精神によらなければならない。美術家は通信を伝える道を心得ていなければならないように、観覧者は通信を受けるに適当な態度を養わなければならない。宗匠|小堀遠州《こぼりえんしゅう》は、みずから大名でありながら、次のような忘れがたい言葉を残している。「偉大な絵画に接するには、王侯に接するごとくせよ。」傑作を理解しようとするには、その前に身を低うして息を殺し、一言一句も聞きもらさじと待っていなければならない。宋《そう》のある有名な批評家が、非常におもしろい自白をしている。「若いころには、おのが好む絵を描く名人を称揚したが、鑑識力の熟するに従って、おのが好みに適するように、名人たちが選んだ絵を好むおのれを称した。」現今、名人の気分を骨を折って研究する者が実に少ないのは、誠に歎かわしいことである。われわれは、手のつけようのない無知のために、この造作《ぞうさ》のない礼儀を尽くすことをいとう。こうして、眼前に広げられた美の饗応《きょうおう》にもあずからないことがしばしばある。名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている。

 同情ある人に対しては、傑作が生きた実在となり、僚友関係のよしみでこれに引きつけられるここちがする。名人は不朽である。というのは、その愛もその憂《うれ》いも、幾度も繰り返してわれわれの心に生き残って行くから。われわれの心に訴えるものは、伎倆《ぎりょう》というよりは精神であり、技術というよりも人物である。呼び声が人間味のあるものであれば、それだけにわれわれの応答は衷心から出て来る。名人とわれわれの間に、この内密の黙契があればこそ詩や小説を読んで、その主人公とともに苦しみ共に喜ぶのである。わが国の沙翁《しゃおう》近松《ちかまつ》は劇作の第一原則の一つとして、見る人に作者の秘密を打ち明かす事が重要であると定めた。弟子《でし》たちの中には幾人も、脚本をさし出して彼の称賛を得ようとした者があったが、その中で彼がおもしろいと思ったのはただ一つであった。それは、ふたごの兄弟が、人違いのために苦しむという『まちがいつづき』に多少似ている脚本であった。近松が言うには、「これこそ、劇本来の精神をそなえている。というのは、これは見る人を考えに入れているから公衆が役者よりも多く知ることを許されている。公衆は誤りの因を知っていて、哀れにも、罪もなく運命の手におちて行く舞台の上の人々を哀れむ。」と。

 大家は、東西両洋ともに、見る人を腹心の友とする手段として、暗示の価値を決して忘れなかった。傑作をうちながめる人たれか心に浮かぶ綿々たる無限の思いに、畏敬《いけい》の念をおこさない者があろう。傑作はすべて、いかにも親しみあり、肝胆相照らしているではないか。これにひきかえ、現代の平凡な作品はいかにも冷ややかなものではないか。前者においては、作者の心のあたたかい流露を感じ、後者においては、ただ形式的の会釈を感ずるのみである。現代人は、技術に没頭して、おのれの域を脱することはまれである。竜門《りゅうもん》の琴を、なんのかいもなくかき鳴らそうとした楽人のごとく、ただおのれを歌うのみであるから、その作品は、科学には近かろうけれども、人情を離れること遠いのである。日本の古い俚諺《りげん》に「見えはる男には惚《ほ》れられぬ。」というのがある。そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすべきすきまがないからである。芸術においてもこれと等しく、虚栄は芸術家公衆いずれにおいても同情心を害することはなはだしいものである。

 芸術において、類縁の精神が合一するほど世にも神聖なものはない。その会するやたちまちにして芸術愛好者は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は永劫《えいごう》を瞥見《べっけん》するけれども、目には舌なく、言葉をもってその喜びを声に表わすことはできない。彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている。かくのごとくして芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。これによってこそ傑作は神聖なものとなるのである。昔日本人が大芸術家の作品を崇敬したことは非常なものであった。茶人たちはその秘蔵の作品を守るに、宗教的秘密をもってしたから、御神龕《ごしんかん》(絹地の包みで、その中へやわらかに包んで奥の院が納めてある)まで達するには、幾重にもある箱をすっかり開かねばならないことがしばしばあった。その作品が人目にふれることはきわめてまれで、しかも奥義を授かった人にのみ限られていた。

 茶道の盛んであった時代においては、太閤《たいこう》の諸将は戦勝の褒美《ほうび》として、広大な領地を賜わるよりも、珍しい美術品を贈られることを、いっそう満足に思ったものであった。わが国で人気ある劇の中には、有名な傑作の喪失回復に基づいて書いたものが多い。たとえば、ある劇にこういう話がある。細川侯《ほそかわこう》の御殿には雪村《せっそん》の描いた有名な達磨《だるま》があったが、その御殿が、守りの侍の怠慢から火災にかかった。侍は万事を賭《と》して、この宝を救い出そうと決心して、燃える御殿に飛び入って、例の掛け物をつかんだ、が、見ればはや、火炎にさえぎられて、のがれる道はなかったのである。彼は、ただその絵のことのみを心にかけて、剣をもっておのが肉を切り開き、裂いた袖《そで》に雪村を包んで、大きく開いた傷口にこれを突っ込んだ。火事はついにしずまった。煙る余燼《よじん》の中に、半焼の死骸《しがい》があった。その中に、火の災いをこうむらないで、例の宝物は納まっていた。実に身の毛もよだつ物語であるが、これによって、信頼を受けた侍の忠節はもちろんのこと、わが国人がいかに傑作品を重んじるかということが説明される。

 しかしながら、美術の価値はただそれがわれわれに語る程度によるものであることを忘れてはならない。その言葉は、もしわれわれの同情が普遍的であったならば、普遍的なものであるかもしれない。が、われわれの限定せられた性質、代々相伝の本性はもちろんのこと、慣例、因襲の力は美術鑑賞力の範囲を制限するものである。われらの個性さえも、ある意味においてわれわれの理解力に制限を設けるものである。そして、われらの審美的個性は、過去の創作品の中に自己の類縁を求める。もっとも、修養によって美術鑑賞力は増大するものであって、われわれはこれまでは認められなかった多くの美の表現を味わうことができるようになるものである。が、畢竟《ひっきょう》するところ、われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである。すなわちわれら特有の性質がわれらの理解方式を定めるのである。茶人たちは全く各人個々の鑑賞力の及ぶ範囲内の物のみを収集した。

