UTAKURA
ART WORKS-55
たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
言挙げせぬ国のフィジカ
波状口縁尖底器
B.C 6000
縄文の縄目文様は、表象を忌避してきた証であるが、無文字時代の智慧は、イメージや表象を忌避することで、却ってありのままの世界が受容できることを慧っていた.。いまにさえ連続しているわたくしたちのことばの法の核心が、ここに存している。
上イメージはいまから約八千年前の縄文早期の波状口縁尖底土器である。このはるか以前の草創期の器より、そして、その後の中期火炎式や晩期の土器にいたるまで、計一万年以上にもわたって、これらの器は抽象化をタブーとする規範のもとに、描写というものを忌避しつづけてきた。器表面を抽象還元して、イメージを描くための支持体とはしなかったのだ。そこには、”「物」を対象化した物質とはせぬ”という先史時代言語精神の靭き意思を見て取れる。この規範は、記紀万葉の文字時代になっても「言挙げせぬ」ということばにみられる不文律としてはたらき、さらに現代にいたっても暮らしのなかの本音や、社会の深層心理にまで強くはたらき続けている。
形而上者謂之道
形而下者謂之器
- 易経・繋辞上伝
一方、東シナ海をはさんだ国、中国の器は、波状口縁尖底器からみると、そこから四、五千年ほど時代が下るが、「物」を物質として対象化し、その成分を抽出するという抽象化作業において、はじめて抽出されるところの青銅を獲得。他方、思想においてもB.C.1700年頃の中国では、右にかかげた易経・繋辞上伝第十二章にみられるごとく、「形而上者謂之道
形而下者謂之器(形而上者とは、これを道と謂い、形而下者とは、これを器と謂う)」とする陰陽原理にもとづいた世界の高度な抽象理論の体系化が進行した。この抽象的線刻に適したメタルの獲得と、抽象思考を両輪として、表現は極度にソフィストケイトされてくる。
(繋辞上伝が易経に追加されたのは孔子の時代だが、その思想の基礎はすでに殷周時代にあったといわれている)そこで、「器」の存在根拠は、抽象概念であるところの「道(タオ)」とされ、その理論の深化とパラレルなかたちで、殷周の青銅器の文様の抽象化はすさまじく発展し、天の威光を受容する聖なる祭器として、鬼気迫る恐るべきものにまで深化していく。雷紋や過紋の幾何学文様、獣面文または饕餮(トウテツ)文のような抽象文様は、陰陽宇宙の絶対性の高みにまで表現されて、そこに立ち会う者を威嚇し、圧倒し尽くす。
*易経・繋辞上伝における器の概念は、広義では、天からの陰陽の働きかけを受けるすべてのかたち在るものを指す。すなわち、形而下としての物である。あらゆる存在の根源である形のない形而上としての道(タオ)に対して、具体的な象をもつあらゆる存在物を意味した。狭義の祭器としての器のみならず、人間も含め、地上に存在する現象面において把捉し得られるすべての形象が器であった。
*漢字の原義における器という文字は、犬牲を用いて清めた祭器を形象したものだ。四つの口のあいだにはさまれた大の字は、本来の意は犬牲にあるので、犬が正しい。-
「字統」白川静より抜粋。かように器は天からの陰陽の働きかけを受け、まつりごとを行う、このうえなく神聖なものであった。それゆえ器を制する者は、その象を尚(たっと)ぶ聖人であるとされた。
序論
器の解明にあたり
易経や漢字における器に聖性をみる基本的な位置づけは、暮らしのなかに位置づけられた性格がつよい日本の器にあっても、器というものの古代における重要性を考慮してみると、これらはたんなる道具存在にとどまらす、聖なる性格を帯びていただろうことは、想像に難くない。早期の波状口縁や中期の火炎式土器などの形態をみれば、それらは道具存在としての機能を逸脱しており、なんらかの精神的な意味を担っていたであろうことは明らかだ。それゆえ、この尖底器にはたらく思想を読み取る試みは、即ち、当該精神文化の凝縮した桂離宮やパルテノン神殿の設計思想にあたり、多角的視点から当時の言語精神の深層構造を解明しようとする作業とまったく同じことであり、そこからこの列島の言語精神のはたらきを十全に汲み取ることが可能となろう。
ただし、この解明は内にあっては古史古伝など頼るべき文字資料がない時代であり、また第二次資料として援用可能な漢書による記述もおよばないB.C一世紀以前の弥生からそれ以前の新石器時代が対象となる。そこに古典学や言語学、民俗学、歴史学等々の従来社会科学系人文学の限界が生じてくる。唯一、科学的実証性によって研究可能な自然科学系と人文科学系の中間に位置する考古学に期待がかかるところだ。しかし、自然科学的方法で年代を決め、それを基に層位学と型式学を組合せ相対年代を求め、出土した遺物をデータとして再構成し、そこにあった人々の生活・文化・社会のありさまをある程度シュミレーションして見ていくことを可能とするこの手法は、そこで見えた姿がパラメーターの設定次第で結果は大きく変動してしまうことを考えあわせたとき、その限界を超えて当時のひとびとの活きた心性の核にまで踏み込み、先史思想が現代とどう関連するのかなど核心となるべき問題に応えていくには、どれほどデータがそろった時代にあっても常に蓋然的な解答に留まるほかなく、不足を想像で補うしかないであろうかと思われる。先史とはいえ、すぐそこにあるひとびとの暮らしや考え方なのであるが、前文字文化と文字文化以降の社会との間にはこのような学問解明上の不連続線が横たわっている。
平成も二十年のころ、霞ヶ浦の地政学的な要となっているポイントを訪れた時のことである。そのあたりは古墳がやたら多いのだが、そんな丘のひとつに立ったとき、縄文中期から晩期にかけての土器破片が無数に散らばったねぎ畑でひとり黙々と畑仕事をするおばあさんの姿にであった。きっと、このあいだまで、田舎のいたるところのくらしのなかにこのような土器破片がまぎれこんだ光景があったであろう。わたくしたちの心性や社会のありかたを考えるとき、こうした欠片をいまに遺す縄文を無視することはできない。そこはヒトのいなかったはるかな恐竜時代ではない。文字の使用の有無という壁があるにしても、一音節身体語や二音節動詞、畳語、てにをはなど現在とほとんどかわらぬ言語をつかうひとびとが暮していたはずのお隣の時代である。
この学問解明上の不連続線を越えて、母語による独自言語精神のはたらきが文字使用の前と後でどう変化したのか、また両者の言語精神に共通のものがあるとすれば、そこにはたらいた法とは何かが探求される必要がある。列島全域にこれだけなまなましい痕跡を無数にのこしている縄文文化である。この無文字時代の視点を解明し、先史とよばれる時代精神から現代の意味を求めなくては、文字資料だけで得られる古代精神の分析から古代や現代をながめても片手落ちの観は否めない。
そのへんは各研究機関でも意識されていて、比較人類学、比較民族学、言語学等の学際的な相互研究でそこを乗り越えようという動きはでている。しかし、実際上は、理念とは裏腹に、それぞれの学問の拠るべき立場が明確になってくると、その間のギャップはひろがるばかりとなる。用語ひとつ例にとっても、学際間で共通に定まったものがないのが現状であろう。この不連続線を、従来学問の方法や、欧米に真似てはじまった学際的な試みなどで乗り越えうるとの熱意は、欧米に由来するそれら学問の基盤そのものが問われないかぎり、現代神話のひとつくらいは創れても、結局無駄な努力に終わる可能性が高い。
解明の方法
