きれいショップカグヤヒメ

      歌垣 - 日本の原風景       

   

     歌垣発祥の地を訪ねる「筑波山・香取の海」

     国家成立以前の原風景が広がる聖地。各民族興亡史のキースポット「香取の海(霞ヶ浦)」 
古代アジアのU.S.Asia  
田畑になっているものの、こここそ数千年ものあいだの各民族の交流を可能にした香取の海の要塞であった。その後、ここの祭神は香取の海の狭まった対岸に位置する鹿島神宮の祭神とともに、春日大社の祭神となっている。これらは一万年の民族興亡史の最後に登場し、後、日本国のプラットフォームを築くことになる藤原氏関係氏族がまつったものであろう。1,000を下らない古墳があるという背後の丘陵ではいまも縄文の土器破片が無数にちらばっている畑で、お婆さんが昔かわらず葱を植えている。ダイダラボッチ伝説にある長身の チベット系の顔立ち、歌垣を伝えたミャンマー・タイ・雲南省の面影をのこした人々。あるいは遠くローマからの影響色濃い新羅系の古墳出土品にみられる高句麗、新羅系のひとびと。その子孫たちがいまも各伝承をのこしながら住みつづけている。さらに、この一帯は、良質の鉄の生産ができる特殊な地域であったために、江戸には移動が禁じられていた。そのおかげでいまもって苗字や地名、それぞれの古代民族の顔立ちの博物館となっている。    
左の地図は、七世紀の霞ヶ浦を復元したマップである。利根川は東京湾に注ぎ、香取の海は、広大な湖面を有する一大交易拠点であったことがわかる。        
      現在の霞ヶ浦と比較してみる → 
霞ヶ浦の現代地勢MAP

 

香取の海
香取の海は現在の霞ヶ浦。三〜七世紀、新羅、百済、高句麗、隋と交流。沿岸には律令国家成立前から多数の国際都市が存在した。
歌垣の聖地「筑波嶺」の秀峰は、いまでも各地から仰ぐことができる。


当時、香取の海といった。縄文時代からの天然の静かな入り江で、 古墳時代からは新羅、高句麗、百済、隋との交流が深く、沿岸には多くの国際感覚あふれる村や町が、発展していった。そうした事態は、沿岸の無数に近い古墳群や、そこから出土した国際感覚あふれる品々をみてみるだけで、一目瞭然で了解できる 。

江戸時代、利根川を銚子へ流すようになって、ますます水運は開けたが、最近、農業、工業用水取得のため水門(堰)で海と香取の海を完全遮断した結果、霞ヶ浦は、真水となり、それまで大量にとれていた蜆も絶滅するなど自然環境は激変した。

当時の香取の海の入船、出船を見張るように、細い海路両側に設けられていたのが、「鹿島神宮」と「香取神宮」である。
ちなみに、鹿島神宮祭神は
甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。 香取神宮は、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)である。両神とも 共に出雲まで出向いて大国主神を説得、日本の国を平定へと導いた軍神である。この神が、奈良の春日大社の祭神として迎え入れられ、小高い丘の上から都を見おろして、ある時は、睨みを利かして、できたてばかりの律令国家体制にもとづいた政治、文化を牽制。今日まで見守ってきたのである。ある意味このこそが当初から日本建国の立役者なのだ。

■古墳時代から七世紀にかけての香取の海 関連論文募集中

□鹿島郡の苅野橋 神栖町の神之池(ごうのいけ)から流れ出た 川が海路 (現利根川)に注ぐあたりに架かっていた橋か。
□大伴卿 大伴旅人。□三宅の潟 銚子市三宅町あたりの干潟。
□鹿島の崎 茨城県鹿島郡波崎町か。□海上  下総国海上郡。



   歌垣の地・筑波山周辺の地誌



現在の霞ヶ浦MAP

香取神宮

鹿島神宮


   霞ヶ浦研究 その一   
 「古代東国―――霞ケ浦巨大生産地」(制作中・仮原稿)   
東国の経営と戦略・・・勾玉・鉄・薬草の生産
     古代詳細マップ   古代霞ヶ浦研究家 K.高島


