歌座(うたくら)本論「空間と時間」- 言挙げせぬ国のフィジカとメタフィジカ 
     
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 言挙げせぬ国のフィジカとメタフィジカ 


   - わたくしたちの空間と時間について -
           
          


  -  西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四ィ時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(カタチ)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
                                              芭蕉 - 笈の小文

 ふだんその差は見えにくく、また格別に意識はしていないけれど、これほどまでに翻訳が一般化し、またIT化で国際間の緻密なコミュニケーションが常時はかられるようになった現代にあって、こんな国際化時代だからこそなのか「私たちのものの受け止め方やものの表現の仕方は印欧中に代表される大陸のそれとはどうも根本的に違っているのではないか。」最近、こうした国際化とは逆行した喰い違いの感覚やそれに伴う素朴な疑問の声を聞く機会が多くなってきた。それは芸術作品の制作だけでなく、とくに国際間で物をつくり提示していく必要からものを突き詰めて製作していく産業方面での「ものづくり」の現場からもこの種の違和感の声が上がるようになってきている。一般的に、ものの受容と表現にまつわる感覚や考え方の相違は民族の歴史や地域、気候風土そして、そこから来る生活習慣や生産手段などの環境の差から来ているのであって、それは世界の生活のレベルが縮小していくに連れ、いづれその差も解消していくと思われてきた。また、主語が省略されている日本語は、言語構成法も大陸言語とは逆であるが、これら文法上の違いによる差異感も、AIや翻訳技術の向上により近い将来霧散解消するだろうとまで云われてきた。さらにそもそも文字も持たず、みずから抽象概念を生み出さすことのなかった日本語は、高度文明から切り離された未発達の言語である。故に・・・。と事大主義的な言語進化の観点から劣等言語として世界の受容と表現の差異感が説明されてもきた。

 これらの一般説は、言語の役割や目的は、地域がちがってもそれは歴史段階の相違に還元できる差であり、あるいは文化的な属性の違いであり、どの言語も本質的には終局同じ目的をもつものであり、生活や生産手段に欠かせないコミュニケーションツールであるとする。つまり言語を対象化して歴史発展段階で観ていこうとする近代言語史観というべきものからきた説である。

 しかし哥座バーションXの本論で明らかにするように、この喰い違い感の原因をあきらかにしていくにはたんに唯物史観的環境変化指標を見るだけでではなく、両者の言語と物理が基づいている言語プラットフォームにまで下る必要があるのだ。その底を整理検証していくと、両者言語が基づいている位相空間はまるで正反対のしかも表裏の関係になっていることがわかってきた。いまではその証明につながる例もつぎつぎと発掘されてきている。両者言語空間間に存在する純粋に構造的なこの違いは、両者間には翻訳などでは架け渡すことのできない底知れずの深淵が存在し、この相違はとても環境論や文法論から説明し切れるものではないこともわかってきたのである。

 哥座は、「ものの見方の差異というものは、各言語が拠って立つプラットフォームの差異へと還元できる。」という命題をいったん作業仮説として立てて、列島言語の「言」においては、万葉から八代集、源氏そして連歌・俳諧までを、またそれらについてのいまに伝わる秘伝抄の成果をも合わせて継承させていただき、列島言語が拠って立ってきた独自のプラットフォームの構造確定作業をすすめていた。その上で大陸系の言語プラットフォームの構造と比較検討してみた。同時に「物」においては、先史縄文から現代美術作品までの流れを個々別々に、具体的にみて「物」が生成される際のこの列島と大陸の時空間における座標系の違いや、さらに表現の際の両者が根ざしているプラットフォームからくる論理の違いを検証し、その差異を歴史的によく知られた、主に芸術作品などの具体例と照合する作業を行ってきた。ことに「物」においてはみづから右イメージの「手爾葉シリーズ」にみられる客体と主体との係わり合いに的を絞った「物」と「身体」とによる思考実験から実作レベルまでそのときその場と対話しながらの各種作業を実践してきた。その地は足もとのこの列島はもとより英国ヨークシャーそしてイタリアナポリ、シチリアのエトナまたエーゲ海上に浮かぶナクサス、サントリー二、また中近東の砂漠でアメリカ大陸ナバホ居留区、そのほかマレーや中国東北部、朝鮮半島にまで及ぶ。N.Yの国際貿易センタービルでの作業はあの9.11の十一年前のことになる。その際「身」と「物」とが一体化するプロセスから「こゑにならない声」を拾い出し、そのはたらき方を唯一の手掛かりに「古言」や「各種論考」そして「縄文」、「現代美術」までの検証にあたってきたのが現在の「哥座」である。