そこで、ここでは無文字時代と文字時代との間にあるこの不連続線に対して、従来の欧米型学問の実証的方法論からはいったんはなれて、母語にそなわる法に従い、「物」へと聴き入り、「物」に添って「物」を開いていく母語独自の思索の方法で臨みたい。そこでは、物を対象として認識するのではなく、物へ出会うという認識に代へた確認の方法を採る。具体的にはそれは、現代美術の実作による体験的で、かつ活きた動的視点から観ていくことになる。そこから、そのギャップへ一本の活きた橋をそれ自体を広い意味での現代美術作品のひとつの作業体として架けわたす試みとなる。もとより描写表現をわざと回避したようにみえる縄文という無文字時代の精神は、表現描写にかかせない抽象化そのもののプロセスをタブーとしてきたのであれば、この尖底器は、捨象および抽象化によってその本質を見きわめて、そこから組み立てた推論を逐一秩序よく証拠立てていこうとする学問範疇から逸脱した種類のものである。したがって従来学問の対象には馴染まないところがあろう。その独自性は、それ自身にそって、それ自身に備わった独自論理で作業してはじめてその内部の秘密へと迫ることができる。
客観であるべき作業を学問にかえて、芸術で解明するなどといいだすと、さすがに困惑される向きが多くなろう。現代の常識からは当然である。しかし、この言挙げせぬ国の思想哲理は歴史的にみても、抽象概念を言挙げして概念を論理的に積み上げていく西欧型学問のようなシステマティックな思想表現のかたちをとってこなかった。道元や西田に代表される優れて構築的な哲学思想もあるが、それらはあくまで山水、大和絵、能楽、茶道、日本画、洋画のように、印度・中国・欧米式学問・芸術原理でなったものを輸入、受容し、日本的深化に成功したものであり、形式は学問のようにみえても、内容は印・中・欧のような厳密な学の体系をなしていないものであることは、識者からしばしば指摘されるところである。そして問題は、それらが果たして母語のちからを自覚的にひきだして、母語を核に、独自発展させてきたこの国固有の学問・芸術だったのだろうかというところにある。
これに対して、人麻呂・芭蕉に代表される和歌、俳諧においては、当初幾分の形式は唐歌を意識したものであっても、基本的には母語言語精神のちからを自覚的に動的な姿で捉え、それ自体の運動でいきた思想にまで昇華させている。その意味で、契沖か真淵か、「この国における和歌は、唐土の詩経に位置づけされるものである」といっているが、和歌、俳諧は、文芸という一ジャンルの詩作品にとどまるものではなく、その一首・一句そのものが母語による活きたままの動的な哲学思想と呼べるものなのである。事実、思想を活きた歌と成し得るとのおもいは「因明論の似現量の心を」と前書して、インド論理学を歌にかえ「むら雲の絶え間のかげは急げどもふくるはおそき秋の夜の月(-風雅集)」と詠む行為にも反映されており、また、「歌は正しく仏法そのものであった。それが明恵のすき心である。(中村元の指摘)」。等々、印中の言語精神にもとづいた論理・学問を、母語言語精神へと、そこにはたらく法が純化されているはずの歌という芸術形式へと置き換えようとする試みは、わたくしたち言語精神のひとつの独自ともいうべき自然な傾向であった。
以下の作業のなかで、徐々に顕かにしていくつもりだが、この列島の言語精神による思索のありかたというものは、印・中・欧の言語精神による思索とは、その方向性や内容・方法論がまったく違っている。したがってそこに働く時間や空間も異なってくる。真理という基本的な概念の意味するところさえ同じではない。
それは芸術自身についてもいえる。周知のように、この国の芸術の名でよばれる作品のほとんどは、印度・中国・欧米式芸術原理を輸入、受容し、日本化されてきたものだ。しかし、動的で身体をとおった母語精神の視座から自発的に達成された作品もある。そんな作品に対しては、印・中・欧の言語精神による思索は適用しづらい。基本的に母語言語精神のちからをかりて動的な姿のまま捉え、連歌・連句のように観る側もそれ自体の運動と一体化して参加、了解しなければ、深い理解にまでたどり着くことは難しくなる。たとえば現代美術の具体運動から*モノ派の菅木志雄や李禹煥にみられる一連の作品群がそうである。達成したレベルは、国際的にみても、同時代の欧米ミニマル・アートや、日本の現代思想家の論文形式の作品レベルをはるかに凌駕したものであり、従来美学や批評の対象圏外に位置している。ただし、その成果が母語という一言語精神を越えた世界でも注目をあつめ得た主因は、まず、作業側が、世界的ポストモダンの流れをうけて、それまでの印中欧米の抽象概念にまつわる惑わしや既存の伝統造型概念を祓ったところで作業できたという、しかも物というものを相手にして、「物をオブジェクトとしてとらえるか物としてとらえるか」という母語の本源的な地平からの問い直しとともにあたらしくはじめることができたという、多分にこの時代のジャンルの置かれた立ち位置の幸運性にあった。そんな既存の伝統造型概念を破った作品を批評側も求めていたのだ。
ところで、いかなる時代であろうと、学問も芸術もその基盤は、いまという現存在との身体も含めた格闘の場なくして成立し得ない。それは、欧米言語精神による主知化・合理化で近代学問の方法論を打ち立てたマックス・ヴェーバーでさえ「学問上、霊感をえるためにも現実の事柄(Eine
Sache)に専心することが必要である」と学問に先立って、現実世界と不離不足の関係で成立する直感の必要性に言及していることからも窺えよう。とりわけその学問の方法論を表面上で受容してきただけのこの国において、近代学問の方法は真似できても、それを生み出した他国言語精神そのものは体験できず、頭の中でのトレースしかできない。直感の拠って立つ場なくば、そして、母語という言葉のチカラの手助けで独自視点と独自方法論をもたなくては、学問なんぞ計算ごとでしかないだろう。
「言挙げせぬ」という言語精神からみた場合、欧米哲学に当たるものとしての、この国独自の思想・哲学というものは、時代とともに表現メディアを変えてきている。縄文では縄文、その後は和歌、連歌・連句、俳諧。そして現在・・・の順に。
一方、明治以降の哲学・美学と呼ばれているものは、実態はいまでいう注釈書附きの輸入パッケージソフト商品にすぎない。バグの多さにも拘らず、いまだ、ほそぼそ流通しているのをみると、せまい業界内で、自らの思考停止を引用によって誤魔化すことで業界内生存を図らんとする意図のもと、権威付けや、アリバイ作りに利用されているようだ。母語言語精神への自覚が欠如したまま欧米哲学・美学の直訳概念を母語で運用表現するという矛盾を犯したままのこれら商材は、哲学・思想と商品名がついていても、この国独自の確固たる思想・哲学とは縁のないものである。
*「モノ派とは、1970年代前後の日本で、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体(いか「モノ」と記す)を、素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやものの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たちを指す。(菅