霞ケ浦は、気候が温暖で水が豊富でかつては豊富な水産資源に恵まれ、台地は赤土に覆われ、気候に恵まれ農作物を栽培するには恵まれた土壌であった。また、砂跌といった鉱物資源にも恵まれていた。常陸の国は「常世の国」と歌われたその全貌を現代によみがえりさせたいと願っている。 この地に住んでいた縄文人、大陸の戦乱を逃れて、中国・朝鮮半島から渡ってきた人々が、かつて存在していたこと、そして彼らの歩んできた歴史を明らかにする必要がある。何故に祖国を捨て、離れるざるをえなかったのか。当時、危険な海を渡ってこなければならない事情、新しい土地の開拓、苦難、それらを乗り超え、命をはぐくみ懸命に生きた人々の功績を明らかにしたいと考える。そして、戦乱を逃げた敗者たちが融合し、新しいルールを敷き、新たな国家造りをどうしていったのか、それを明らかにすることは地球上で富の偏り、そして戦争をおこしている我々現代に多くのヒントを与えてくれるだろう。戦乱から命からがら逃れた人々は、その後幸福を約束された。明治になるまで他国と侵略されたり戦争をするはなかったからだ。命を奪われ、親を奪われ、自由を奪われることがいかに不幸であるか知っている人々の国造りが世界に先駆けてはじめられた。アメリカより1100年以上古い時代に。平和な国に住む人々が与えられた宝、それは親から親へ、旧世代から新世代へと知恵を蓄え、技術を伝えることであった。ひとたび、他国と戦争になれば、この命のバトンとバトンに隠された知恵と技術はリレーされなかったであろう。日本人はあまりに欠点ばかりに目を奪われ、自分自身の等身大が見えず、グローバル化の中、日本人は自信を失っていると思う。しかし、農業技術・工業技術は世界最高を誇る。それは先祖の命のバトンの恩恵の賜物である。歴史を紐解くと、この日本列島には個人の財産よりも全体の財産、金よりも命を大切にしてきた人々が多くいたことに気づく。多くの国の融合体である自分達の歴史を振り返ることにより、個人が自信をもち、世界の人々に心を放ち、手を貸せる存在になることをせつに願っている。 

協力をしていただく予定の方々

茨城県庁   いばらき文化振興ビジョン
千葉県庁   千葉の観光  千葉は韓国語でもホームページが読めます。
        ようこそふさの国へ  国際観光モデルコース 
住友金属  霞ケ浦は古代製鉄の生産をしていた。現在、住友金属がおこなっているが古代同様霞ケ浦の水を使っている。しかし、古代は霞ケ浦は塩分があったため、河川の水を」利用してきた。現在は霞ケ浦を巨大な水甕にするため、利根川の逆水門で海水が入らないようにした。そのため河川のしじみや魚は姿を消した。現代人は古代の人々を超えたといえるのであろうか。
三菱グループ  
各市町村   企画課及び国際交流会・生涯学習課(学芸員がいる)

Aコース 筑波山(霞ケ浦が一望できる)―――みかん狩り(フラワーセンター)ーーー常陸の風土記が丘―――常陸総社―――行方市三昧塚古墳

Bコース  佐原市内(多氏の開発地域)―――香取神宮―――くろべ館――― 鹿島市の海――――鹿島神宮

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  ご質問 お問い合わせ先 : 57577@utakura.com      
   提供  株式会社 プラスジャパン
  「香取の海」復元 実行委員会     
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   霞ヶ浦研究 その二      
 「コノハナサクヤヒメ」(制作中・仮原稿)            
 鹿鳴草物語 よりの引用
古代霞ヶ浦研究家 K.高島


父のオオヤマツミについて カグチの分身ということで、製鉄とつながる面もみえる。反面、「大山積の神、一名は和多志の大神なり。」「此神、百済の国より渡りきまして津の国の御嶋に坐しき。」  (『伊予国風土記』逸文)ともいわれている。木花夜毘売は、溶鉱炉の産鉄を人格神としたもの。木花夜毘売に子の天津日高日子穂手見命。『古事記』に天津彦火火出命とある穂穂手見は、鍛冶の技術ももっていた。