 そこで発見できたもの。それはあまりに多く、いまだオンライン化し切れていない。

*オフラインテキストの詳細につきましては「Aibit,Co., Ltd.  哥座」までメールでお問い合わせください 。


 戦前戦後の抽象美術、コンセプチュアルアートやインスタレーションやデジタルアート時代になっても基本的にはタブローへ再現描写することを本質とする西欧系美術。そこへ決別するかたちで「もの派」や「舞踏」の作品は登場し、自覚的に列島の言語精神にもとづいたところから作品をものにしてきた。しかしそれら物作品は逸脱した美術、未生の美術と呼ばれ、歌俳と同様に第二芸術扱いされてきたのである。そのあげくに「もの派」と蔑称で呼ばれてきた。この「もの派」の名が定着した歴史と「女手」とよばれ公文書体としての真仮名と差別されていた平仮名の呼称とその定着の歴史とは約千年という時を隔てながらも軌を一にしているのである。近年、京都藤原良相宅で発掘された高杯脚部に書かれた平仮名文字による歌の文字塚ともいうべき出土状況は、その後の紀貫之にいたる平仮名文字書体の厳しい開発状況とその定着状況とを示唆して余りある。現代言語学のアプローチを許さない「言葉のモノ化としての古筆平仮名の確立」とその成果のうえに成立した「平仮名漢字混じり文」という独自函数化された文字体系の完成とは、縄文一万年そして連歌連句と現代美術作品を一貫する当「哥座」の立ち位置にひとたび立つことさえできれば、これが単なる漢字という表象文字を崩して成った女手といわれる文字なのではなく、それはきっかけのひとつではあっても、イメージと論理を完全否定することからはじめて産み出された世界の文字体系からは逸脱した従来文字とはまったく相を異にする「古言がモノ化した」未発見の文字であり、しかもこれをロゼッタストーンにすることで列島のはるか先史の「古言」の全解明さえ可能であることが自然に理解されてくるはずである。

 もの派系統の自身の美術制作においては、言語空間の位相の違いというものも、その最深淵のところでは両言語系間を微かに通底したはたらきの様があるように感じられてくる。つまりそのはたらき様は、唯一、普遍妥当性をもつとおもわれている大陸系を源とする一般物理世界以外にもこの列島言語精神のように表現しない表現とか、対象化から外れた「物」の存在とか、相を違えながらいまも強い効力を発揮しつづけているもうひとつ別の芸術・物理系世界がそれぞれに共有されながら存在し、両者間を通底しながらクロスオーバーしつつ地下水脈として、いまも滔々と流れ続けている可能性を示唆しているのである。しかし、大陸系のバーチャル言語世界においてはいうに及ばず、それを移入した列島の現代世界においても、いつのまにか忘れ去られ封印されてしまっていた世界である。

 この列島の第一詩人、人麻呂は、この列島特有の地軸の存在に触れそのあり様を「言挙げせぬ」ところではたらくもののあり方として、高い誇りをもって詠いあげている。それにもかかわらずその後、この独自地軸は、その存在自体や、ましてその積極的な意味性が正面からとりあげられることは少なく、むしろその存在こそが、わたくしたちの普遍的論理思考を阻害して科学的思考を育ててこなかった原因であると曲解されてきた。そのわけは、外因的な理由によるものというより、この地軸自体がもとより抱え込んでいる-対象存在となり得ず、可視化もできない-という内部構造の晦渋さに、誤解の大半の原因が潜んでいるからだと思われる。ここで詳細はしないが、「物」と「言」との両局面においてその感慨をうみだしてくる列島言語のその構造のたくみさには、ある不気味ささえ付き纏ってくるときがある。それは芥川が「歯車」で暗示する漠然とした不安に重なる。その出所は、ありとあらゆる現象のそこに附帯する表象や観念や理(ことわり)からなるコンテンツをスケルトンな構造体へ変換してしまふというこの列島地軸特有の「無化」のはたらきに求められるだろう。そこにおいて、この特有の言語は、座標上に物事を再現仮構していく大陸系言語のはたらきとはまったく異なったはたらき方をしてくるのである。リルケいふ 

     Das sind die Stunden da ich mich finden ・・・.