 これに連関して小堀遠州に関する話を思い出す。遠州はかつてその門人たちから、彼が収集する物の好みに現われている立派な趣味を、お世辞を言ってほめられた。「どのお品も、実に立派なもので、人皆嘆賞おくあたわざるところであります。これによって先生は、利休にもまさる趣味をお持ちになっていることがわかります。というのは、利休の集めた物は、ただ千人に一人しか真にわかるものがいなかったのでありますから。」と。遠州は歎じて、「これはただいかにも自分が凡俗であることを証するのみである。偉い利休は、自分だけにおもしろいと思われる物をのみ愛好する勇気があったのだ。しかるに私は、知らず知らず一般の人の趣味にこびている。実際、利休は千人に一人の宗匠であった。」と答えた。

 実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着《むとんじゃく》に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。一般民衆にとっては、彼らみずからの工業主義の尊い産物である絵入りの定期刊行物をながめるほうが、彼らが感心したふりをしている初期のイタリア作品や、足利《あしかが》時代の傑作よりも美術鑑賞の糧《かて》としてもっと消化しやすいであろう。彼らにとっては、作品の良否よりも美術家の名が重要である。数世紀前、シナのある批評家の歎じたごとく、世人は耳によって絵画を批評する。今日いずれの方面を見ても、擬古典的|嫌悪《けんお》を感ずるのは、すなわちこの真の鑑賞力の欠けているためである。

 なお一つ一般に誤っていることは、美術と考古学の混同である。古物から生ずる崇敬の念は、人間の性質の中で最もよい特性であって、いっそうこれを涵養《かんよう》したいものである。古《いにしえ》の大家は、後世啓発の道を開いたことに対して、当然尊敬をうくべきである。彼らは幾世紀の批評を経て、無傷のままわれわれの時代に至り、今もなお光栄を荷《に》のうているというだけで、われわれは彼らに敬意を表している。が、もしわれわれが、彼らの偉業を単に年代の古きゆえをもって尊んだとしたならば、それは実に愚かなことである。しかもわれわれは、自己の歴史的同情心が、審美的眼識を無視するままに許している。美術家が無事に墳墓におさめられると、われわれは称賛の花を手向《たむ》けるのである。進化論の盛んであった十九世紀には、人類のことを考えて個人を忘れる習慣が作られた。収集家は一時期あるいは一派を説明する資料を得んことを切望して、ただ一個の傑作がよく、一定の時期あるいは一派のいかなる多数の凡俗な作にもまさって、われわれを教えるものであるということを忘れている。われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒であった。

 同時代美術の要求は、人生の重要な計画において、いかなるものにもこれを無視することはできない。今日の美術は真にわれわれに属するものである、それはわれわれみずからの反映である。これを罵倒《ばとう》する時は、ただ自己を罵倒するのである。今の世に美術無し、というが、これが責めを負うべき者はたれぞ。古人に対しては、熱狂的に嘆賞するにもかかわらず、自己の可能性にはほとんど注意しないことは恥ずべきことである。世に認められようとして苦しむ美術家たち、冷たき軽侮の影に逡巡《しゅんじゅん》している疲れた人々よ! などというが、この自己本位の世の中に、われわれは彼らに対してどれほどの鼓舞激励を与えているか。過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。われわれは人生の美しい物を破壊することによって美術を破壊している。ねがわくは、ある大妖術者《だいようじゅつしゃ》が出現して、社会の幹から、天才の手に触れて始めて鳴り渡る弦をそなえた大琴を作らんことを祈る。


     第六章 花
 春の東雲《しののめ》のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人間について見れば、花を観賞することはどうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。無意識のゆえに麗しく、沈黙のために芳しい花の姿でなくて、どこに処女《おとめ》の心の解ける姿を想像することができよう。原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。

 喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花とともに飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行なう。花がなくては死んでも行けぬ。百合《ゆり》の花をもって礼拝し、蓮《はす》の花をもって冥想《めいそう》に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。さらに花言葉で話そうとまで企てた。花なくてどうして生きて行かれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。病める人の枕《まくら》べに非常な慰安をもたらし、疲れた人々の闇《やみ》の世界に喜悦の光をもたらすものではないか。その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれる。われらが土に葬られる時、われらの墓辺を、悲しみに沈んで低徊《ていかい》するものは花である。

 悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣《きんじゅう》の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいて見れば、心の奥の狼《おおかみ》はすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩《ぼんのう》のほか何物も神聖なものはない。神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊《ほうかい》して来たが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚《た》く「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ! われらは神へ奉納するために自然を荒らしている物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう!

 星の涙のしたたりのやさしい花よ、園に立って、日の光や露の玉をたたえて歌う蜜蜂《みつばち》に、会釈してうなずいている花よ、お前たちは、お前たちを待ち構えている恐ろしい運命を承知しているのか。夏のそよ風にあたって、そうしていられる間、いつまでも夢を見て、風に揺られて浮かれ気分で暮らすがよい。あすにも無慈悲な手が咽喉《のど》を取り巻くだろう。お前はよじ取られて手足を一つ一つ引きさかれ、お前の静かな家から連れて行ってしまわれるだろう。そのあさましの者はすてきな美人であるかもしれぬ。そして、お前の血でその女の指がまだ湿っている間は、「まあなんて美しい花だこと。」というかもしれぬ。だがね、これが親切なことだろうか。お前が、無情なやつだと承知している者の髪の中に閉じ込められたり、もしお前が人間であったらまともに見向いてくれそうにもない人のボタン穴にさされたりするのが、お前の宿命なのかもしれない。何か狭い器に監禁せられて、ただわずかのたまり水によって、命の衰え行くのを警告する狂わんばかりの渇《かわき》を止めているのもお前の運命なのかもしれぬ。

