哥座(うたくら) Buto舞踏・芸術科学論
                 
                  
           


  ふだんからなじみ深い裏手の山や前浜の海など、身近の自然やジブンの身体は、すでに了解済みの「空間」のなかに、疑うこともなく自明に存在している。この「こと」「もの」が生成流転している無意識空間は、万葉集はじめ、多くの歌仙の哥、俳諧、詩などの「韻文」により、ながい時の熟成を経て、身体空間や歴史、自然空間へと昇華され、「わたくしたち」自身の空間システムの原型となり、具体的な血肉となってきたものだ。あるいは、わたくしたち自身の今の意識や身体をさえ紡ぎだしてくれていると言い換えることも出来よう。未来をも決定づけていくはづのこの無意識空間。ここでは、その無意識空間を生み出す源として、決して表にでてくることもなく、秘匿胎蔵され続けている先験的時空座標を措定し、そを哥座(うたくら)と命名した。

 いみじくも 「言揚げせぬ」そこで「物を輝かせる」と人麻呂がいったように
わたくしたちは、縄文の一万年以上前より吾や他者や存在事物、そしてあらゆる物言にたいして、それをそこで再現し、うつしだし「仮象する座標を設定しない」できた。あらゆることばやものごとを「擬似スクリーンに描写しない。」代わりに、「イメージ化せず」、「言挙げせぬ」そう言い切る否定の意思の靭さと自由を「物のサマ」「言のフリ」として徴シてきた。 - 対象化して普遍化したイメージ表現にせずとも - そのイキホヒある徴シによって、ものごとを直に輝かしめてきた。太古よりそうして生きてきた。他方、大陸言語精神のおしえるところのように、いったんものごとを座標上に再現して観察的対象としてしまうと、言のカガヤキは失せて物のいのちは死んでしまう。そこが大陸精神とわたくしたちとが決定的に異なるところだと人麻呂が自覚していた矜持の内容であり、縄文いらい現代までいちどもブレることのなかったこの列島にそなわる言語精神の基本軸である。そこで何の隠れたる意(ココロ)も理(コトワリ)もなく、露となる言の「フリ」、「物」のサマというもの・・・。

 それは現代にもアカラサマにみてとれるフリである。「お母さん」というタイトルで見せた舞踏家・大野一雄の晩年の公演がそうであった。舞台袖からあらわれ、掌にした一条の短縄でくり返し、音立てて中宙を切り裂くスーツ姿のままの舞台の大野。かれは、自らの表現も、他者も、宇宙のすべてを直に叩き尽くしてあるきまわる。その激しさ。母をおもひ振り下ろす縄の「イキホヒ」。それらは対象化して普遍化し得ない心のはたらきが直に顕われ「フリ」そのものと化した大野であり、わたくしたちの姿である。クラシックバレーやモダンダンスと舞踏は根本的に違うなにものかである。舞踏は、身体を時空間のなかに構成し、そこにおける美をもとめない。ニジンスキーの永遠性へと飛翔せんとする身体やべジャールの構成する時空間という枠組みは、そこで音をたてて、叩き壊されている。代わって、大野の「フリ」は指のさき一本一本が、みづからの肉体の実体化をウナガシゆく。イメージを排し、物化を果たしゆく・・・。そのとき、身体が地軸と成りゆく周縁には、無辺で無窮のただ反復し連鎖していく「物」の原野がひろがっていた。直後に同じ舞台上で開催されたいまは亡き吉本隆明を主賓とするシンポジウムでの、そこで交わされたことばは、さきほどの微光をいまだ残した物のしじまにあっては影のうすいものとならざるを得なかったほどだ。

*舞踏論は哥座縦書き本文や言語函数論(オフラインで提供)にもあります。

  方法論的には、歴史途上で、輸入されてきた印・中・欧の抽象的美学概念に代へ、まづ、冒険的創作による視座の体験的自覚が最優先課題となる。いまなほ現代西欧思想の翻訳された概念・論理でもって自らを分析して事足れりとする思潮が主流だが、それに換へ、てにをはなど原始の尻尾を色濃く残している普段のことばや、あるがままの身体性を手がかりに、無文字時代から連続性の途切れずにある固有の法、列島のロゴスを体得。その法を敷衍,発展化させていく。その際には、「俤」、「ひびき」、「にほひ」といった、先人から受け継いできた固有の概念、そしてまた「付合」「切れ字」などさまざまな古典法の自得も重要となる。印・中・欧美学のより一層の深い理解のためにも今後ますますこの自己文脈の体験的自覚による視座の獲得といふ基礎プロセス構築作業の必要性が要請されてくるだろう。
 いつの日か秘蹟にまみへ、 「モノ」「コト」「コトバ」が、そこで円融具足する古くてあたらしい「座(Kura)」から次代を担う「ナニモノカ」が発掘されんことを。いやいつでもだれにでも主客未分化の物の連鎖叛乱する世界へ自然体ですぐに踏み込んでいけるのが列島言語である。てにをはの裏戸をあければそれだけでよいのだ。そこにはすでに縄文から延々つづいてきた無窮の美の原野が拡がっている。
 

                               哥座(うたくら)美学研究所      二千十二年十月  草津にて

                                「和歌・連歌・連俳からみえる縄文から現代美術そして自然科学」
                                講演・講義・個人指導のご依頼を承っております。 

                                お問合せ先:
哥座 美学研究所  主催 長谷川 有  E-mail aibot@msn.com