木志雄、李禹煥、関根伸夫、吉田克朗、本田真吾、成田克彦、小清水 漸、榎倉康二、高山登、藤井博、羽生真、原口典之、等)・・・菅はモノの存在の決定因として状況、イベントなどを順次覚醒させてゆき、とりわけ、モノと空間の両義的な接点として「面」ないし「界」に注目し、面の表と裏、界のこちらとあちらといった位相転換をばねとして空間の分節、存在の多元的発現を可能にした方法体系は、まったく独創的なものであった。菅の作品にはつねに「何によってモノは在るか」、「何によって私たちはそれを見るのか」という設問(縁起性)が伏在している。しかし、同じ設問を、ジャスパー・ジョーンズが主知主義的で晦渋なタブローやオブジェに閉じ込めていたのと違って、菅はそれを、モノと空間に沿って、それらとの戯れとともに、肉体的・精神的な快活さで演じていった。存在への問いの答えは、モノにも作品にも概念にもあるわけがなく、モノや空間を分節するヒトとそのヒトの振舞いを規定してくるモノの構造との依存し合う戯れ(それは関係という静的概念では捉えられない)のなかにしかないことを、菅は作品自体によって示すのである。菅において、モノ派は真に肉体を得たと評していい。」-
1986年鎌倉画廊《モノ派》展カタログ/美術評論家 峯村敏明氏論文より引用。
作業上、留意すべき三点
第一点は、まず、近代美学の造型視点や従来の中国青銅器や陶磁器の鑑定眼は、いったん括弧にいれること。実際、たんなる造形物の国際比較などで外面的な特徴を検討し、理論と実証をいくら積み重ねようが、その比較検討する眼差し自体が、近代自然・社会科学のものである限り、従来美学や、概念、論理思考をはみだしたところから生み出された、この尖底器の美の謎は原理上、読み解け得ない。
第二点は、したがって、この器の「物」として、「事」として在るありかたを、タオ的な理法ではなく、また欧米の概念思考ではなく、わたくしたちの古層にはたらく「言(こと)」のちからを借りて「物」にそって追体験していかねばならない。無文字時代の言語精神にそったかたちで読み解く必要があるのだ。
なにやら難しく聞こえるが、やまと言葉は、おおむね弥生時代に定着したといわれ、そのほとんどは現在も使用されている。たとえば、その後の源氏物語において、その用語や文法には現在までおおきな変化はなく、敬語や助動詞に慣れれば概ね小・中学生でも読解可能である。(ところで、稲作開始後に定着した稲にまつわる用語は体言、用言ともにかなりの数にのぼるが、それは近代社会以降、生産手段の激変による現代語における製品、商品名の氾濫をみれば察せられる当然の事態であったはずで、ただ、そのことだけをもってして、わたくしたちのいまを、その基本心性を構成しているはずの言語精神全体を弥生にあったと判断してはならないだろう。)これら稲作関連用語をのぞいたとしても、て・に・を・はの助詞、地名、身体語、二音節動詞、畳語、擬声語という基本言語群の大部分は、弥生以前つまり、やまとことばのさらに古層に位置づけされるといわれている。そして、それら言語のほとんどは、そのままのかたちでいまにまで継承されて、幼児からお年寄り、そして*ナリスマシ族までが日常で無意識裡に使用している。「言(こと)」は、そのまま先史、それもそうとう古層の言語にまで遡れるはずの私たちにとって血肉身体化されたことばなのである。
思索というものがことばによって深められるものである限りにおいて、母語のちからの手助けなくしては、なにもできないのはあきらかである。だから、「万づの事に繪(かた)を書てしるしとする国-(真淵)」の言語精神=漢字という文字絵のうみだす意味世界から離れて、「繪(かた)をもちいざる」言語精神=母語の一語一語の感覚の融通性や類推的に広がる意味領域、その原音のひびき合ふ世界に深く聴き入りたい。それはまた言挙げせぬこの国の独自の思索方法である。心身を澄まし、一語一語に聴き入り、顕わとなれる「事=言」の、そのあり方、展開のあり様こそが、西欧でいう文法にあたる。母語に備わる先験的ともいうべき法である。本来単語さえないといわれる母語にあって、文語であろうと、口語であろうと、SVOや接尾語、助動詞とか助詞などの意味機能の視点から言葉の構成法を考えたり、あるいは南方系統にアルタイ語系が重なった言語であるなどと比較言語の発想から母語の組み立てを考えていくことは、そうかもしれないが、あくまで派生的な事柄である。そこから不可思議な先験性に根をもつことばのはたらきは明らかにされてこないだろう。しかし、日常誰しもがしているように母語に聴き入るだけで、「言(こと)」の古層からことばにはたらく法をあきらかにすることは可能である。またそこから現代の思考方では及びもつかなかった程の、おおきなチカラを惹きだせることになる。「ことばの一音一音は、舌頭に千度転がすべし」と芭蕉がいうように・・・。
第三点は、古層にはたらく「言(こと)」のちからを借りて「物」にそって追体験していく際に、悟性的判断にすべての信を置かないことである。状況証拠のみで、全体を判断しないことである。物にしても言の世界においても、経済社会的諸条件や自然環境からそれ自体の存在が演繹され尽くすものではない。現在考えうる諸条件などは、永遠にそのつど、全体のほんの一部でしかないはずだ。まして、心性の核を問題にしていくときはそうである。しかし、自身を省みても往々にして、そのトラップにはまり、理(ことわり)思考という母語による言語精神からみれば一種の思索停止状態に陥ってしまうことが多い。そうした一例としても、語源的説明の無限拡張に陥らないことである。折口いうように「語源というものは、幾らでももとがある」。語源解釈や細かい状況証拠立ても場合によっては必要となるのは間違いないが、それは他に譲りたい。ここでは悟性判断ではなく、身体を媒介に聴き取った体験智に軸足を置いた作業をしていく。対象化せず物へ聴き入れば、合い照らす瞬間(とき)がやって来る。それで分るものは分る。分らないものはそれ以上悟性で追いかけまわさずに、打っ遣っておけばいつか分ってくるものであろう。
本論
「明治以後、安直な学問が栄えたが、もつと本式に腰を据ゑて、根本的に、古代精神の起つて来るところを研究して、古代の論理を尋ねて来る必要がある。」 -
折口
波状口縁尖底器。
- この器にはたらく三つの法。
一、
描写と沈黙
この器にはたらく法の核心は、記紀万葉にまでも継承され、人麻呂が当時の中国と比較して、「言挙げせぬ国」と詠んだその言挙げせぬ禁忌法にある。
それは、概念化による捨象、抽象化を排して、言挙げにつながる抽象理論の構築を拒否し、あらゆる物をありのまま言挙げせず、動的な輝きのままに受容していこうとする論理である。物を対象化しないことで、物と一体化を果たし、そこからひらいてくる全球的視座というものに、深く聴き入り、かぎりなく深く与していこうとする思索態度のあり方である。
このわたくしたちのおもひ・思索のあり方というものは、欧米型言語精神のように知覚を抽象概念に翻意し、そこで論理を構成して知を求めていこうとする思考法とは、まったく異なったものである。両者は、そのままでは相容れず、真っ向から対立するか、すれ違ってしまうものの捉え方だ。だが、この思考のはたらき方の根本的な違いをわたくしたちは、さほど自覚することはない。一般的な日常生活においては、そのことが直接なんらかの支障になることが少ないからだろう。しかし、以下で扱うように、この言語精神に発する思考の違いの自覚欠如というものはそれだけで済まない。他に比肩するものが見当たらないほどおおきな悲劇につながる問題を孕んでいるのだ。