 花よ、もし御門《みかど》の国にいるならば、鋏《はさみ》と小鋸《このこぎり》に身を固めた恐ろしい人にいつか会うかもしれぬ。その人はみずから「生花の宗匠」と称している。彼は医者の権利を要求する。だから、自然彼がきらいになるだろう。というのは、医者というものはその犠牲になった人のわずらいをいつも長びかせようとする者だからね。彼はお前たちを切ってかがめゆがめて、彼の勝手な考えでお前たちの取るべき姿勢をきめて、途方もない変な姿にするだろう。もみ療治をする者のようにお前たちの筋肉を曲げ、骨を違わせるだろう。出血を止めるために灼熱《しゃくねつ》した炭でお前たちを焦がしたり、循環を助けるためにからだの中へ針金をさし込むこともあろう。塩、酢、明礬《みょうばん》、時には硫酸を食事に与えることもあろう。お前たちは今にも気絶しそうな時に、煮え湯を足に注がれることもあろう。彼の治療を受けない場合に比べると、二週間以上も長くお前たちの体内に生命を保たせておくことができるのを彼は誇りとしているだろう。お前たちは初めて捕えられた時、その場で殺されたほうがよくはなかったか。いったいお前は前世でどんな罪を犯したとて、現世でこんな罰を当然受けねばならないのか。

 西洋の社会における花の浪費は東洋の宗匠の花の扱い方よりもさらに驚き入ったものである。舞踏室や宴会の席を飾るために日々切り取られ、翌日は投げ捨てられる花の数はなかなか莫大《ばくだい》なものに違いない。いっしょにつないだら一大陸を花輪で飾ることもできよう。このような、花の命を全く物とも思わぬことに比ぶれば、花の宗匠の罪は取るに足らないものである。彼は少なくとも自然の経済を重んじて、注意深い慮《おもんぱか》りをもってその犠牲者を選び、死後はその遺骸《いがい》に敬意を表する。西洋においては、花を飾るのは富を表わす一時的美観の一部、すなわちその場の思いつきであるように思われる。これらの花は皆その騒ぎの済んだあとはどこへ行くのであろう。しおれた花が無情にも糞土《ふんど》の上に捨てられているのを見るほど、世にも哀れなものはない。

 どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのであろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。ボンネットを飾るために羽毛をねらわれている鳥はその追い手から飛び去ることができる、人が上着にしたいとむさぼる毛皮のある獣は、人が近づけば隠れることができる。悲しいかな! 翼ある唯一の花と知られているのは蝶《ちょう》であって、他の花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない。われわれは、黙々としてわれらに仕えわれらを愛する人々に対して絶えず残忍であるが、これがために、これらの最もよき友からわれわれが見捨てられる時が来るかもしれない。諸君は、野生の花が年々少なくなってゆくのに気はつきませんか。それは彼らの中の賢人どもが、人がもっと人情のあるようになるまでこの世から去れと彼らに言ってきかせたのかもしれない。たぶん彼らは天へ移住してしまったのであろう。

 草花を作る人のためには大いに肩を持ってやってもよい。植木鉢《うえきばち》をいじる人は花鋏《はなばさみ》の人よりもはるかに人情がある。彼が水や日光について心配したり、寄生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出ようがおそい時は心配し、葉に光沢が出て来ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものである。東洋では花卉《かき》栽培の道は非常に古いものであって、詩人の嗜好《しこう》とその愛好する花卉はしばしば物語や歌にしるされている。唐宋《とうそう》の時代には陶器術の発達に伴なって、花卉を入れる驚くべき器が作られたということである。といっても植木鉢ではなく宝石をちりばめた御殿であった。花ごとに仕える特使が派遣せられ、兎《うさぎ》の毛で作ったやわらかい刷毛《はけ》でその葉を洗うのであった。牡丹《ぼたん》は、盛装した美しい侍女が水を与うべきもの、寒梅は青い顔をしてほっそりとした修道僧が水をやるべきものと書いた本がある。日本で、足利《あしかが》時代に作られた「鉢《はち》の木」という最も通俗な能の舞は、貧困な武士がある寒夜に炉に焚《た》く薪《まき》がないので、旅僧を歓待するために、だいじに育てた鉢の木を切るという話に基づいて書いたものである。その僧とは実はわが物語のハルンアルラシッド(三一)ともいうべき北条時頼《ほうじょうときより》にほかならなかった。そしてその犠牲に対しては報酬なしではなかった。この舞は現今でも必ず東京の観客の涙を誘うものである。

 か弱い花を保護するためには、非常な警戒をしたものであった。唐の玄宗《げんそう》皇帝は、鳥を近づけないために花園の樹枝に小さい金の鈴をかけておいた。春の日に宮廷の楽人を率いていで、美しい音楽で花を喜ばせたのも彼であった。わが国のアーサー王物語の主人公ともいうべき、義経《よしつね》の書いたものだという伝説のある、奇妙な高札が日本のある寺院(須磨寺《すまでら》)に現存している。それはある不思議な梅の木を保護するために掲げられた掲示であって、尚武《しょうぶ》時代のすごいおかしみをもってわれらの心に訴える。梅花の美しさを述べた後「一枝を伐《き》らば一指を剪《き》るべし。」という文が書いてある。花をむやみに切り捨てたり、美術品をばだいなしにする者どもに対しては、今日においてもこういう法律が願わくは実施せられよかしと思う。

 しかし鉢植《はちう》えの花の場合でさえ、人間の勝手気ままな事が感ぜられる気がする。何ゆえに花をそのふるさとから連れ出して、知らぬ他郷に咲かせようとするのであるか。それは小鳥を籠《かご》に閉じこめて、歌わせようとするのも同じではないか。蘭《らん》類が温室で、人工の熱によって息づまる思いをしながら、なつかしい南国の空を一目見たいとあてもなくあこがれているとだれが知っていよう。