4 筑波山麓の製鉄郡の東ニ、三里に高松の浜あり。――――慶長元(*704)年、国の司(頭注=常陸国守)
綏女朝臣、鍛(頭注=金内の意。鍛冶に従事する人。)、佐備(頭注=サビは小刀また鋤の意。)の大麻呂等を率て、若松の浜の鉄を採りて、釼を造りき。此より南、軽野の里の若松の浜に至る間、三十余里ばかり、は皆松山なり。伏苓・伏神を年毎に掘る。其の若松の浦は、即ち、常陸と下総と二つの国の堺なる安是の湖のあるところなり。沙鉄はは釼を造るに、大だ利し。然れども、香島の神山たれば、輙く入て、松を伐り鉄を穿ることを得ず。郡の南二十里あり。その東の松山の中に、一つの大きな沼あり。寒田と謂う。『風土記』鹿島郡  

鹿島の鉄昔の砂鉄の製錬は「沙鉄」を豊富に含んだ大量の砂と、その近くに水と燃料としての「松」が必要であった。神栖市の神ン池は、古くは、軽の(野)池ともいわれた。『書紀』に、「其の帯剣かせる大葉刈、亦の名は神戸剣」とある。同書の頭注によれば、「ハは刃、カリは刀であろう。朝鮮語で刀をkalという。大きな刃の刀」ということだ。美野里町に大字羽刈がある。kルノがやがてカンノに変り、カンノ池に「神の池」という字をあてた。それをコウノ池と呼んだ。軽の池から神ノ池へは、こういう変化をたどったと思われる。寒田(池)」サムの前はサブであったと思われる。そのサブは「鍛 佐備の大麻呂」のサビと同根で、鉄のことだ。軽野池、寒田(池)、いずれにしても、刀の神の鹿島にふさわしい池の名だ。

5新治村小野「現在滋賀県滋賀郡志賀町に含まれている」「小野郷にある名神大社の小野神社」「の近くにタタラ谷や金糞といった小字名がある。」「また、湖北のマキノ町でも、古代の鉄穴あとが発見} され、おびただしい鉄滓が散乱しているが、そこにも、小野神社(現在は海津の天神神社境内)がある。」「信州の上伊那郡の北小野にある小野神社に鉄滓が」残されている。」「日光ニ荒山の頂きから百三十一個の鉄滓が出土した。この二荒山の女体山と呼び、その社人は猿丸大夫の子孫の小野源大夫という。」(『足跡』これらのことから、小野という地名、そこに住んでいた小野氏、その祖先を祭った小野神社などと、製鉄や鉄滓とのつながりが浮かびあがってくる。  

新治村上坂田飛鳥から奈良時代の過渡的時期のものと推定されている、武者塚古墳がある。ここは、「みずら」や、冠のベルトと思われる銀製帯状金具、鉄柄付着青銅製杓、銀製圭頭太刀、青銅三塁環柄頭太刀等、豪華で貴重な品々が出土した。42本の鉄鏃と3本の鉄製直刀も出土している。同地の東南約300メートルの下坂田には、5世紀後葉と推定されている武具八幡古墳がある。ここからは、鉄製の衝角付冑、眉庇付冑、短甲、挂甲等の鎧の部品、鉄鏃63本などの武具が出土した。  浮島4世紀後半といわれ、県内最古の古墳に属するとされている前方後方の原1号墳がある。ここから出土した鉄槍、鉄剣、?、鉄斧、鎌、針類、あるいは、和田古墳から発見された鉄鏃が、この地の砂鉄によったものかどうかは定かではない。

出島村出島村に大字上軽部、下軽部がある。宍倉、安食地区に、6世紀と推定される風返古墳郡があり、金銅製耳飾、馬具のほか、直刀、鉄鏃等が出土している。ここは、『史市』上に、「井関台地の最東端部、霞ヶ浦に突出した台地鞍部にあり鉄滓が散乱している。」と記されている金子沢製鉄遺跡と隣接している。その1キロ西の同じ井関地内には、月の台製鉄後がある。ここは、「古酒よりのびた半島状台地付け根部分で、旧井関小学校敷地内にあり鉄滓が多数出土した」(同右)ところである。また、南東2.5キロの安食地内には、鉄刀・刀子等が出土したといわれていて、装飾文様のある、推定7世紀前半の大師カロード古墳があり、それに隣接して小津製鉄跡がある。これらの三製鉄跡は、いずれも、霞ヶ浦と菱木川とに挟まれた舌状台地地上にあり、それぞれに隣接する古墳から出土したと刀剣類との関連が考えられそうである。この金子沢製鉄跡と小津製鉄跡の間、つまり、風返古墳郡と大師カロード古墳の」間の菱木川沿いに、上軽部と下軽部がある。