 - そこでわたしが私と出会うそのとき - という対象化された客体と判断主体とが一致した主客融合の構造をもつ関係式言語表明がここでいう言語にちかい。しかし列島言語では”てにをは”という「辞」のたった一音一字で、誰にも詩人リルケなみのいや、それ以上の完璧な主客融合の構造化を果たした言語を使いこなすことができる。)以上のことを勘案すると、大陸座標系言語には妥当する「貨幣交換システムと言語の流通システムとの比較類推とか、一般心理学や社会学等の科学的方法を応用した分析、そして唯物的、観念的観点や前衛表現美学からの西欧言語学からのもろもろのアプローチ」を列島言語に適用することはみな的はづれであることが分かってくるはずだ。貨幣の流通自体もそうだが、象徴交換や類推が妥当するのは抽象座標上での仮想演算にすぎない。それらはみなそれをリアルへ適用したとき仮想に立脚したゆえの本質的な弱点を抱えることになる。ただしこの辺りはオンラインではなく哥座バージョン3.03以降のオフライン講座でより詳細な話をすることとなる。「知覚」や「思考」においても「制作」においても大陸系のバーチャル再現言語とはまったく異なったはたらきかたをする列島独自というものをわたくしたちは普段の暮らしのなかでは自由に使いこなしている。いったん意識されてはじめてこの言語の内部構造の特異さに気付くことになる。しかし、現象を対象化して普遍化した真理をもとめていくしかない従来学問では、つまり明治以前は儒学から、明治以降は欧米思想概念を規範とし、それを解釈コードにしてきた近代日本のアカデミズムでは、その理論上で乗り越えることができない壁がでてきてしまう。闘おうにも主語さえみあたらないこの壁に、現代の思想家による列島言語解明のすべての試みはいまもって撥ね返され続けているのが現実だ。一方に列島地軸のはたらきから生みだされ身辺を照らし出すことでありのままの存在世界との照合をはかろうとしてくる列島言語。他方に大陸系座標のはたらきからうみだされ外部世界の再現性を本質とするバーチャル仮想言語。その両者の違いを「物」と「言」両面にわたる矛盾のない視座から見すえて定着させていくこの作業は、両言語系の描いてきた従来世界観の見直しをせまり、同時に「物」と「言」への最深部へ投じるこの一石が、的さえ違えなければ先史から現代そして未来へとつながる「物」の連鎖としてのあらたな波紋を生みだしてくれるはずである。

 いまでは、E=mc2へと還元され得るに至った、森羅万象を四個の座標の幾何学に煎じつめる物理世界においては、わたくしたちも概念上、そこにカウントされそれを利用もしている。しかし別項で触れ、また「哥座バージョンV.」で詳細するように、実際は、その場にこの列島の住人は実存の根拠をおいて来なかったし、これからも真に身を置くことはないだろう。一方「言葉は存在の住処である」とするハイデッガー。その哲学的言表からみて取れる世界はロゴスという抽象座標系に成立したところの西欧思弁哲学の延長に位置づけされる伝統的世界観である。そして近代自然科学や社会科学世界さえも、汎普遍的とされながら、その基底ではクラシックギリシャ以来のそれら観念哲学、造形芸術の進捗とパラレルに現象してきたもののひとつであり、進化しつづけているようでありながら、その観点は古代ギリシャのコスモス座標上から一歩も外へでるものではないのである。物をプロット構成して繰り返し世界を再現してきた大陸系の世界系列。それらが根拠にしてきた座標系世界の一方には、わたくしたちがいまも住み、根をもっている物の世界(別載)がある。その両者はあきらかに系統がちがう世界である。それはやはりパラレルな関係をもつ欧米芸術二千年の潮流を分析していくことで容易にあきらかにでき得る事柄である。戦後批評でよく使われてきた概念に「あたらしい神話としての悪しき再生産」という概念がある。それは社会思想から言語・心理学、芸術ジャンルにまで実証主義的批評に欠かせない概念としては多様な意味を持たせられて、とくに明治以降のこの国の文化思潮を分析する際に有効とされてきた。しかし、実は言語プラットフォームの底まで降りていって見た場合、古代ギリシャ以来の観念的抽象座標を継承してきた大陸系のバーチャル(仮象)世界には適用されても、この列島言語精神の「物の世界」にはまったく妥当しない概念であることが諒解されてくるはずである。