 花を理想的に愛する人は、破れた籬《まがき》の前に座して野菊と語った陶淵明《とうえんめい》や、たそがれに、西湖《せいこ》の梅花の間を逍遙《しょうよう》しながら、暗香浮動の趣に我れを忘れた林和靖《りんかせい》のごとく、花の生まれ故郷に花をたずねる人々である。周茂叔《しゅうもしゅく》は、彼の夢が蓮《はす》の花の夢と混ずるように、舟中に眠ったと伝えられている。この精神こそは奈良朝《ならちょう》で有名な光明皇后《こうみょうこうごう》のみ心《こころ》を動かしたものであって、「折りつればたぶさにけがるたてながら三世《みよ》の仏に花たてまつる(三二)。」とお詠《よ》みになった。

 しかしあまりに感傷的になることはやめよう。奢《おご》る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。老子いわく「天地不仁(三三)。」弘法大師《こうぼうだいし》いわく「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥《くら》し(三四)。」われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵《ブラーマン》(三五)の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。われわれは、無情な慈悲の神「死」をば種々の名前であがめて来た。拝火教徒が火中に迎えたものは、「すべてを呑噬《どんぜい》するもの」の影であった。今日でも、神道の日本人がその前にひれ伏すところのものは、剣魂《つるぎだましい》の氷のような純潔である。神秘の火はわれらの弱点を焼きつくし、神聖な剣は煩悩《ぼんのう》のきずなを断つ。われらの屍灰《しかい》の中から天上の望みという不死の鳥が現われ、煩悩を脱していっそう高い人格が生まれ出て来る。

 花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚《こうしょう》にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚《せいそ》」に身をささげる事によってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。

 わが茶や花の宗匠のやり口を知っている人はだれでも、彼らが宗教的の尊敬をもって花を見る事に気がついたに違いない。彼らは一枝一条もみだりに切り取る事をしないで、おのが心に描く美的配合を目的に注意深く選択する。彼らは、もし絶対に必要の度を越えて万一切り取るようなことがあると、これを恥とした。これに関連して言ってもよろしいと思われる事は、彼らはいつも、多少でも葉があればこれを花に添えておくという事である。というのは、彼らの目的は花の生活の全美を表わすにあるから。この点については、その他の多くの点におけると同様、彼らの方法は西洋諸国に行なわれるものとは異なっている。かの国では、花梗《かこう》のみ、いわば胴のない頭だけが乱雑に花瓶《かびん》にさしこんであるのをよく見受ける。

 茶の宗匠が花を満足に生けると、彼はそれを日本間の上座にあたる床の間に置く。その効果を妨げるような物はいっさいその近くにはおかない。たとえば一幅の絵でも、その配合に何か特殊の審美的理由がなければならぬ。花はそこに王位についた皇子のようにすわっている、そして客やお弟子《でし》たちは、その室に入るやまずこれに丁寧なおじぎをしてから始めて主人に挨拶《あいさつ》をする。生花の傑作を写した絵が素人《しろうと》のために出版せられている。この事に関する文献はかなり大部なものである。花が色あせると宗匠はねんごろにそれを川に流し、または丁寧に地中に埋める。その霊を弔って墓碑を建てる事さえもある。

 花道の生まれたのは十五世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われる。わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは昔の仏教徒であると言う。彼らは生物に対する限りなき心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めて、それを水おけに入れたということである。足利義政《あしかがよしまさ》時代の大画家であり、鑑定家である相阿弥《そうあみ》は、初期における花道の大家の一人であったといわれている。茶人|珠光《しゅこう》はその門人であった。また絵画における狩野《かのう》家のように、花道の記録に有名な池の坊の家元|専能《せんのう》もこの人の門人であった。十六世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生花も充分なる発達を遂げた。利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽《おだうらく》、古田織部《ふるたおりべ》、光悦《こうえつ》、小堀遠州《こぼりえんしゅう》、片桐石州《かたぎりせきしゅう》らは新たな配合を作ろうとして互いに相競った。しかし茶人たちの花の尊崇は、ただ彼らの審美的儀式の一部をなしたに過ぎないのであって、それだけが独立して、別の儀式をなしてはいなかったという事を忘れてはならぬ。生花は茶室にある他の美術品と同様に、装飾の全配合に従属的なものであった。ゆえに石州は「雪が庭に積んでいる時は白い梅花を用いてはならぬ。」と規定した。「けばけばしい」花は無情にも茶室から遠ざけられた。茶人の生けた生花はその本来の目的の場所から取り去ればその趣旨を失うものである。と言うのは、その線やつり合いは特にその周囲のものとの配合を考えてくふうしてあるのであるから。

 花を花だけのために崇拝する事は、十七世紀の中葉、花の宗匠が出るようになって起こったのである。そうなると茶室には関係なく、ただ花瓶《かびん》が課する法則のほかには全く法則がなくなった。新しい考案、新しい方法ができるようになって、これらから生まれ出た原則や流派がたくさんあった。十九世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげる事ができる。広く言えばこれら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれる。池の坊を家元とする形式派は、狩野派《かのうは》に相当する古典的理想主義をねらっていた。初期のこの派の宗匠の生花の記録があるが、それは山雪《さんせつ》や常信《つねのぶ》の花の絵をほとんどそのままにうつし出したものである。一方写実派はその名の示すごとく、自然をそのモデルと思って、ただ美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけである。ゆえにこの派の作には浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められる。

 時の余裕があれば、この時代の幾多の花の宗匠の定めた生花の法則になお詳細に立ち入って、徳川時代の装飾を支配していた根本原理を明らかにすること(そうすれば明らかになると思われるが)は興味あることであろう。彼らは導く原理(天)、従う原理(地)、和の原理(人)のことを述べている、そしてこれらの原理をかたどらない生花は没趣味な死んだ花であると考えられた。また花を、正式、半正式、略式の三つの異なった姿に生ける必要を詳述している。第一は舞踏場へ出るものものしい服装をした花の姿を現わし、第二はゆったりとした趣のある午後服の姿を現わし、第三は閨房《けいぼう》にある美しい平常着の姿を現わすともいわれよう。