現代美術や現代舞踏の現場にたつと、これらの違いが作品や身体上に如実に顕わになっている事例を具体的に目撃できるのであるが、ここでは、あまり触れないが、言語精神が直接かかわってくるシチュエーションに身をおいてなにか創りだそうとしたときには、かならず、欧米型言語精神と母語精神との思考法の違いに直面することになる。しかし、それが散文形式文学や研究論文という言語自体の作品となると、俳句や短歌という伝統詩形は別として、「身体」や、「もの」でみえていたこの如実な差異は、かえって分かり難くなってしまう。ことばの内包する意味・概念というものに霍乱されてしまうからだ。ことにITに代表される現代は、異なる言語システム間での、即物的利便性の観点からことばを蓋然的に対比させて、そこですませようとする傾向が強まってきている。いわば、翻訳型主導というべきことばの時代である。そこでは欧米型と母語言語精神との思考法の違いはもはや存在しないか、ゆくゆくは乗り越えられるべきものくらいにしか受け止められていない。
特殊なケースを除いて、欧米思考法とのこの決定的差異を自覚することなく、現在、生活スタイルにしても、科学技術にしても、これだけ欧米化したわたくしたちである。しかし、依然、ここで、縄文を代表する器としてとりあげたこの波状口縁尖底器にはたらく法は、母語精神の精華である和歌・俳諧そして、いま、モノ派や舞踏にいたる現代美術の核心や、ひとりひとりの生活の本音の部分にまで、一万年以上にもわたって一貫してはたらきつづけているのである。
現代の代表的万葉学者のひとり、中西進はいう「
古代では、人と自然とを相対化して捉える意識がなかった。人と自然をひっくるめて、ここにある山、あそこにある川、そして私。そういうものを総体として捉えていた。」と。しかし、いまの古典研究家を代弁しているはずの彼の推察する古代人のものの見方は、古代に限ったことではないだろう。サルが進化して尻尾を落とし、ヒトになったとする進化論者が主張のように、わたくしたちは、古代の思考法という尻尾を切り捨てて、中国そして欧米の進歩的思想へと進化してきただろうか。たしかに、合理性に価値を置く日常のものの世界では、ある日、洗濯板が電気洗濯機に変わったように、短期間に縄文土器が弥生土器にとって換わるという劇的変化はしばしばある。しかし、ことばの世界では民族がそっくり入れ替わる事態でもないかぎり、母語による言語精神が激変したり進化したりはすることはないのだ。昨日の洗濯板も今日の電気洗濯機もあいかわらず、同一言語を発っする同一人物が使っている。
人と自然とを相対化しないで受け止めていくわたくしたちのおもひの論理は、古代からかわらず、ごく普通の本音でくらす日本人のものの見方である。ただし、身辺のものを見る限り、欧米型の生活様式となって久しい現代のわたくしたちは、一方で、日常の社会・経済活動では西欧型に翻意された一種のフィクション世界に身を置いて、ものを対象化しながら抽象概念思考(欧米のような厳密な概念思考ではない)もどきをして、他方では、仕事から離れた家庭や、ひとりになった時の本音の世界において、母語による言語精神に還り、ものを対象化せず、相対化せず、そこで生まれだす視座のひらきへ与するかたちでものごとや自己へ対処したことば=おもひをひらいていく。
「あァ、ぼォッとしてた・・・。」
などおもわず漏らす嘆息めいたことばがそうだが、認識主体としての「人間」という概念さえたかだかこの二・三百年前に発明されたにすぎないというヴィトゲンシュタインではないが、わたくしたちにおいては、そんな西欧型概念思考を導入し、その考え方が定着してまだ百年あまりしかたっていない。主客を分かつことでしか機能しない抽象概念用語にくらべると、このようななにげない嘆息めいたことばでありながらも、その深度は深い。伊邪那岐命と伊邪那美命が「あなにやし、えをとこを。あなにやし、えをとめを」と言い交わし古事記がかきとめた国生みにまつわる有名な言葉同様、無文字時代の言語精神にまでたどれる古層に属することばであり、身体化されているゆえに、母語特有のうつくしく、かわいい響きのひろがりをもっている。
こころの底からの喜び、あるいは悲しみ、怒りにとらわれたとき、現代人は、われ知らず、身体化された古いことば遣いに還ってしまう。その時、ナリスマシの視点からの抽象言語の意味の射程は、世界の表層にとどまるに反して、母語にもとづくこれらのことばは、動的局面に応じた主客未分化の、したがって直接的な意味領域をもこえて一期一会ともいうべき非常にふかい全体世界の在りようをひらき出してくる。
わたくしたちは常に、この二つの異なる世界を*スウィッチングをしながら暮しているのである。別のところでも触れたが、明治初期の国家が雇った高級外国人教師から見た日本人哲学者への感想がある。当時の輸入哲学だからドイツ人かイギリス人だったか、「日本人哲学者の住まう家は二階建てになっている。わたくしとの議論は階上の洋間で理路整然とすすめ、しかし彼は、たえず階下の畳の部屋へおりては和服に着替え、お茶をすすってまた、上がってくる。」と、もちろんこの建物は、彼がみた日本人哲学者の精神構造の例えである。
今後も母語が存続するかぎり、わたくしたちの無意識裡の本音では、概念化による捨象、抽象化をしながらも、それを表層のできごととし、我も対象もひっくるめて、あらゆる物をありのまま動的な輝きのままに直く受容していこうとするだろう。それがわたくしたちの基本的なロジックフィールドなのだから。中村元が西欧言語精神と印度言語精神との抽象概念に関する思考法の違いについてこういっている。「西欧人は、抽象名詞の表示する抽象概念は、日常経験からそれの普遍的意味だけを抽離して抽象的に構成されたものだと考えている。比して、インド人は、それぞれの経験的事実のうちに抽象的概念が、何らかの実体的原理のように内包されていると考える。彼らの思惟方法は、個物あるいは、特殊者の本質は、それが担持し、それが具現している普遍にほかならなぬのである。結果、抽象的な堅さと具体的な堅いものとの区別が、区別されずに使用される。抽象観念が、同時に具体的な事物として表象される。抽象名詞が、具体名詞として用いられる。抽象概念や時間的な観念も実体性ある物体であるかのように表象されるのである。」また、日本語という母語言語精神によるものの捉え方について或る人曰く、「古語は、本質喚起的なものであるシナ欧インド語とは違う。存在の分節形態を対象として捉えない。さまざまに分節された事物の世界のなかにあり、それらに接しながら生きながらも、それぞれを一つのものとして凝固させる本質を認めない。分節形態が、経験的事実として現前していても、ただそれらはそういう形で現れているだけで、本当はないものであり、いわゆる本質は虚構であるというのが、龍樹の中観から唯識へ到る大乗仏教存在論の中枢的テーゼをなす空観であるが、それらや老荘など東洋哲学の最終に目指す会得境地である。しかしながら、ちょうど母国語においてはかような聖者のような態度が誰にもとれるのである。」
しかし、この時代、言語精神間に横たわるこれら思考法の決定的差異を自覚することなく、とりわけ時の権力のひとつにちがいない学のシステムは、現今の環境とか平和とか、ほとんどの抽象概念命題がそうであるが、欧米近代思考を唯一の世界基準に、ひたすらものまね概念思考を推し進め、この国へ強要していこうとしている。このままこの傾向が加速していけば、概念の意味するところとは裏腹に、かならずや、それらの概念・論理は、臨界点を迎える。そしてささいななにかをきっかけとして、政治、経済や法律などの社会システム、及び文化全般にわたる全面崩壊をもたらすだろう。
