もうひとつの霧箱としての「世界箱」について
     
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   思考実験 物をめぐる一考察

             

 もうひとつの霧箱としての「世界箱」について 
    

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草原を這い、天翔るこの白い木綿布は
放射線物質を検出する「霧箱」ならぬ
「もの」「こと」世界を探知、現出する
思考実験のための装置である。

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                     思考実験装置「世界箱」 ASO -NAIRIN

 ここの装置のもとではあらゆる対象存在が無化される。そこに、時間はなく、座標軸をもつ三次元空間もなく、それゆえ対象存在である物質もその変容である現代人の常識となっているエネルギーも、さらにそんな対象存在に対応する概念もみあたらない。

  - あくまでエネルギーや物質というBEGRIFFは自然現象を整理するに便利な便宜上の尺度としての観念にすぎない。このような観念の総合連鎖によって組み立てられた物理学は自然界の運動を解釈するに便利なものであるが、この建造物が唯一の必然なものだとは信じられない。現在とまったく違ったひとつの力学系統を構成することは不可能ではあるまい。
                  - 寺田虎彦。


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現代自然科学が到達した、に象徴される世界は、もともと物・事のいのちを殲滅させ立ち上げた抽象座標系OSのもとに成立した世界だ。一方、この装置では、そんな抽象化した世界から抽出された限定的なエネルギーにかわり、初源的で「ものそのもの」が備えている総体としてのチカラを検出する。この装置が創りだす場においては、あらゆるものがあるがままに共時的に活きることのできるちからに満ちている。そこでは対象化しないことでどんなささいなものであろうと、厚みをもったものとしてその極微の視点から掬いだし、ものの全体の視点へと置換して、そこから限りないチカラを惹きだしてくるのだ。

そのチカラとは、比較しても意味がないけれど、原水爆のパワー領域を越えている。なぜならそれ自体が驚きであるわたくしたちの存在というものは、たとえばに煎じつめられる四個の座標の抽象幾何学世界においては、観念上では、そこにカウントされはする。けれど、実はそうした抽象化された場がうみだすチカラは、どんなに時代が進もうと、そこに現実態の捨象化、抽象化を可能にするプラットフォームの存在が前提されているかぎりは、原理的にいって、あくまで限定的なものにとどまってしまう。一方わたくしたちはそこに実存の根拠をもたずに、あるがままの物の総体という底知れず、はかり知れない場にこそ、実存の根拠を置いてきた。そのチカラがはたらいてきた痕跡を一例として波状口縁尖底器に検証してみると、はるかな先史より、物の総体というところから無際限のチカラを曳きだしてきていることがわかる。

有史においてはどうか。あるモノ派の作家がここでいう装置たる彼自身の作品「位相-大地」をまえにして「これはまだ人類の未経験のチカラだ!」と発言したそうだ。それもわかるけれど、もともとこのチカラは現代美術上の発明になるものではなく、このあいだまでだれもが自覚していた、この列島独自の言語精神、言語OSのもとにはたらくチカラである。さらにそんな自覚例のひとつが、当時の中国思想や文学に精通しながら、それを踏まえて、概念思考の忌避による「もの」のかがやきの特異性をこの列島の核心として自覚していた「言挙げせぬ」という人麻呂の表明である。またそのチカラを「もの」において現代にまで牽き出してきているものに、西行も詠んだ「花の窟の縄掛け」がある。古来より不理・非象・無辺・無窮という列島独自のOSがうみだした力学のもと、具体的な「物」を「物」へと添わせていく幾何がある。ここでは「世界箱」たる装置としての一本の縄を山の頂から熊野の荒磯の松枝へうち掛ける。それだけで、世界を共時的に現出する無窮のチカラが繰りかえし生み出されてきている。

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思考実験の装置としての
「世界箱」 とは 

求心点と外郭辺をもたない無辺無窮の容れものである。ここではこの仮想の容れものを 「ものそのもの」がそのままの大きさで検出できる装置として「無辺霧箱」あるいは 「反霧箱」の意を込め「世界箱」としておいた。 「世界箱」は箱であっても箱ではない。 あくまで「物質世界から物世界へ向かって!」というパラダイム変換時における作業仮説として、最終的には揚棄すべきものだ。一方では当該抽象座標系の妥当する限定的な領域空間のその内部に対象物を関数変換して収める箱があり、他方にその箱に対比するための思考実験としての箱でない箱がある。

ところで、箱であって、箱のかたちをとらず、しかも無辺の箱であるという 「世界箱」のイメージとは、あへてデッサンすれば、ものごとの個別に志向するおのおのの涯までいき、その果てを折り目として、内を外へと裏返した箱である。こちらから持ち出した座標観念を裏返し、もどくことで、観念を排除して、あるがままのひろがりとしての場を開放し、その周縁で物の展開ができる箱だ。内と外の機能を入れ替えることで無辺、無窮にわたり、物を無尽蔵に具足したまま受容できることになる。