 われらは花の宗匠の生花よりも茶人の生花に対してひそかに同情を持つ。茶人の花は、適当に生けると芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているからわれわれの心に訴えるのである。この流派を、写実派および形式派と対称区別して、自然派と呼びたい。茶人たちは、花を選択することでかれらのなすべきことは終わったと考えて、その他のことは花みずからの身の上話にまかせた。晩冬のころ茶室に入れば、野桜の小枝につぼみの椿《つばき》の取りあわせてあるのを見る。それは去らんとする冬のなごりときたらんとする春の予告を配合したものである。またいらいらするような暑い夏の日に、昼のお茶に行って見れば、床の間の薄暗い涼しい所にかかっている花瓶《かびん》には、一輪の百合《ゆり》を見るであろう。露のしたたる姿は、人生の愚かさを笑っているように思われる。

 花の独奏《ソロ》はおもしろいものであるが、絵画、彫刻の協奏曲《コンチェルト》となれば、その取りあわせには人を恍惚《こうこつ》とさせるものがある。石州はかつて湖沼の草木を思わせるように水盤に水草を生けて、上の壁には相阿弥《そうあみ》の描いた鴨《かも》の空を飛ぶ絵をかけた。紹巴《じょうは》という茶人は、海辺の野花と漁家の形をした青銅の香炉に配するに、海岸のさびしい美しさを歌った和歌をもってした。その客人の一人は、その全配合の中に晩秋の微風を感じたとしるしている。

 花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。十六世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精《たんせい》こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤《たいこう》のお耳に達すると太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこにはみごとなものが待っていて彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工《そうざいく》の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。

 こういう例を見ると、「花御供《はなごく》」の意味が充分にわかる。たぶん花も充分にその真の意味を知るであろう。彼らは人間のような卑怯者《ひきょうもの》ではない。花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野《よしの》や嵐山《あらしやま》のかおる雪崩《なだれ》の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く。」というようである。


     第七章 茶の宗匠
 宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは茶室において得た風流の高い軌範によって彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ、そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行なわなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子などすべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある。利休は好んで次の古歌を引用した。花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや(三六) 茶の宗匠たちの芸術に対する貢献は実に多方面にわたっていた。彼らは古典的建築および屋内の装飾を全く革新して、前に茶室の章で述べた新しい型を確立した。その影響は十六世紀以後に建てられた宮殿寺院さえも皆これをうけている。多能な小堀遠州《こぼりえんしゅう》は、桂《かつら》の離宮、名古屋《なごや》の城および孤篷庵《こほうあん》に、彼が天才の著名な実例をのこしている。日本の有名な庭園は皆茶人によって設計せられたものである。わが国の陶器はもし彼らが鼓舞を与えてくれなかったら、優良な品質にはたぶんならなかったであろう。茶の湯に用いられた器具の製造のために、製陶業者のほうではあらん限りの新くふうの知恵を絞ったのであった。遠州の七窯《なながま》は日本の陶器研究者の皆よく知っているところである。わが国の織物の中には、その色彩や意匠を考案した宗匠の名を持っているものが多い。実際、芸術のいかなる方面にも、茶の宗匠がその天才の跡をのこしていないところはない。絵画、漆器に関しては彼らの尽くした莫大《ばくだい》の貢献についていうのはほとんど贅言《ぜいげん》と思われる。絵画の一大派はその源を、茶人であり同時にまた塗師《ぬし》、陶器師として有名な本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》に発している。彼の作品に比すれば、その孫の光甫《こうほ》や甥《おい》の子|光琳《こうりん》および乾山《けんざん》の立派な作もほとんど光を失うのである。いわゆる光琳派はすべて、茶道の表現である。この派の描く太い線の中に、自然そのものの生気が存するように思われる。

 茶の宗匠が芸術界に及ぼした影響は偉大なものではあったが、彼らが処世上に及ぼした影響の大なるに比すれば、ほとんど取るに足らないものである。上流社会の慣例におけるのみならず、家庭の些事《さじ》の整理に至るまで、われわれは茶の宗匠の存在を感ずるのである。配膳法《はいぜんほう》はもとより、美味の膳部の多くは彼らの創案したものである。彼らは落ち着いた色の衣服をのみ着用せよと教えた。また生花に接する正しい精神を教えてくれた。彼らは、人間は生来簡素を愛するものであると強調して、人情の美しさを示してくれた。実際、彼らの教えによって茶は国民の生活の中にはいったのである。

 この人生という、愚かな苦労の波の騒がしい海の上の生活を、適当に律してゆく道を知らない人々は、外観は幸福に、安んじているようにと努めながらも、そのかいもなく絶えず悲惨な状態にいる。われわれは心の安定を保とうとしてはよろめき、水平線上に浮かぶ雲にことごとく暴風雨の前兆を見る。しかしながら、永遠に向かって押し寄せる波濤《はとう》のうねりの中に、喜びと美しさが存している。何ゆえにその心をくまないのであるか、また列子のごとく風そのものに御《ぎょ》しないのであるか。

 美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。大宗匠たちの臨終はその生涯《しょうがい》と同様に絶妙都雅なものであった。彼らは常に宇宙の大調和と和しようと努め、いつでも冥土《めいど》へ行くの覚悟をしていた。利休の「最後の茶の湯」は悲壮の極として永久にかがやくであろう。

 利休と太閤秀吉《たいこうひでよし》との友誼は長いものであって、この偉大な武人が茶の宗匠を尊重したことも非常なものであった。しかし暴君の友誼はいつも危険な光栄である。その時代は不信にみちた時代であって、人は近親の者さえも信頼しなかった。利休は媚《こ》びへつらう佞人《ねいじん》ではなかったから、恐ろしい彼の後援者と議論して、しばしば意見を異にするをもはばからなかった。太閤と利休の間にしばらく冷ややかな感情のあったのを幸いに、利休を憎む者どもは利休がその暴君を毒害しようとする一味の連累であると言った。宗匠のたてる一|碗《わん》の緑色飲料とともに、命にかかわる毒薬が盛られることになっているということが、ひそかに秀吉の耳にはいった。秀吉においては、嫌疑《けんぎ》があるというだけでも即時死刑にする充分な理由であった、そしてその怒れる支配者の意に従うよりほかに哀訴の道もなかったのである。死刑囚にただ一つの特権が許された、すなわち自害するという光栄である。