千代田村大字中志筑小字鹿鳴草(千代田村)千代田村には製鉄跡が多く、新治村東条寺に源を発する天の川の下流、及び、加波山から流れ下る恋瀬川の下流両岸は、さながら製鉄団地の観を呈している。『千代田村の文化財』(村教委)は、それについて次のように解説している。「栗田の石倉、下志筑の兼子、鹿鳴草、上佐谷のカジ下りなどにある製鉄跡は、遠く奈良時代に朝鮮より帰化した工人の手によって、信築川(現恋瀬川)流域に新しい産業が発達したことを物語る貴重な遺構である。志筑地区は、常陸国府(現石岡市)と隣接した地であり、付近に古墳や住居跡が数多く点在し、当時かなり栄えたことがうかがわれる。該地は何れも製鉄上の条件を具備し、特に砂鉄量の豊富なところである。  

クダラ「上佐谷の関戸とニタ又、中志筑と下志筑堺の高仏などから古代瓦が多数出土している。これらは何れも瓦窯地として条件を備えている上に、当時工人の屋敷でもあったのか『クダラ』という地名を中心にして約千米の範囲内にある。尚、志筑川(恋瀬川)を堺に常陸国府のあった府中(石岡)と隣接していることと、製鉄跡や金掘穴が近くにあることを付記しておく。」また、『史談会誌第8号』(千代田村史談会)には、上佐谷の「『高の坊』の続きの畑にカジ下りという名の畑があり、その又南の田をへだてて小金内という名称のはたけもあり、共に『たたら製鉄』をした遺跡とされ、『カジ下がり』には『金くそ』が見られ、耕地としては不向きの場所です。」とある。そのほか、製鉄、鍛冶、鋳造に関係のありそうな小字名を拾うと、梶田(大字雪入)、梶下がり・梶場谷ツ(上佐谷)、梶場(下佐谷)、赤池・芋頭(中佐久)、梶久保・菖蒲砂・菖蒲洲・タタライ・カナクボ・カチ久保(上稲吉)、芋内(下稲吉)、金丸・鍛冶谷、梶内(西野寺)梶田・小金塚(上志筑)、金田・樋口(栗田)、梶発句・梶山・湯ヶ作(高倉)等がある。この地域の製鉄守護神だったと思われるものに、西野寺の胎安神社と東野寺の子安神社がある。前者は、経津主命と木花咲耶姫を祭神とし、天平宝字6(762)年の創建といわれている。後者は、武甕槌命と木花咲耶姫を祭神として大同ニ(802)年の創建とされている。両者とも、現在は安産育児の神として信仰をあつめているが、木花咲耶姫命は製鉄炉の神であり、}ホドが安産につながっていったものと思われる。ともに、刀の神と製鉄の神を合祀していることから、当初の目的を推察できそうである。  

かなくそ山千代田村の製鉄跡で、最近脚光をあびたのは、栗田のかなくそ山遺跡だ。63年2月27日の『いはらき』は、「千代田の『栗田かなくそ山遺跡』古代の製鉄工場確認 斜面利用して鉄滓を処理 箱型炉や炭窯跡発掘」と、大見出しのもと、次の記事を掲げている。宮平やかなくそ山に方形製鉄炉を築いた、高度の産鉄技術を持つ一団は、これらのうちの「東国に居」かれた「百済の男女二千人」、あるいは、「常陸国に居らし」められた「高麗五十六人」に含まれていたか、それと同類の移住者あるいはその子孫ではなかったかと想像する。              

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提供  株式会社 プラスジャパン「香取の海」復元 実行委員会     
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    「香取の海  七世紀関東の国際交流」
(以下は鹿島の郷土史家 K. 高島氏により歌座へ寄稿された原稿です)
 

        

