山部赤人
万葉集収載歌より長歌十三首、短歌三十七首。計五十首。
春
山部宿禰赤人の歌四首
春の野にすみれ摘みにと来(こ)し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(8-1424)
あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(8-1425)
明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ(8-1427)
百済野(くだらの)の萩の古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りしうぐひす鳴きにけむかも(8-1431)
山部宿禰明人、春鶯を詠む歌
あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鶯の声(17-3915)
夏
山部宿禰赤人の歌一首
恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり(8-1471)
羇旅
山部宿禰赤人の歌六首
縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島榜ぎ廻(み)る舟は釣しすらしも(3-357)
武庫(むこ)の浦を榜ぎ廻(み)る小舟(をぶね)粟島(あはしま)をそがひに見つつともしき小舟(3-358)
阿倍(あへ)の島鵜(う)の住む磯に寄する波間(ま)なくこのころ大和し思ほゆ(3-359)
潮(しほ)干(ひ)なば玉藻苅りつめ家の妹(いも)が浜苞(はまづと)乞はば何を示さむ(3-360)
秋風の寒き朝明(あさけ)を佐農(さぬ)の岡越ゆらむ君に衣(きぬ)貸さましを(3-361)
みさご居る磯廻(いそみ)に生(お)ふる名告藻(なのりそ)の名はのらしてよ親は知るとも(3-362)
或本の歌に曰く
みさご居る荒磯(ありそ)に生ふる名告藻のよし名はのらせ親は知るとも(3-363)
辛荷(からに)の島を過ぐる時に、山部宿禰赤人の作る歌
并せて短歌
あぢさはふ 妹が目離(か)れて しきたへの 枕も巻かず 桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(まかぢ)貫(ぬ)き 我が榜ぎ来れば 淡路の 野島(のしま)も過ぎ 印南都麻(いなみつま) 辛荷の島の 島の際(ま)ゆ 我家(わぎへ)を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重(ちへ)になり来ぬ 榜ぎたむる 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 隈(くま)も置かず 思ひぞ我が来る 旅の日(け)長み(6-942)
反歌三首
玉藻刈る辛荷(からに)の島に島廻(しまみ)する鵜(う)にしもあれや家思はずあらむ(6-943)
島隠(がく)り我が榜ぎ来れば羨(とも)しかも大和へ上(のぼ)る真熊野の船(6-944)
風吹けば波か立たむと伺候(さもらひ)に都太(つだ)の細江に浦隠(がく)り居(を)り(6-945)
敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に、山部宿禰赤人の作る歌一首
并せて短歌
御食(みけ)向(むか)ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松(ふかみる)摘み 浦廻(うらみ)には 名告藻(なのりそ)刈る 深海松(ふかみる)の 見まく欲しけど 名告藻の おのが名惜しみ 間使(まつかひ)も 遣らずて我は 生けりともなし(6-946)
反歌
須磨の海人の塩焼き衣(きぬ)のなれなばか一日(ひとひ)も君を忘れて思はむ(6-947)
恋
山部宿禰赤人、春日野に登りて作る歌一首 并せて短歌
春日(はるひ)を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠(みかさ)の山に 朝さらず 雲居たなびき 容鳥(かほとり)の 間(ま)なくしば鳴く 雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 立ちて居て 思ひぞ我(あ)がする 逢はぬ子故に(3-372)
反歌
高座の三笠の山に鳴く鳥のやめば継がるる恋もするかも(3-373)
山部宿禰赤人の歌一首
我が屋戸に韓藍(からあゐ)蒔き生(お)ほし枯れぬれど懲(こ)りずてまたも蒔かむとぞ思ふ(3-384)
雑歌
山部宿禰赤人、不尽(ふじ)の山を望(み)る歌一首 并せて短歌
天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 富士の高嶺(たかね)は (3-317)
反歌
田子(たこ)の浦ゆ打ち出(いで)て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)〔百〕
山部宿禰赤人、伊予温泉(いよのゆ)に至りて作る歌一首
并せて短歌
皇神祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 敷きいます 国のことごと 湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宣(よろ)しき国と 凝々(こご)しかも 伊予の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思ほしし み湯の上(うへ)の 木群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ) (3-322)
反歌
ももしきの大宮人の熟田津(にぎたつ)に船(ふな)乗りしけむ年の知らなく(3-323)
神岳(かみをか)に登りて、山部宿禰赤人の作る歌一首
并せて短歌
三諸(みもろ)の 神名備山(かむなびやま)に 五百枝(いほえ)さし しじに生ひたる 栂(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 玉かづら 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香(あすか)の 旧(ふる)き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清(さや)けし 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 古(いにしへ)思へば(3-324)