 利休が自己犠牲をすることに定められた日に、彼はおもなる門人を最後の茶の湯に招いた。客は悲しげに定刻待合に集まった。庭径をながむれば樹木も戦慄《せんりつ》するように思われ、木の葉のさらさらとそよぐ音にも、家なき亡者《もうじゃ》の私語が聞こえる。地獄の門前にいるまじめくさった番兵のように、灰色の燈籠《とうろう》が立っている。珍香の香が一時に茶室から浮動して来る。それは客にはいれとつげる招きである。一人ずつ進み出ておのおのその席につく。床の間には掛け物がかかっている、それは昔ある僧の手になった不思議な書であって浮世のはかなさをかいたものである。火鉢《ひばち》にかかって沸いている茶釜《ちゃがま》の音には、ゆく夏を惜しみ悲痛な思いを鳴いている蝉《せみ》の声がする。やがて主人が室に入る。おのおの順次に茶をすすめられ、順次に黙々としてこれを飲みほして、最後に主人が飲む。定式に従って、主賓がそこでお茶器拝見を願う。利休は例の掛け物とともにいろいろな品を客の前におく。皆の者がその美しさをたたえて後、利休はその器を一つずつ一座の者へ形見として贈る。茶わんのみは自分でとっておく。「不幸の人のくちびるによって不浄になった器は決して再び人間には使用させない。」と言ってかれはこれをなげうって粉砕する。

 その式は終わった、客は涙をおさえかね、最後の訣別《けつべつ》をして室を出て行く。彼に最も親密な者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるようにと頼まれる。そこで利休は茶会の服を脱いで、だいじにたたんで畳の上におく、それでその時まで隠れていた清浄|無垢《むく》な白い死に装束があらわれる。彼は短剣の輝く刀身を恍惚《こうこつ》とながめて、次の絶唱を詠《よ》む。

人生七十 力囲希咄《りきいきとつ》 吾《わ》が這《こ》の宝剣 祖仏共に殺す(三七)