自然、そして異なった民族との共存共栄万葉歌人が歌った香取の海。現在の霞ヶ浦。そこは古来より新羅、百済、高句麗、あるいは、隋、唐からの入船、出船で賑わった交通の要であった。現代日本のシュリーマンとの異名をとる K. 高島氏は、この香取の海を研究し三十数年。地元の郷土史家だからこそできた定説を覆すかずかずの発見をしてきた。日本文化を霞ヶ浦から捉えなおし、発信するこの試みは、 環境保全の観点からも、これまでにない画期的なものとなるだろうし、また、古代国家成立以前の国際協力の舞台であった霞ヶ浦に証明をあてることで、日本と、その隣国との文化交流の役目も果たすことになろう、 以下は、その、画期的な成果の一端を紹介したレポートである。

       「霞ヶ浦における渡来人の足跡」

1、歴史を見直す意義について日本の歴史の真実を明らかにすることにより、日本国内および他の国の歴史観を正す。真実なる歴史を知ることにより、民族間の偏見をなくし、互いの幸福を願い協力し合う新たな国際的な強力体制の基盤にしたい。

2、鹿嶋地方の渡来人
鹿嶋市周辺における渡来人は下の書籍より、記述した。     参照 『常陸国風土記と古代地名』   鈴木建著  新読書社行方

『行方郡』には、継体天皇の時代(500年前半)「郡より西の葦原を截ひ、墾闢きて新に田に治りき」と見える。『行方郡』には、天然湧水の記事がある。「槻野の清泉に頓幸し、水に臨みてみ手を洗ひ、玉もちて井を栄へたまひき。今も行方の里の中にありて、玉の清水と謂う。」大生「大生」には、タケミカツキ(タケカシマ)を祭神とする大生神社を中心とした百数十基の古墳が確認されている。大生神社は、大和の多神社の祭神である神八井耳命とその後裔のタケカシマを、まつったと祀ったと大場磐雄は推定している。此れは、先祖の神であるタケカシマを奉載して、多一族が西方から常陸に移住した事実を物語るものにほかならない。茨城の国を征服したのは、建借間命と同族の「大臣(おほのおみ)の族黒坂命(やからくろさかのみこと)」であり、「茨城の国造が初祖」は「多祁許呂命(たけころのみこと)」であった。
軍事的支配者とその後をひき継ぐ政治的支配者とは、強く連携しているはずであるから、神八井耳命を遠祖とするオオの族黒坂命と、天津彦命を遠祖とする多祁許呂命とは緊密な関係があったにちがいない。高麗と高来物部の奉斎神「普都大神」が来たという「高来の里」が信太郡にあった。かつて「物部郷」であった福岡県浮羽郡吉井町生葉には、筑後の壁画古墳としてはもっとも古い日ノ岡古墳を初めとして、船をモチーフとした壁画を持つ古墳がひしめいている。九州の壁画古墳は、ここを中心とした筑後と隣の肥後とに集中していて、そのルーツは高句麗に求められる。筑後といえば、「物部部族最初の」といえるかどうかは別として、すくなくとも、初期の「根拠地」であり、肥後はオオの一族「火の君」の支配地だ。その壁画古墳が常陸にうつっていった。それは、壁画古墳の習俗を持った集団が東進したことを示してはいないだろうか。そしてそれは、オオや物部であったろうとの推測が成り立つはずだ。神奈川県中郡大磯町は、660年に高麗王若光の一族が高句麗から移住してきた地である。

そこに高麗神社があったが、1897年に高来神社と改名されたものの、大字名には高麗がのこっており、裏山は今も高麗山である。そのことから、普都大神をいただく信太郡の「高来の里」も同じく高句麗にルーツを持つ人たちの来住による命名と考えたい。ということは、物部と高句麗とはただならぬ関係にあったということになる。「高久郷」の久も、高来の来の当て字、類似の高木の木も、来の別訓キの当て字と考えることができよう。肥前国佐賀郡高木邑がある。那珂郡はかつてオオの支配地であった。常陸のそれは、玉につぐ美しい石が多いから多珂と名づけられたという説があるが、珂には玉や白瑪瑙の意味があることからのこじつけである。しかい、『風土記』が高に多珂を持つ好字打からであろう。

オオとタカオオと物部とは同じ仲間で、物部の出身は高句麗らしい。そして常陸では、オオや高句麗からの足跡を示す地名が数多く残されていた。では、そのオオの出自はどこで、なぜオオと呼ばれたか。「高句麗ko−kor(大国・大部落)があった。」「高句麗という国名自体が実は」「大国」という高句麗語であった。