その理由の第一は、わたくしたちが、母語を使用しながらも、そのルールを自覚化し得ぬまま、欧米型思考法という概念思考に一方的に走ってしまうと、気づかぬうちに母語に備わる基本的なロジックフィールドの枠を踏み外してしまい、業界、学会などにみられるセクト化など将にそうであるが、そこに起因する母語言語精神との乖離空間が、巨大な虚無空間に変質してしまうからである。そうなると、分裂してしまった両極の融通性は失われて、もはや内部からの修正は効かずに崩壊を待つだけになってしまおう。悪意の第三者が、大学とか研究所とかいわれる学問を標榜する無知なる内部者を手なづけて、彼らの手引きのもと、虚無空間を意図的につくりあげ、それを突き崩す作業は、時間のベクトルさえ読み違えなければ、簡単な戦略ワークとなる。しごく単純な論理である。日常経験から普遍的意味を抽離して抽象的に構成された欧米の抽象概念は、わたくしたちが思い込んでかってに意味づけしている抽象概念とは違うのである。て・に・を・はという母語に浮かべた抽象概念は、その瞬間に、概念から概念の本質である関係規定が抜き取られ溶解しはじめる。大学や研究機関が、中立なる学問の聖域であると妄想する多くの偽善的学者は、これら抽象概念とその関係間の論理構築を母語で運用しても、欧米言語精神の概念運用に伍していけると信じているようだ。が、その勘違いは社会をクラッシュに導いてしまう。結果がまずいことになっても自己の犯罪性は棚上げし、学際的な研究が不足していたなどと無責任に嘯くのは見えているが。
第二は、概念思考の崩壊という過去の経験則が教えてくれるものである。明治の近代化をいそぐあまり、その過程で、母語精神と欧米言語精神との思索の根本的差異をあいまいにしたまま欧米型論理を真似て概念思考を運用していった結果、最後は敗戦で破綻するほかなかった政治・経済のあり様。また、それと同時にパラレルに現象していった日本の戦前美術史や京都学派を筆頭にした哲学史の硬直した観念空洞化のわかりやすい崩壊例を西田の世界的世界形成の原理や当時の日本哲学雑誌ナチス文庫にみるからである。戦争は、政治・経済の一形態にすぎず、芸術文化はそれらの反映であるという見方に立つならば、おそらくあの敗戦がなくとも、母語言語精神への深い洞察のないままに、膨張しきった当時の虚無的概念空間は、ちがったかたちで、遅かれ早かれ、同規模の崩壊に向かうしかなかったはずだ。
ところが、戦後には、抽象理論の構築は空虚な言挙げにつながるという母語精神と欧米思考との差異の問題は追求されるどころか、その問題は封印されてしまった。そこには、敗戦につづくGHQの占領政策もおおきく影響しているだろう。しかし、もともと、宣長が排撃する漢意(からごころ)のように、近世以降、あるいはそれ以前からわたくしたち自身に内在している漢意(からごころ)というもの。そしてそこから洋意(ようごころ)へ敗戦を機に変身してしまうナリスマシの傾向性にもその過半の原因が求められるように思われる。
儒学全盛期にあった宣長の指弾する漢意(カラゴコロ)の蔓延にくらべ、現在はそれをはるかに凌ぐ洋意(宣長に倣って仮に、ヨウゴコロとしておく)全盛の時代である。欧米文化がその圧倒的に優位な軍事力、金融力、近代自然科学や情報技術力を背景にして全世界を圧倒しつくし、それを受けての地球的規模の事態であるが、近代自然科学ひとつ例にとっても、その受容と応用にみられるように、わが国では、もはや科学は、ユニバーサルな普遍原理として受け止められてしまっている。表立って、その成立根拠と限界を母語による言語精神で問いかける者など例外中の例外か、よくても奇特な話のひとつくらいで片付けられる時代だ。さらにいまや、ITの拍車もかかり、欧米の尺度だけにもとづく世界標準の一元化された学問システムを中心に、ふたたび、わたくしたちはナリスマシ族主導のコンセプチュアル思考の暴走にまきこまれ、戦前以上の空洞化の極限にまで進もうとしているのが現状である。
このまま、両言語精神間の思索の差異の自覚なくして事態が進行していくようであると、その結果は先の大戦以上の、悲劇的事態を招くだろう。次に待ち受けているクラッシュは、政治力学の一形態にすぎない戦争とは、まったく違う想像もできないかたちをとって顕れるはずだ。
だからといって、過去から未来にわたっての印欧中の文化や近代自然科学を排斥しようというのではない。ここでは、普段なじんだ母語による思索を深めて、そこで練られた視点からそれを梃子に、ナリスマシ視点を排し、母語言語精神の相対化された時にあらわれる弱点を自覚した上で、現在を批判的に思い込みを排した冷徹な論理でもって組み立て直す作業なくば、自らの社会・文化は病んでしまい、存続さえも覚束なくなってしまうという、どの言語文化圏にも妥当するあきらかな原則を述べているにすぎない。この問題を等閑視したままにすると、わたしたちの意に反し、気づかぬうちに、学問という権力を背景にしたナリスマシ族が手引きのもと、戦略的な外圧がかかるのは必定であり、その病の度合いに応じて、クラッシュの惨状もまた大きくなってしてしまうということである。いくぶん観念的になってしまったが、経済・社会の枠組みもとうにその傾向を示している。また、個人的なことではあるが、現代美術シーンにおける表現の有無をめぐる両言語精神間の葛藤は、視座の置き方をまちがえると正反対の結果を生じるものであり、瞬間瞬間、感情を排したところでの判断をせまられる目の前の現実問題である。
ちなみに、上に意図的に提示した「一本の棒のごときもの」は、線の一部であろうか、それともやはり棒きれか、引っ掻き傷であろうか。これを使ってなにか現そうという前提にたった上で、線と解釈すれば、描写表現のシステムに属する中国・欧米型の抽象概念思考(あくまでナリスマシの視点からである)がはたらきだす。一方、棒かあるいは掻き傷として具体的な存在物としてうけとれば、そこにそれを縁起として、言挙げせぬという沈黙の許に、その「物」自体に聴き入り、そこに添った物付けをしていこうとする波状口縁尖底器の時代から現代モノ派にまでみられる、母語による具足的な言語精神がはたらきだす。
あまりに単純化しすぎて、わかりにくい例になったかもしれない。(コンセプチュアルアートに属するイタリアのルーチョ・フォンタナのようにキャンバスの物理的ナイフ傷をそのまま作品として提示するものもある。がそれはここでいう主客未分化の全体的視座を生み出しはしない。あくまで概念としての反芸術であり、オブジェクト芸術なのである)。しかし、ここでは欧米型言語精神と母語言語精神というものがわたくしたちに同時に存在しており、このそれぞれの受け止め方による言語精神の発動のしかたは、結果として、まったく異なった世界像を結んでいくということを察していただければよいのである。
そして、この「一本の棒のごときもの」になんでもいいが、ある抽象的「概念」を置き換えてみるといい。その「概念」に対するわたくしたちの思索は、この「一本の棒のごときもの」に対すると同様に、やはり二つの方向性をもってはたらき出すことが分かってこよう。どんな国の言語圏においても、「物」と「言」へたいする言語精神のアプローチというものはまったくパラレルな動き方をしているのだ。わたくしたちの母語による具足的な言語精神は、ことばを具体的な言=事として、その「ことば」自体から生まれ出した全体的視点に聴き入り、そこに添った「おもひ」がはたらきだす。すくなくとも母語言語精神のはたらきが昇華されたところの和歌・俳諧においてはそうだ。ことに連歌・連句はこうしたはたらきそのものが主導したところで成立している。
ところで、「一本の棒のごときもの」を描写のための線としてとらえれば、その描写における構成部分としての線・面との関係性こそが見られていかれねばならない。それと同様、「概念」にたいしては、概念の本質定義と、そのほかの概念や判断との関係性、論理性というものを主体に見ていかならなければならないはずだ。そうでないと概念の文脈のなかで果たす役割、意味はなくなろう。他との関係なしには概念自体は定義された意味機能しか持たないのである。しかし、母語に暮らすわたくしたちは、概念思考にナリスマシしできたとしても、ついつい、やまとことばに対すると同様に、関係性を無化して、その概念自体に「物」そのものと同様の深い意味合いがあるかのように錯覚して、なにもないところに深く聴き入ってしまう。その背後にはあらゆる言葉には言=事としての具体性があると観る母語精神がはたらいてしまうからであろう。こうした思索の方向性は、論理的な抽象概念思考とは正反対のものである。