笑《え》みを顔にうかべながら、利休は冥土《めいど》へ行ったのであった。


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番号
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一 『インド生活の組織』―― The Sister Nivedita 著。
二 Paul Kransel 著、Dissertations, Berlin, 1902.
三 陸羽――字は鴻漸、桑苧翁と号した。唐の徳宗時代の人。
四 茶経には一之源、二之具、三之造とある。
五 胡人の※[#「革+華」、第4水準2-92-10]のごとくなる者蹙縮然たり――如[#二]胡人※[#「革+華」、第4水準2-92-10][#一]者蹙縮然。※[#「革+華」、第4水準2-92-10]は高ぐつ。蹙縮は※[#「革+華」、第4水準2-92-10]の針縫いの所のしまり縮まるを言う。
六 ※[#「封/牛」、第4水準2-80-24]牛の臆なる者廉※[#「ころもへん+譫のつくり」、89-9]然たり――※[#「封/牛」、第4水準2-80-24]牛臆者廉※[#「ころもへん+譫のつくり」、89-9]然。※[#「封/牛」、第4水準2-80-24]牛は野牛。廉※[#「ころもへん+譫のつくり」、89-9]は衣装などの裁ち目たたみ目などのそろったさま。これは※[#「封/牛」、第4水準2-80-24]牛の臆《むね》のすじの通ったのを言う。
七 浮雲の山をいずる者輪菌然たり――浮雲出[#レ]山者輪菌然。輪菌は丸くてねじける。雲のたちのぼるさまを言う。
八 軽※[#「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1-94-8]の水を払う者涵澹然たり――軽※[#「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1-94-8]払[#レ]水者涵澹然。涵澹は水のさま。少し波立つ状態を言う。
九 また新治の地なる者暴雨流潦の経る所に遇うがごとし――又如[#三]新治地着遇[#二]暴雨流潦之所[#一レ]経。新治の地は瓦礫《がれき》を去ったやわらかな土面、雨水にあった跡を言う。潦は路上の流水。
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一〇 風炉――灰うけ、風炉とは風を通すによって名づける。今の風炉は名のみのこるものである。
一一 魚目――小さい湯玉を魚目にたとえる。
一二 縁辺の涌泉蓮珠――湯のにえあがるのを泉にたとえ、湯玉の多いのを連珠にたとえる。
二二 騰波鼓浪――波だち、波うつ。
一四 「華」――茶気。
一五 晴天爽朗なるに浮雲鱗然たるあるがごとし――如[#三]晴天爽朗有[#二]浮雲鱗然[#一]。雲のかたちを魚のうろこにたとえる。
一六 その沫は緑銭の水渭に浮かべるがごとし――其沫者若[#三]緑銭浮[#二]於水渭[#一]。緑銭とは水草の葉。渭は※[#「さんずい+眉」、第3水準1-86-89]《び》の字が正しいであろう。
一七 一椀喉吻潤い、二椀孤悶を破る。三椀枯腸をさぐる。惟うに文字五千巻有り。四椀軽汗を発す。平生不平の事ことごとく毛孔に向かって散ず。五椀肌骨清し。六椀仙霊に通ず。七椀吃し得ざるに也ただ覚ゆ両腋習々清風の生ずるを。蓬莱山はいずくにかある玉川子この清風に乗じて帰りなんと欲す。――一椀喉吻潤。二椀破[#二]孤悶[#一]。三椀捜[#二]枯腸[#一]、惟有[#二]文字五千巻[#一]。四椀発[#二]軽汗[#一]。平生不平事尽向[#二]毛孔[#一]散。五椀肌骨清。六椀通[#二]仙霊[#一]。七椀吃不[#レ]得、也唯覚両腋習習清風生。蓬莱山在[#二]何処[#一]、玉川子乗[#二]此清風[#一]欲[#二]帰去[#一]。枯腸は文藻《ぶんそう》の乏しきを言う。習習は春風の和らぎ舒《の》びるかたち。玉川子とは盧同自身をさす。
一八 関尹――関令尹喜《かんれいいんき》。周の哲学者、姓は尹、名は喜、関の守吏であったので、関尹子と称せられた。
一九 Dr.Paul Carus 著、Taotei king.
二〇 トラスト―― trusts 購買組合の便宜を指すものであろう。
二一 公孫竜《こうそんりゅう》の「堅白論」「白馬非馬論」。
二二 予として冬川を渉るがごとく、猶として四隣をおそるるがごとく、儼としてそれ客のごとく、渙として冰のまさに釈けんとするがごとく、敦としてそれ樸のごとく、曠としてそれ谷のごとく、渾としてそれ濁るがごとし。――予兮若[#二]冬渉[#一レ]川。猶兮若[#レ]畏[#二]四隣[#一]。儼兮其若[#レ]客。渙兮若[#二]冰将[#一レ]釈。敦兮其若[#レ]樸。曠兮其若[#レ]谷。渾兮其若[#レ]濁。(老子古之善為士章第十五)「予として」は前を見、後をおもんぱかるの意。「猶として」は疑いて行かざるの意。渙は物の離散するをいう。敦は敦原の意。樸はあら木。渾は混に同じ、濁るかたち。
二三 慈、険、及不[#三]敢為[#二]天下先[#一]。(天下皆謂章第六十七)
二四 那伽閼剌樹那[#「那伽閼剌樹那」は底本では「那伽閼刺樹那」]――釈迦没後七百年頃南インドに生れる。大乗経典を研究、その弘伝者として大乗諸宗の祖師といわれる。
二五 商羯羅阿闍梨――七八九年頃南インドに生れる。インド教の復興者、婆羅門哲学の大成者として知られる。
二六 無明――経験界。
二七 馥柯羅摩訶秩多――維摩経ではこの典拠不明。維摩居士のことか。
二八 利休が「富田左近《とみたさこん》へ露地のしつらい教うるとて」示したものは「樫《かし》の葉のもみじぬからにちりつもる奥山寺の道のさびしさ。」で、つづく歌は、千家流に伝える七事の式おきてがきの一つである。
二九 見渡せば……――藤原定家作。千家流に伝えられる七事式の法策書《おきてがき》の一つである。
三〇 夕月夜……――「茶話指月集」による。
三一 ハルンアルラシッド――『アラビアン・ナイト』(千一夜物語)の主人公。
三二 後撰集に僧正遍昭《そうじょうへんじょう》作として同様のものがある。なお、為頼朝臣集《ためよりあそんしゅう》に「折りつれば心もけがるもとながら今の仏にはな奉る」とあり、光明皇后《こうみょうこうごう》の御詠として「わがために花は手折《たお》らじされどただ三世の諸仏の前にささげん」としたものもある。
三三 「天地不仁。」――原文は「仁とせず」あるいは「不仁ならんや」と読む人もあるがここには「仁ならず」として引用してある。
三四 大師作、『秘蔵宝鑰《ひぞうほうやく》』の序より。
三五 梵――インドの波羅門教における最高原理。
三六 花をのみ……――藤原家隆作。利休はわびの本意とてこの歌を常に吟じておったとのことである。
三七 人生七十力囲希咄。吾が這の宝剣祖仏共に殺す――人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺。「力囲希咄」を「リキイキトツ」と読むのは、元禄《げんろく》十五年出版の、河東散人|鷯巣《りょうそう》が藤村庸軒《ふじむらようけん》の説話を筆録したという「茶話指月集」の読み方によったものである。意味は徳川時代から茶人の間の問題となっていて、諸説紛々。今泉雄作《いまいずみゆうさく》氏の説では、禅の喝《かつ》のような一種の間投詞で、「ええなんじゃいの」といった意味であるとのこと。京都表千家に伝えられている利休の真蹟には「人世」、力※[#「囗<力」、92-14]となっている由である。また「禅林僧室伝」巻三、雲門文偃章下に、雲門偈ニ云ク、咄咄咄力※[#「囗<力」、92-15]希禅子訝ル中眉垂ルとある。英文には、この語句の意味を思わせるところは表われていない。
[#ここで字下げ終わり]

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底本:「茶の本」岩波文庫、岩波書店
   1929(昭和4)年3月10日第1刷発行
   1961(昭和36)年6月5日第38刷改版発行
   2005(平成17)年11月5日第103刷発行
※(一)〜(三七)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:kompass
校正:鈴木厚司
2008年6月6日作成
2008年8月31日修正
青空文庫テキストを縦書きに変換。


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哥座 美学研究所
  2009年4月14日
   
 E-mail : YU HASEGAWA

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                     哥座美学研究所   二千九年一月   

   