高句麗南下では、朝鮮半島の最奥を母国とする彼らは、いつ、どこから、どういう動機で渡海してきたのであろうか。扶余の一部は紀元前1世紀の高句麗を建国した。彼らは鴨緑江中流右岸の現・中国側の集安(シーアン)に都城を構築し、そこを中心に一万二千余基もの膨大な「石を積みて封と為」す積石古墳を残してきた。平壌のある徳興里古墳の石室に「馬射戯」図で、現在も鎌倉八幡宮でおこなわれている流鏑馬の源流をそこに見ることができる。玉造町三昧塚古墳の被葬者はすでにその地に君臨していた百済系の豪族であった確立が高い。ひたちなか市の虎塚古墳の文様とチブサン古墳や大塚古墳にもみることができる。朝廷の全国統一の先兵として、高句麗にルーツを持ち九州北西部に本拠を構える勇猛歩騎軍団が東国へ派遣された。東国平定後、兵士のある者はさらに北進軍に加わり、ある人は陸奥進攻の兵站基地となったそこに定住した。この定住組は集落を造り、さらに後続する同郷からの移住者を迎え入れながら、食料の生産や武器類の調達、軍馬の飼育など、北進軍の後方支援を担当した。

常陸での、6世紀中ごろからと思われる騎兵の出現。6世紀後半からの馬具を伴う石室墳の普及。7世紀前半からの古墳壁画の発生。これらの事実と、高句麗色の強い地名の濃厚な分布とは、右のように考えることによってのみ結びつく。そしてそれは、高句麗→九州→東国という太い人の流れがなければ成り立たない事象なのであった。700年に百済王遠宝(百済系)が、704年に綏女朝臣が、、708年には安倍狛朝臣(高句麗系)が常陸国守ににんめいされている。 「香取地方について」香取神宮周辺は多氏と思われる土器が発掘されている。香取神宮と多氏は関係していると推測する。佐原区には安倍清明塚があった。古墳時代この地域は海上国で石枕が古墳から出土している。石枕と玉造と関連がありそうに思う。小見川区では長持ち型の石棺が出土した古墳がある。この小見川区は多くの古墳から副葬品が出土しているので、どこの国に関連するか再考をする必要がある。銚子は琥珀が出土し、鹿島地方はメノウが砂の中に堆積している。瑪瑙・琥珀は古代交易ルートにおいても、貴重な交易品だった。これらを加工して交易に利用したのではないか。
   『法律家のみた日本古代千五百年史』     古代天皇制誕生までの過程   山中順雅著  図書刊行会

日本古代の歴史の真実を発見し、伝えることによって、社会正義の実現・国民の人権擁護という弁護士の職責を遂行しようとするものである。私は6世紀初めに最大の領土を有していた継体王を現在の天皇氏族の始祖を考え、併せて、独自の渡来史観の立場から論述したい。
紀元前1世紀〜3世紀加羅地方は土地肥沃で五穀がよくできることは魏王朝にも知られていた。稲作には農耕儀礼があって、人々は五月稲の植え付けが終わった時、10月稲の借り入れがすんだ時、天神を祭って歌舞飲酒したと言われている。後者は中国周王朝末からははじまった新嘗の祭の伝来であろう。金官加羅の一部王族が4世紀前半ごろ福井平野に来て<越の国>を建国したと以上推測できる。紀元前100年ころには日本列島に渡来人の建てた国が100余国あって、紀元266年までの360年間にわたって日本列島の王国のうち、30ばかりの王国が中国の冊封体制下にあり、臣下として朝貢している。4世紀〜5世紀高句麗が楽浪郡・帯方郡・わいぱくを攻略し、また、高句麗と百済の戦争が何回かあった。この戦乱のため、中国大陸や朝鮮半島から多くの人が日本列島へ亡命・渡来してきた。6世紀〜7世紀562年 新羅が大伽耶など加羅諸国を併合した。その遺民が大量に日本列島に亡命してきた。607年 このころ百済・新羅から日本列島の倭国へ亡命。彼ら亡命人の中の文化人・技術者らグループが古墳文化に代わる新たな文化(飛鳥文化)を生み出していった。7世紀〜8世紀 朝鮮半島からの大量渡来。