概念定義の奥にさらに意味があると求めていく心性は、えてしてそこで社会経済条件を反映した共同幻想に捉えられたとき、概念に神秘的な意味を付与してセクト化の傾向を呈し、場合によってはカルト化にまで到る。欧米言語精神のうみだした美学視点にナリスマシ、抽象概念のもとで業界内用語に閉じこもる美学学会や、その他思い当たるはずの多くの何々学会といわれるものの大半がそうであろう。概念にそれ以上の意味性を賦与してしまうこの心性構造は新興宗教の題目の果たす役割となんら変わらない。「純粋経験」から「絶対矛盾的自己同一」へそして「大東亜共栄圏」から「一億総玉砕」への道のりは遠いものではなかった。それはたんに欧米連合軍の戦略的包囲網がもたらした政治経済の突出した結果論であるばかりでなく、母語言語精神と、抽象概念による思索のありかたの相違を明確にできなかった明治・大正・昭和という時代精神のありかたにもその原因の一端を求められるべき現象ではなかっただろうか。
日常に論理的な思考は必要不可欠だし、そこで社会的な合意により定義・使用される概念・論理には概ね異存はないだろう。しかしこうした概念は欧米の厳密な定式を構成するパーツとしての概念ではなく、あいまいに単語のもつ意味くらいに受け止められている。先にあげたように「西欧人は、抽象名詞の表示する抽象概念は、日常経験からそれの普遍的意味だけを抽離して抽象的に構成されたものだと考えているのだ。」さらにこのあいまいな概念がひとたびこの国の専門機関で再定義されたときには意識あるいは無意識裡に機関の利に適うよう、あらぬ意味が付加されて、その語がふたたび流通するころには、思考停止のたんなる題目にすぎなくなっている。結果、母語による言語精神のはたらきを奪ってしまう。そこに戦略に長け、物のいのちに聴き入るなどの感覚とは無縁のひたすら抽象思考で概念を組み立ててくる第三者からつけ込まれるスキがうまれるのである。昨今の環境問題などもまさしくそうである。物に事に聴き入ろうとする言挙げせぬ母語精神はけっしてそんな粗雑な精神ではないはずだ。そしていまでもわたくしたちはこの思索のベクトルの違う二つの見方を明確に区別せずに一人の頭のなかに両立させ、状況に応じた都合よい使い分けをしているのである。
ひとつ 「余白」ということばを例にとってみよう。「山水画は、日本文化の特徴である「余白」を活かした芸術である」などという使われ方をする。また、「余白の文芸」とよばれる俳句がある。能のように、「余白」は神秘的なものとして、ものいわぬことで観るものを呼び込む表現だともされる。こういわれると、誰しもこの深い意味あいを蔵していそうな「余白」に納得してしまうしかないだろう。しかし、もともと「余白」とは二次平面上に構成されたコンテンツのマージン=余白のことである。「余白」は二次平面という現実を捨象・抽象化したところで成立した平面空間に、描写表現されたコンテンツを構成する際のレイアウトデザインに関する用語である。(三次元空間であろうとそこに抽象化原理がはたらいたものならば、二次元空間と同じ指摘が妥当し得る)。このことばが使用されはじめたのはいつ頃だったのか分らない。そんなに昔ではないだろうが、たとえ時代によって英語とのニュアンスの差にいくぶんの開きがあったにしても、そのことばの持つ原理と、その意味領域においてはマージンも余白もそう違ったものではなかっただろう。つまり、「余白」ということばは、ここでいう抽象化しないことで母語を活かすという言語ルールからは外れて、抽象化原理を前提とした言語精神の空間把握にナリスマシした視点からみているのであり、抽象概念の一種の「余白」には概念定義以上なにもないはずのところに、神秘的意味が附与されているのである。
この国の言語精神は言挙げせぬ国として、抽象原理によらず、宣長いう「もののあはれ」としての世界のひらき方をする。それを、美術評論家のみならず、制作者側までも「余白」に神秘的な意味を附与して、そのまま伝統的な日本の芸術作品を評価・制作作業をするときのキーワードにしてしまっている。これでは、先史時代の縄文の意味も和歌・俳諧の意味もそして多くの芸術作品の意味も探れず、未来の作品制作にも繋がっていかないだろう。母語言語精神の躍動がうみだしたひとつの結果にすぎないものを抽象原理によって観て、そこに神秘的な意味づけをしているのである。母語精神が抽象化された座標空間に反映された場合、そこに余白を招来してくるのは「たまきはる」あるいは「たまかぎる」という一種の「無限と限定」に関わる母語の独自思索のはたらきかた=その全球的指向性からみた場合に、当然予測できる結果のひとつであるが、(本論二、参照)その結果にすぎない「余白」へとことばの視座を移して論理思考をはじめた途端に、そこで、涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかけていかんとする母語精神は思考停止に陥ってしまう。「余白」ということば自体からはなんのチカラも聴きだすことはできない。「余白」は題目と化して物を死んだ空間に閉じ込めてしまうのだ。よく先史時代を「あのころの呪術世界は・・・」などといって済ませることが多いが、そういってわかったつもりになっている現代こそ、思考停止のまま、この場合余白にあらぬ神秘性をもたせて世界を解釈しようとする呪術世界に陥っているのである。そうした意味では物・事に聴き入ることで物を輝かせてこようとした=思索を続けてきた先史時代より、現代のほうがはるかに呪術度の高い世界であるといえよう。
もともと抽象化をしないという母語の言語精神は、余白を生み出そうとはしていないし、余白に語らせようともしない。反対に、世界は、奇異(くすしあやし)さにあふれた躍動する世界であり、ひしめく具体存在で成り立っており、主知を加えずにそのありかたをありのままに輝かそうとしているのである。そこになにもない空間などはじめから存在しないことを知っている。歌・俳句にしても、言に聴きいり、言挙げせずに、事にそって成る具体存在をひらいていこうとはしていても、余白を創り出そうとはしていない。「余白」とは、物を抽象空間に映しこんだ際に母語精神が必然してしまうひずみを、抽象化されたナリスマシ視点で固定してながめ、もはや思考停止した己の頭のなかのその空白状態を再帰的に視たことばにすぎないのである。母語による思索を深める際の障害にしかならない「無」や「空」などと同じ抽象観念用語のひとつなのである。捨象・抽象を成立させているプラットフォーム上へ母語言語精神が投影されるとき、そこに生じる美術的物理空間のひずみ率と、そこへと観点を移動してみえてくる世界のひずみ率とは等値である。(余白でいえば世界の余白率とでもいおうか)その関係式は、そのまま抽象概念を要素とする近代思考が形式論理を母語空間へ持ちきたしたときに生じるひずみと、そこから解釈された世界像のひずみとの関係にも妥当する。後述の、ダ・ビンチの絵画構成視点とルネッサンス思想を成立させている視座とが同一の言語精神原理の裏表の関係であるがごとくに、洋の東西を問わず、表現された当該美術空間形式と思想空間形式というものはいつ、どんな世界にあっても同一の言語精神のうらおもてとなっており、その後も両者の相関関係はパラレルに発展進行していく。