戦後もおわり、第三の核汚染の脅威にさらされるあらたな時代が到来し、もうそろそろいままで封殺していたこの系統の違いを正面切った主題として積極的なものいいをしてもよい時機なのではないか。

 その意味で、日本思想の問題点を、「自己不在。主体性の欠如。正統も異端もなく多様な外来思想をプロットする座標軸もなく、原理に対決する覚悟もないために、外来思想をただ空間的に雑居させるにすぎなかった。」という丸山眞男の指弾は、ながく戦後思想界を代表するものの見方であったが、それらは、もっぱらわたくしたち自身の地平に立った批評ではなく、西欧近代座標上から自身を俯瞰的に眺めた見方にすぎなかった。肝心かなめのわたくしたちに備わる独自の地軸の存在や、それが担う積極的な意味には気づかなかった。そのへんが、上空飛行型思考と揶揄される由縁であろう。一方、こうした近代主義者の作業に比べると、1959年の草間彌生の「水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網によって、自らも他者も、宇宙のすべてをオブリタレイト(消去)する」と宣言して、わたくしたちの独自座標を軸に存在論的問題を提起し続けた彼女のシリーズ作の方は、西欧造形芸術や近代主義を超え、この列島におけるはるかな深みからの革命的で正鵠を得た仕事を成してきたといえる。


*資料A 
先史縄文の一万余年にわたる「物」としての縄文土器にたいしても、現代美術の「物」にはたらいているはたらきが諒解できなければ、今後何世紀たったとしてもそれは原始的な呪術世界の制作原理でつくられたものだとか、四次元や五次元の作品だとかいうレッテルを貼って思考停止したままになるだろう。それは勘違いもはなはだしいのだ。呪術世界の名は縄文ではなく現代にこそふさわしい。出土品をみる限り、先史は、表象や理に惑わされずいまよりよほど覚醒していた時代である。
そのことは実は作家自体はよく自覚している。それはかれら作家たちの作品表題がよく物語っている。関根伸夫の《位相》、李禹煥の《関係項》、菅木志雄の《無限状況》《潜態の場化》《界差》《全体のかたむきT・U》《並列層》《事位》《分界支空》・・・等々。

 このあたり、列島独自の形相言語の特性をよく顕わしている菅作品について語った東京国立近代美術館チーフ・キュレーター本江邦夫氏の「Plaza Gallery 企画展によせて1992年」の短文資料が手元にあったので、左に引用紹介させていただいた。「今日にいたるまで、いったいだれがこのとらえがたい作家について十分に論じえたであろうか。自己完結した存在。いわば鉾と楯をもった戦士に、彼は似ている。作品をつくり、いかにも個性的なやり方で自らの言説を織りなしつつ、そのうちなる精神の王国を築いてやまない。作品そのものにはあれだけの空間の広がりがあり、視線はそこをつらぬいて虚空へと消えていくことすらあるのに、その核心はあたかも見えない壁に守られているかのようだ。あるいはこういってもいいかもしれない。菅木志雄の作品はなにもかもイデアルな全体の一部、もしくはその影に過ぎず、あるいはまた彼にとって制作するとは静まりかえった水面にふと風の吹く、その波紋、それともその風にさやぐ雑木林のゆらめきのようなものだと。やや気まぐれな言い方がゆるされるなら、菅木志雄そのひとが、ひとつの半透明な空気、ないし心的なエネルギーの塊で、作品とは刻々と変化してやまないその局面のひとつにすぎないともいえるだろう。菅木志雄 - 跳躍について 1992.11.7 」 本江邦夫氏