  INDEX
   
   
Aesthetics 美学あるいは反美学 メモ
 

グローバルな世界標準美学のようなものは、面積を持たない点のごとく、具体的な身体性が欠如しており、そこは、誰もすむことのできない虚構の抽象世界でしかない。

  どんな世界もローカル文化のひとつにすぎなくなるポストモダンな時代にあって、自分の文化の再自覚こそが、他国文化との相互理解の必要条件になっている。
日本絵巻「ツキマテバ」白村江そして戦後 (たて書き表記)
  わたくしたちの内には視座の異なる二種類の言語が共存している。
  はじめに第一言語としての古言(ふること)に根をもつことば。つまり元々日本で使われてきた固有語のやまとことばによる視座である。もうひとつが外の文化を受容した結果うまれたナリスマシ言語による視座だ。日本絵巻「ツキマテバ」では、白村江の戦いから前回の敗戦後までにわたる歴史軸のなか、この内なる両言語間の鬩(せめぎ)合いを主題としている。
別巻「東斗の月」中国芸術と老荘思想(たて書き表記)
  東斗(とうと)の空へ、李白や古今集の歌人たちがうたった月がかかるころ、おのづから、真の友好文化の好風が生じ、日中両国間に吹き渡ることだろう。
  「論文 」 ・ 「山水画」
   「道学文化断想」 中国社会科学院哲学研究所教授  フー・フウツェン
   「荘子の時代と地域の文化背景」  フー・フウツェン  王永平訳
   「道教と仙学」 フー・フウツェン著  神坂風次郎訳
平安雅言葉の面影を今に残す源氏物語朗読 試聴版
  源氏千年紀のいま、源氏物語を眼で読み、耳で聴く!希少録音版。
  朗読者の四本延子氏は、平安時代の発音の面影をいまに伝へるといわれている仁徳天皇の勅願寺周辺のごく限られた地域の出身者です。
第一回 芭蕉記念箱根俳句賞・西行記念箱根短歌賞(たて書)
  頬白や早川に日のあふれをり  大賞一句  谷 雅子(東京都)
箱根山露台(テラス)の向こう一群れの獣のように白霧(しらぎり)迫る   大賞一首
  .歌人西行を生涯敬愛してやまなかった俳人芭蕉、そして東海道を往来した歌聖・俳聖を記念し、俳句・短歌の同時募集は、これまでにない画期的なものでした。それだけに第一回にもかかわらず、俳句・短歌とも数多くの応募作品が寄せられました。
ナチス文庫と浮世根問(たて書き表記)
  果たして日本の「哲学」とは、「φιλοσοφια」「philosophy」と同じ類のものなのだろうか・・・?
  哲学を真理追求の学問と前提した場合、真理を追求するに足る日本語本来のことばのチカラはあるのだろうか。・・・? しかし、なぜ、ジブンたちの根にあることばを重要視ぜずに、あたらしい欧米の観念語や抽象論理、あるいは、古い印中の仏教語を操作して、ジブンタチの根のところにある深い真実まであきらかにできるという錯覚に陥ってしまうのだろうか。欧米文化の紹介所としての機能が一巡したあと、日本化のプロセスで特異な現象がみられる。観念の空洞現象だ。
電脳 花鳥風月
  見れば花にあらざるはなし。想えば月にあらざるもなし。
  尾瀬ヶ原からその美しい姿を見ることができる燧ヶ岳(ひうちがたけ) は、標高2,356mの山だ。
尾瀬御池の方からの登山道では、中腹の高山植物群やワタスゲなどお花畑を見ながら登山を楽しめる。頂上からは日光連山や会津駒ヶ岳、平ヶ岳など360度見ることができる。眼下に尾瀬沼が光って見えるのが印象的だ。
古言(フルコト)は美の原風景を映すブラウザだ。
  私たちの心性の核は無文字文化にある、いままた電気や飛行機がある新縄文時代である.。
  実は、わたくしたちの基層文化は一万年近くにもわたってイメージの表象や描写をきらい、概念の発生をタブーとしてきた縄文文化にある。このタブーには、描写に宿るワルサの働きを抑えて共同体内部やこころの混乱を回避(アイヌでは現在でもそうである)したり、権力の集中を避けて、内と外との共生を図るろうとする深くきびしい智慧がはたらいている。土器に仕組まれてきた縄眼の文様をうみだしてきた精神原理と、現代のことばとしてわたくしたちの暮らしの母屋を形成している古言(ふること)の精神原理には同じチカラが働いている。
情報バブル時代の自画像 二千二十五年(たて書き表記)
  アーカイブを無際限に収集、分析し、再配分した先取り情報ガ現代を行き交っている。
  これらの情報を鵜呑みにするな。そこに表象された世界はレバレッジを効かして広告価値を最大限に高められた空虚な先物情報から組み立てられている。いまや、あなたという先物情報で、リアルのあなたを操作するのは情報工学の常套手段となっている。また、ITの巨大データの超高速解析で未来が予見されそうに思い込まされていたが、それは、ちょうど、地球シュミレーションプロジェクトがそうであったように、金融資本や、産学協同の権力的な思惑を後ろ盾にしたIT神話の必要性から生まれたプロパガンダによるまやかしである。
源氏物語百万語を通読。横幅世界最長のウェブ(たて書き表記)
  源氏物語 千年の時空のはざまで…。
情報としての「ことば」の時代から、 身体を軸にした「ことば」の時代へ!
  源氏 全五十四帖を一度に開く。世界最長のWEB頁。注意・縦書き文字が百万語あるので開くまで時間がかかります。開いた後任意目次をもう一度クリック。その後からは、リンク内ページとなりどの巻もすぐに開くようになります(XP・ビスタはOK。.マックと一部ブラウザは不可)
日本物語あるいは日本といふ物語(たて書き表記)
  I世界の記号化による統合。果てのグローバル化という流れは、.
  国際金融資本の通貨の例を持ち出すまでもなく、あらゆるジャンルで、何乗倍もの加速度で進行中であり、まさに、世界まるごと巨大容量の一台のサーバーさえ用意できれば、モノでもヒトでも一元管理化できる時代が、いや、もうすでに来てしまっている感ありありで、なんとスリリングなポストモダンな日常なんだろうかと思う今日このごろ。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
百人一首
  秋の田のかりほのいほの苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ 天智天皇
  ももしきや 古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり 順徳院   
歌枕 「箱根」・「筑波山」・「香取の海」
  「筑波嶺に登りてカガヒせし日に作れる歌一首 并せて短歌」 .
  鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ  かがふかがひに 人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言(こと)もとがむな  (万葉集 九巻)
   反歌
男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れとほるとも 吾帰らめや.
「枕草子」  清少納言 (たて書き表記)
  一 春は、あけぼの。. 
  春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
秋は、夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音(ね)など、はた言ふべきにあらず。
冬は、つとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりて、わろし。
「奥の細道」  (たて書き表記)
  旅立.
  弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。 むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。
 行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。
   
M   
   
   
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