そこにおいては、芭蕉の切れ字にみるように、論理の果で折り返し、そのことで「見る」から「見ゆ」へという視座転換が生まれて、ことばやものが無窮のひろがりのなかで「こと」として具足する。その場には時間や空間という基本観念も折り返されて、もはや存在していない。その時空の欠落した無辺で無窮の場では、列島独自の時間性である、反復を本質として物や事が顕わとなり、その位置や真意が確定されていく。
箱を裏返した世界箱のなかみとは、一見、おもちゃ箱をひっくり返した時のように、たんに見えるがままのダイレクトで無秩序な世界ではないかと思われるが、そうではない。独自座標軸の否定の諸相をとおった末に反復現象してくる、観念を交えないあるがままの世界である。説明の困難な捉え処のない、やっかいな代物であるが、この箱に備わっているアポリアなるものがわたくしたちの根にある座標軸であり、そこで顕わとなる時空を欠いた無窮のひろがり世界である。しかし、縄文から和歌・俳諧そして日々のくらしや現代芸術にいたるまで、一貫してこの座標軸がこの列島の思考の核心を担ってきたにもかかわらず、この否定相をもった座標軸は、対象化したり、可視化できないという解明にあたっての、晦渋さがあるために、抽象的概念思考を阻害する素であるとして、古来より儒学者や印度哲学者、近代主義者、そして欧米に基準をおいた進歩的知識人という人々から軽薄な曲解にもとづく指弾をうけつづけ、現在にいたっている。

「世界箱」は、哥座がここで作業仮説として任意に設定した概念ではあるが、欧米の主知主義の生み出す自然諸科学がどうやっても死臭をぬぐえなくなっているときに、「物」と「言」にかかわるあるがままの物をそのまま受け容れるさいにはたらく「個と全体世界性に関する無窮の論理」が見直されるときがきたならば、それは、次の時代を担うパラダイム変換の重要な役割を担うことになるだろう。


すでにジャンルによっては、このパラダイム変換作業は完了している。たとえば、1959年の草間から昨今の李や菅などのモノ派までの現代美術において。さらに土方巽から大野までの舞踏においてである。これらのジャンルにおいては、欧米の観念的思想芸術の歴史を完全に払拭かつ凌駕した内容を達成できており、そこからすでに半世紀近くも経過している。これを言語芸術分野においてみてみると、さすがに文字表記の当初より、つまり万葉初期には、人麻呂が「言挙げせぬ国」とこの列島の独自精神性を誇っていたように、そのころすでに印中両国の抽象原理思想からあるがままの具体を求めたわたくしたちの第一次パラダイム変換作業は完了していたとみなしてもよいだろう。
      


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Next
 
もうひとつの世界箱に代えて。
哥座は「物」と「言」との両局にわたる列島地軸の検出作業を続けていたが、そのはたらきを整理していくうちに、或る特定のはたらきのもとで多様な現象が継起している事実をつきとめた。さらにその仕組みの解明にも成功。そこでウェブサイトの更新はこれ以上せず、代わりに「哥座-UTAKURA」というオフラインの座(ざ)のなかで新発見の理論をテキスト化したうえ、こゑによるパフォーマンスとするなど、具体的な「言」と「物」の作業として継続していくことにした。以後しばらくは哥座活動の柱は座(ざ)における口伝が主となる。

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「世界箱」の個と全体世界性に関する論理
         


・世界箱の世界とは時空座標を欠いた反復する無窮のひろがりを云う。意味的には「宇宙のかぎりを限界とする無限大の法身」そんな印度哲学の具足した無限世界と有限世界との関係に近い。
・わたくしたちの古層を水脈とすることばでいうと、「たまきはる」に代表される枕詞に解明の手がかりが潜んでいそうだ。枕詞のあやふやな意味合いを定義するよりもまず、具体的な一音一音のひろがりに直感をはわせるべきだ。その理由は、その枕詞という装置を縁起として開かれる、かぎりなき未然世界といまが出会い、響きあふ実感世界をものにする-具足化する-には、ことばのつばさを借りて天翔る他はないからだ。研究室に閉じこもり係数測定や集合論を応用して、品詞分類や古層言語分析をする知的作業も欠かせないが、それだけでは言語精神の核心にまで降りていけないだろう。中国・欧米のことわり思考から「おもひ」のひらく世界へ踏み込む行為は、愛しいひとへのかぎりないロマンティシズムと相通じるものがある。古来の和歌編纂にあたって、恋歌の部が欠かせなかったわけも恋というおもひに列島をひらいてきた、独自論理というものがすなおに、躍動しているからだろう。
・天翔ることばのちからを得て思索する-おもひを深める-ことができなければ、リアル世界へ創造的に切り込んで視座転換を果たすことは不可能である。明治までの儒学や明治以降の西欧学問ではジブンたちの根っこにある天翔ることばからちからを得ることに思いがいたらず、またその方法も知らなかったゆえに、印度中国欧米の外国言語精神のトレースにかかわるばかりであった。
・ 欧米の抽象座標系上で、概念を構築していく思考法では、生きた実感は伴わず、観念連鎖の進行と概括抽象の果てには、誰も住めない死んだ世界に堕ちてしまう他ないだろう。わたくしたちの「おもひ」とは、たとえ未然でも、その不完全さを繰り入れながら具体的な身体視点を軸にした周縁世界へと己を開き、そこで生きとしいけるものとのイマ・ココの共栄を深めようとする。こうした思索態度からすると、欧米式の概念を論理構築していく従来型思考法というものは本来、わたくしたちにとっては思考停止の状態に近いのである。

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  哥座 美学研究所
    2011年5月7日
     長谷川 有  
    E-mail :YU HASEGAWA

   
     
 
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