イスラム思想や東洋哲学に通暁していた井筒俊彦や、他の叡哲も教えているように、対象との一体感を大事にする東洋一般の思考にとっての、欧米的概念思考の本質というものは、物のいのちをころしたところでしか成立し得ない死の思想ともいうべきものである。まして言挙げせぬことで森羅万象をあるがまま、動的に受容していかんとする母語による言語精神にとって、対象と観察主体とを分けて捨象・抽象思考していく西欧的理(ことわり)思考のあり方は、物にそって言を深めていくべきわたくしたちの心性からみると、逆に、思考を停止してしまった考え方であるといえる。そんな欧米思考法で母語言語精神を封印し続けることなどできるはずがないのであるが、そもそも、これら両者の思索の方法の違いの確認なくしておこなわれているのが、この国の学問、芸術である。これらは、自然科学がそうであるように、中立客観を装いながらも、実はその拠ってたつプラットフォームは、当該社会のいだく功利であり、保守であり、幻想という楽観的合目的性に還元される類のものである。ここは、まず、有史から先史にわたる古代の論理を尋ねて、母語と、欧米言語による思考の違いを明確化し、それを自得し、梃子としたうえで、勘違いにもとづいたナリスマシ族には降板していただき、外に向かってはナリスマシの半端な視点からではなく、冷徹に未来を見通す独自の徹底した戦略的思考で臨まなければならい・・・
*「お知らせ」
いままで「物」と「言」との両局にわたり、哥座は列島地軸の検出作業を続けてきた。その途上で「物」「言」が現成する際の核心となる或るはたらきを特定することに成功した。哥座バーション三、〇一で、そのはたらきのすべてを晃かとしている。ただし、オンラインではこれを発表せず、代わりにオフラインでテキスト化し、それをこゑなど具体的なパフォーマンスとして論議や講義に活かしていく。これにはさまざまな理由があるが、今後しばらく哥座の活動は口伝によるオフラインが柱となる。 ご質問等は哥座美学研究所へMAIL 二0一二年十二月十一日現在・・・・
「最後の審判 修復作業風景」
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 Leonardo da Vinci
現実の抽象空間である一点透視画法の代表例。 撮影 有
ところで、絵画とはタブロー(以下、タブローを広義の意味合いで支持体として使用)を前提として成立している。古代土器であろうが、アルタミラの洞窟壁や大伽藍の天上や壁であろうが、近代のキャンパス地であろうがタブローはそこへ表現を受け止めるメディアとして、現実を抽象した観念のゼロ場として機能する。三次元の立体を二次平面へと抽象し、つまり現実を捨象して基体としての二次元へ落としたタブロー上で、さらに抽象化された空間形式である、画面外に一点に収束する視点をもたせたパースペクティブな図法でもって、共同幻想や個人の観念イメージを映しとったものを、特にルネッサンス期の抽象化された空間形式図法で構成化し描写されたものを一般に、わたくしたちは西欧絵画とよんできた。この描写表現の原理プロセスは、時代の進展と軌を一にして西欧言語の表現法とは常にパラレルな関係で発展してきた。西欧言語では、日常経験をふるいにかけて普遍的意味だけを抽出し、そこで得た抽象概念をさらに最上位の抽象化されたゼロポイントの極点=神に保証され、もはや神と同等になった視点のもと(いや、ダ・ヴィンチのこの視点はすでに神から奪い取った視点であったが)
やはり現実を抽象した観念のゼロ場上で抽象概念を構築・論理づけていく。
一方、抽象的視点と観念の場を設定しないことで世界をありのままに輝かせようという言挙げせぬ国において、普段そんな自覚もなく、わたくしたちは翻訳抽象概念による欧風論理思考もまたじぶんたちで可能であると信じ込んでいる。だが、遠い極東の異国のかってなおもいとは異なり、西欧言語には数式に準じた、あるいは確固とした遠近透視図法に代表されるような神に成り代わった抽象的ゼロポイントの視点と、抽象化されたプラットフォームとがペアになり、そのシステム自体は先験的な存在として不可知とされ、そこを場として徹底した抽象論理思考がはたらいているのだ。そしてそんな欧米の抽象思考は、その一つの現象である美術界において古典的なパースペクティブ視点が廃棄された後、多様な展開をしながらもその作業が拠っているプラットフォーム自体は常に同じものである。キュビスムとかフォーヴィスム、ダダイズム、シュルレアリスム等の近代芸術思潮はここでは割愛するが、その後の物を対象とした物質(オブジェクト)芸術や概念芸術(コンセプチュアルアート)においては、その命名自体が直に彼らの歴史的抽象思考の本質を示していよう。ひところのインスタレーション、パフォーマンスにおいても抽象化された時間のベクトルが加えられただけであり、さらにイメージを拒否した反芸術運動でさえ、その主張を成立させている抽象化による場の原理は古典絵画時代とすこしも変わっていないのである。今日のIT化で、ポップアートや日本のアニメを巻き込んでの汎世界的な流行をみせているメディアアートやコンテンツ芸術においても事情は同じである。
余談になるが、エッフェル塔や洋上の島を梱包し、パッケージアーティストとして知られるクリストがいる。画学生のころ旧社会主義国家であったハンガリーでライオン街の制作に動員された経験をもつ前衛アーティストだ。アリゾナと筑波間でのアンブレラプロジェクトなどを通じ、日本でもよく知られている存在だ。その後、ピラミッドを梱包しようとしてエジプト政府に申請をだしたら、ラーの魂を封じ込めるなどとんでもないと、にべもなく却下された話が、ジブンのところに伝わってきた。ジブンもナバホと伊豆間の同時石積みワークや中東砂漠でのワークなど、彼と相前後した時期に同じような作業経験をもつが、不思議に同時代の作業は言語文化圏が異なっていても、発想自体は似てくるものである。そこに感心する一方、その方法論の差にはいつも驚かされる。こちらは抽象的観点を排したところで、物にそって物を付け合いすることで場を開いていこうとしているのであるが、彼クリストの場合はやはり初めにコンセプトありきなのである。パッケージならば、その規模の大小は関係なく概念から演繹していくその論理構成の良し悪しがアートとしての成否を決定づけていくのである。フィールドワークにおけるリチャードロングなどの作品も一見日本庭園風のアレンジに似ているが、やはり抽象思考のもとに構成されて成っているものである。そこにおける視点は対象をタブローから自然へ変えただけのものであり、当然のことながら、欧米の伝統的抽象視点を排して、全体的な視座へ転換しようとする志向性は微塵も持ち合わせていない。
それに対して東洋絵画の特徴は、西欧絵画のパースペクティブな一元視点から構成されたものとは異なり、多次元視点を同一画面に共存させる構成にあると一般的に言われている。その例によくひかれるのが中国に発する山水画である。西欧画の一元的な視覚重視の方法に対して、
一体化の観点から多元的視点を一元的にまとめず、それら多彩な視点をも同時に全体的な視点へと組み換えるいわゆる高遠、深遠、平遠の各視点を同一画面にまとめる三遠法と呼ばれる手法がそうだ。ここでは多角視点を動的に受け入れて全体性を受け入れていこうというはたらきがある。しかし山水はあくまで山水として世界の取捨抽象のプロセスを経て、現実を二次平面へと映し、観念を再構成してイメージ描写をした墨である。そこには、二次元化にともなって捨象されてしまった世界がある。