反歌
明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに(3-325)
山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池(しま)を詠む歌一首
いにしへの古き堤(つつみ)は年深み池の渚に水草(みくさ)生ひにけり(3-378)
神亀元年甲子(きのえね)の冬の十月五日に、紀伊(き)の国に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人の作る歌一首
并せて短歌
やすみしし 我ご大君の 常宮(とこみや)と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮(しほ)干(ひ)れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま) (6-917)
反歌二首
沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮(しほ)干(ひ)満(み)ちい隠りゆかば思ほえむかも(6-918)
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る(6-919)
山部宿禰赤人の作る歌二首
并せて短歌
やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣(あをかき)ごもり 川なみの 清き河内(かふち)ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益々(しくしく)に この川の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ(6-923)
反歌二首
み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも(6-924)
ぬば玉の夜の更けゆけば久木(ひさき)生(お)ふる清き川原に千鳥しば鳴く(6-925)
やすみしし 我ご大君は み吉野の 秋津(あきづ)の小野の 野の上(へ)には 跡見(とみ)据ゑ置きて み山には 射目(いめ)立て渡し 朝狩に 獣(しし)踏み起し 夕狩に 鳥踏み立て 馬並(な)めて 御狩ぞ立たす 春の茂野(しげの)に(6-926)
反歌一首
あしひきの山にも野にも御狩人(みかりひと)さつ矢手挟(たばさ)み騒きてあり見ゆ(6-927)
山部宿禰赤人の作る歌一首
并せて短歌
天地(あめつち)の 遠きが如く 日月(ひつき)の 長きが如く 押し照る 難波(なには)の宮に 我ご大君 国知らすらし 御食(みけ)つ国 日々の御調(みつき)と 淡路の 野島(のしま)の海人(あま)の わたの底 沖つ海石(いくり)に 鰒玉(あはびたま) 多(さは)に潜(かづ)き出 船並(な)めて 仕(つか)へ奉(まつ)るし 貴(たふと)し見れば(6-933)
反歌一首
朝凪に楫(かぢ)の音聞こゆ御食(みけ)つ国野島(のしま)の海人(あま)の船にしあるらし(6-934)
山部宿禰赤人の作る歌 并せて短歌
やすみしし 我が大君の 神(かむ)ながら 高知らせる 印南野(いなみの)の 邑美(おふみ)の原の 荒たへの 藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船騒き 塩焼くと 人ぞ多(さは)にある 浦を吉(よ)み うべも釣りはす 浜を吉み うべも塩焼く あり通ひ 見(め)さくも著(しる)し 清き白浜(6-938)
反歌三首
沖つ波辺(へ)波静けみ漁(いざ)りすと藤江の浦に船ぞ騒ける(6-939)
印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)押しなべさ寝(ぬ)る夜の日(け)長くしあれば家し偲はゆ(6-940)
明石潟(あかしがた)潮干(しほひ)の道を明日よりは下笑(ゑ)ましけむ家近づけば(6-941)
春の三月に、難波の宮に幸(いでま)す時の歌
大夫(ますらを)は御狩(みかり)に立たし少女(をとめ)らは赤裳(あかも)裾引(すそび)く清き浜びを(6-1001)
八年丙子(ひのえね)夏の六月に、芳野の離宮に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人、詔(みことのり)に応(こた)へて作る歌一首
并せて短歌
やすみしし 我が大君の 見(め)したまふ 吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく 川速み 瀬の音ぞ清き 神(かむ)さびて 見れば貴く よろしなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止む時もあらめ(6-1005)
反歌
神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川(やまかは)をよみ(6-1006)
挽歌
勝鹿(かつしか)の真間娘子(ままのをとめ)が墓を過ぐる時に、山部宿禰赤人の作る歌一首 并せて短歌
古(いにしへ)に ありけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解き交(か)へて 臥屋(ふせや)建て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名(てごな)が 奥つ城(き)を こことは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言(こと)のみも 名のみも我(われ)は 忘らえなくに(3-431)
反歌
我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ(3-432)
勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手児名し思ほゆ(3-433)
哥座 美学研究所
YU HASEGAWA
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