日本列島内の倭国をはじめ当時の国々は、中国大陸や朝鮮半島の人達からみれば彼らの祖先が築いた国々であった。第一波の渡来人が国々を建てて渡来人国家の基礎を作って以来、互いに戦闘・連合・併合・新興のより国の興亡があった。しかし渡来人が建国した国家であることには変わりなく、これら国家の為政者も、いわば本国を持っていたことも容易に推測できることである。このような経過で日本列島へ渡来してきた、言葉も風習も生活も違う黄色人種の人達が、8世紀の初めごろまでに混血してある1つの新しい民族を形成したものと思うのである。

北部九州は高句麗の王族が来て<クニ>をつくったと考えられる。<熊神>信仰の民族である馬韓族が日本列島に渡来して、定着。越族は剣が好きな民族で、剣政策の技術はゆうめいである。造船技術と航海技術が高度。北陸地方に渡来した可能性がある。宮崎県東臼杵郡南郷村の神門神社の祭神は百済の王族である。朝鮮半島系の神社(鹿嶋、香取地方関連)諏訪大社 (新羅系)熊野那智神社(朝鮮系)八坂神社(高句麗系)松尾神社(新羅・加羅系)大王(後の天皇)は出自の金加羅の<氏>を用いていた。ところで、金官加羅の建国神話は<首露王の降臨神話>である。

『記・紀』編集の時、天皇の<氏>を抹殺したのではないか。中国や朝鮮半島で、幾多の国家興亡のあることを知り、それは人が人を支配することから起こることであり、神が人を支配すれば永遠の国家が生まれると考えたのではないか、と私は創造してみるのである。
                          「香取の海」復元 実行委員会

「コラム T」
常陸の国造の先祖は、建借間命(たけかしまのみこと)なのか?
水戸市内にその墓といわれている前方後円墳がある。 建借間命(たけかしまのみこと)は、土地の蛮族らしい。当時、 クズとか、土蜘蛛とか、いわれた人々を討伐し、今の行方郡(鹿島神宮のすぐ隣)に凱旋してきた。常陸風土記にでている話だ。要するに、常陸の国造の、元祖である建借間命が、常陸一円を統一し、鹿島神宮近くへ凱旋してきた。「かしま」という同じ名前を持っている建借間命が、 鹿島神宮まで支配を及ぼしていたのだ。         
          

 ■参照 ブック 古代香取の海・鹿島・筑波山の地史



     和歌に詠まれた歌垣の聖地

 
男神に 雲立ちのぼり 時雨ふり 濡れとほるとも 吾帰らめや

 「筑波山に登る歌一首 并せて短歌」   高橋連虫麻呂

草枕 旅の憂(う)けくを 慰(なぐさ)もる こともありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付(しづく)の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひはり)の 
鳥羽の淡海(あふみ)も
秋風に 白波(しらなみ)立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し 憂けくはやみぬ
             
(万葉集 九巻)

   反歌

筑波嶺の裾廻(み)の田居に秋田刈る妹がり遣らむ
          黄葉(もみち)手折らな



  「筑波嶺に登りてカガヒせし日に作れる歌一首 并せて短歌」

鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に
率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ 
かがふかがひに 人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に 
人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 
禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 
言(こと)もとがむな           (万葉集 九巻)

   反歌

男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れとほるとも
                 吾帰らめや




「鹿島郡の苅野橋(かるののはし)にて、
     大伴卿に別るる歌一首 并せて短歌」  高橋連虫麻呂

ことひ牛の 三宅の潟に さし向ふ 鹿島の崎に さ丹塗りの 
小船を設(ま)け 玉纏(たままき)の 小梶繁貫き 夕潮の 
満ちの湛(とど)みに 御船子(みふなこ)を あどもひ立てて 
呼び立てて 御船出でなば 浜も狭(せ)に 
後(おく)れ並(な)み居て 
こいまろび 恋ひかも居らむ 足ずりし 音のみや泣かむ 
海上(うなかみ)の その津を指して 君が榜ぎゆかば
          
(万葉集九巻)

   反歌

海つ道(ぢ)の凪ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや


                  

 


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参考