ところが波状口縁尖底器は、
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いままで「物」と「言」との両局にわたり、哥座は列島地軸の検出作業を続けてきた。その途上で「物」「言」が現成する際の核心となる或るはたらきを特定することに成功した。哥座バーション三、〇一で、そのはたらきのすべてを晃かとしている。ただし、オンラインではこれを発表せず、代わりにオフラインでテキスト化し、それをこゑなど具体的なパフォーマンスとして論議や講義に活かしていく。これにはさまざまな理由があるが、今後しばらく哥座の活動は口伝によるオフラインが柱となる。 ご質問等は哥座美学研究所へMAIL 二0一二年
また、役割というか、その意味するところのひとつには「連歌せず歌をも詠まぬその人のさこそ寝覚めの汚なかるらめ」と俗歌にあるように、和歌の玉掃わきに当たるはたらきがあったのではなかろうか。一方、言挙げせぬという抽象を嫌うことで世界を表現未然にとどめて、物(言)にそって物(言)そのものを開いていこうと意思する縄文の縄の目の自由奔放な関わり方は、ちょうど和歌や俳諧の定型のなかで達成される開放感にみちあふれた奔放さにも似ている。モノ派の流れを汲む自身の表現を排した現代美術の作業視点から観た場合、縄文と和歌・俳諧とにはたらいている法は、ここで取り上げた母語基本法の許に成っていることを強く感じる。そこで果たされた具足世界というものは今日の論理や想像力では追いつかない、奇異(くすしあやし)さにあふれ、時空の縛りからも解き放たれて、あるがままの物等がひしめき合ひ、相い照らし合う世界であったにちがいない。
結び
*「お知らせ」
いままで「物」と「言」との両局にわたり、哥座は列島地軸の検出作業を続けてきた。その途上で「物」「言」が現成する際の核心となる或るはたらきを特定することに成功した。哥座バーション三、〇一で、そのはたらきのすべてを晃かとしている。ただし、オンラインではこれを発表せず、代わりにオフラインでテキスト化し、それをこゑなど具体的なパフォーマンスとして論議や講義に活かしていく。これにはさまざまな理由があるが、今後しばらく哥座の活動は口伝によるオフラインが柱となる。 ご質問等は哥座美学研究所へMAIL 二0一二年十二月十一日現在。
時代をとわず、規範のもとにおける自由の問題は、どの言語文化圏にもあろう。しかし、その言語共同体全体が、一万年以上にも亘り、概念化自体をせぬという規範を自覚し、いまなほ心性の核に、その規範が強く存続しているという例は、極かぎられた少数民族の言語文化圏以外には自分の知っているかぎり皆無である。古代中国では、陰陽宇宙の絶対性による自由と規範の問題がある。その原理が抽象化されて文様になったものが殷周青銅器に施された鬼気迫る饕餮(トウテツ)文である。そこから読み取れる自由と規範とは、すべてが天命という抽象原理が支配しているという冷酷無比なメッセージであろう。これに対して西欧では、美の世界と交換に、ダ・ヴィンチが神から奪い取り抽象化したゼロポイントの構成視点、すなわちルネッサンスという人間解放運動がもたらした描写表現における自由の問題がある。彼らがこの自由と引き換えにしたものこそが、モナリザのあの微笑みの意味する凄惨で底知れないニヒリズム世界である。
そのニヒリズムの超克を目指したニーチェは、ガリア船の奴隷に自由の問題を投影してくる。が、その自由とは、-言挙げせぬ-という規範から生まれる自由、ありとしあるものを無分別に受容し、そこから生起する全体的視座が与えてくれる動的ダイナミックさに与るという完璧な自由には、ほど遠いものがある。主客軸を仮構し、そこで概念論理を構成する世界の彼らが規範のもとでは、ニヒリズムからの脱却をはかりていくら漕ぎつづけようとも、言挙げせぬことでその完璧さを保証された自由の岸辺には、決して到達でき得ない。ヨーロッパというガリア船の奴隷には常に善悪の彼岸のそのまた彼岸にある自由なのである。
了 二千十年十月三日 荻窪
後書き
無文字時代精神に論拠をもつ、この三つの法の完全な解明とその自覚は、フィジカとメタフィジカに、とんでもない革命をもたらすものと予想される。なんとなれば、抽象原理による普遍世界が将来にわたる唯一の世界であると思われていたところ、そのただなかで、その根本において抽象原理を排除して成立し得ているもうひとつのフィジカとメタフィジカともいうべき「物」と「言」を両輪とした「事」世界がこの二十一世紀、現実に存在していたからである。それも、国文学など旧来学問の方法からではなく、今日の日本美術界の大きな動向である現代美術の、造型概念を排したアプローチから、その一万余年にわたる「事」世界の存在が確認できるからである。
「オブジェクト」としてある存在物の在り方とはまったく異なった、「物」としての存在の在り方。そこでは活きて成る世界があり、菅木志雄の作品のように、意図して成った「事」世界というものもまた、あり得て、それがひろく東西世界の芸術シーンでもひろく認知し得るという事実は、当該時代における芸術の視点は、同時代の思想、科学の視点、論理とその拠り処を同じくしたものであり、同一言語精神の同一の原理のうら・おもての関係にあるということを想い起こせば、「物」・「事」世界には、欧米の思想、哲学、科学にあたる、まったく別の独自思想、科学がまた存在し、それを芸術と同様、具体的なカタチに顕現させ世界へ定着させ得るという推論を保証するものである。
長谷川 有
YU HASEGAWA
2010.06.14
修正更新 2010.08.05
修正更新 2010.09.17
修正更新 2010.10.01
*「お知らせ」
いままで「物」と「言」との両局にわたり、哥座は列島地軸の検出作業を続けてきた。その途上で「物」「言」が現成する際の核心となる或るはたらきを特定することに成功した。哥座バーション三、〇一で、そのはたらきのすべてを晃かとしている。ただし、オンラインではこれを発表せず、代わりにオフラインでテキスト化し、それをこゑなど具体的なパフォーマンスとして論議や講義に活かしていく。これにはさまざまな理由があるが、今後しばらく哥座の活動は口伝によるオフラインが柱となる。 ご質問等は哥座美学研究所へMAIL 二0一二年十二月十一日現在
参照論文/賀茂真淵
冠辞考 「多麻(タマ)は魂(タマ)なり。岐波流(キハル)は極(キハマル)にて人の生まれしよりながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかけていう語なり」
/ 本居宣長研究ノートとブログ 海彦氏・白兎氏 / 「古層日本語の融合構造」木村紀子氏 / 易経・繋辞上伝
「哥座(うたくら)」は、いったん文化装置の全てに強制終了をかけ、次に、先史無文字文化の視点を再起動!。その地平から、日本美の謎の構造解明に挑む。
ここで開かれるはずの美の原風景のからの展望は、日本芸術史上至高の傑作、光琳の「燕子花図屏風」と「紅白梅図屏風」の秘密を晃かにしよう。その両絵に特異な金色と銀色の使用による一種の壮絶さは、イメージを寄せ付けないところに起因しており、ちょうど俳諧における切れ字という装置に対応したものである。同時に、光琳とほとんど同時代を駆け抜けた芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の句、その字余り「で」というたった一字の切れ字がわたしたちの未来へ残したところの重大なメッセージをも解明してくれるはづだ。さらにあわせて、等伯の「松林図屏風」の解明もおこなう。