 描写表現という意味では、この函数はそれ自体ではなにもあらわさず、表象もイメージ化も喚起しない。中古、中世にかけての学者たちが「言」に於いて詞を函(つつ)む”てにをは”がそれ自体は意味を保持せず、詞と次元を異にしたものであると解釈してきたのと同じ意味であり、その排列のとじ目ごとを函数であるとするならば、もの派の作品もまた、その作品に相対したとき、物体という仮象を函(つつ)む形相言語としての「物」の函数排列となっていることを確認できるのである。
 一連のこの「言」と「物」の函数式をおそろしく単純化してプログラミング言語概念に置き換えていうならばその構造を記述したソースがエラーなく「コンパイルされて主客未分化としての「物」そのものに読み取られたとき、そこではじめてわたくしたちのことばも「言」として具体的に受け止め得て身体化できたものとなる」といえる。しかしこの事態は常にアンビバレントな見え方をしてくる。物質として見えると同時に物として不可視であるという言い方が可能である。それはこの函数構造をもつ一連の排列がインド・アーリア語族や中国といった大陸系論理思考の時空間座標の造型視点に映り込まないという、機能的な意味における見えない構造をしている。ここでいう「スケルトン」な透明構造体である。対象存在としての物質を揚棄して「物」と成り、そこを縁起として無窮の「物」の連鎖が始まりだし、逆にその涯から”見ゆ”という仕方で見えてくる「物」であるからだ。


 哥座は、箱物としての概念の住処に安住せず、ことばを翼に、概念とその内包する意味という構造を越えて、たまきはる内なるおもひを天翔け、見ることや概念演算による思考形態に代わり得るわたくしたちの「見ゆ」というあり方、「おもひ」のありかたの独自幾何を深めゆきたい。二0一一年五月七日深夜


「お知らせ」

 いままで「物」と「言」との両局面にわたり、哥座は列島地軸の検出作業を続けてきたが予想より早く「物・言」が現成する際の構造の核心部を晃かとすることができた。これまで「物」と「言」両面にわたる統一理論の欠如というものが、列島の明治以降に限ってみても産官学のナリスマシ族の跋扈を許す一因となってきたのはあきらかだ。たとえば自然科学にたいする列島の独自批判原理の欠如した科学者には原子力という高密度の「物」のエネルギーのコントロールは現実的に無理である。社会科学や遺伝子工学など先端医学の各分野においてもしかり。複合化した巨大技術の現実は国際政治や経済と複雑に絡み合っており、それに対応できる「物」と「言」とに通じる批判原理がなければ自然・社会諸科学のこれら巨大テクノロジーはめいめいが専門領域で独走をはじめるだろう。それを見透かしたかのように分割統治を得意とする一部権力者たちは本来社会資本であるべきものを民意を無視して巨大利権を貪るための欲望装置と化してしまうはづだ。事実、原子力関連の各科学者と技術者はみづから関わったプロジェクトにおいて、それがどれほどひどい結果をもたらしたとしても、それはほかのジャンルの問題であり、あるいは悪用されたものである。だからしてそこには自身はいっさい関係が無く、みづからの立場は聖域であるといい抜けしてきた。311はその行き着いたさきの悲劇のひとつを象徴している。

 他国の言語精神がうみだす概念、論理を普遍的な規範だと称して、それを主たる解釈コードに自国の文化を解釈してきたのが日本学問である。それははじめから自らの論理をもたない欠陥品であった。儒学・天竺学からは儒学神道にはじまる各種政治理論がうみだされ、また明治以降は欧米アカデミズムに準拠した日本アカデミズムというまがい物が大量の秘儀的学術用語とともに生産されてきた。日本のソフィストともいうべき彼等は、あらゆるジャンルでみずから伸びようとする芽まで摘んでしまい、時代をミスリードしてきた。それは所詮国家統治ツールとして輸入されてきた学問の植民地国家根性まるだしの出自がもっていた卑しさからである。

 いまも現代美術批評や国文学論文においてさへ、万葉集や古事記そして現代美術作品までもを、現代思想概念を解釈コードにしたテキストとして読み出し、そこに「反復され再生される悪しき日本」を見てとる傾向が強い。しかし、こうした秘儀的学術の解釈学に陥って自縄自縛に陥っているのは、万葉集や古事記や現代美術作品そのものに起因したものではない。言語位相がまったく異なるにもかかわらず、その大陸系言語概念を規範にしようとするアカデミズム自身の無自覚で牽強付会な傲慢さに問題がある。自らがまさしく反復され再生される仮象としての自己に他ならないのである。すなわちいまの時代になってさえ現代儒学である立場を脱っしきれない日本のアカデミズムは旧来儒学よりもはるかに保守的て罪深いといへる。それこそがまさしく宣長が学問のはじめにあたって排除しようとした漢意といわれるものの正体なのである・・・。欧米思想概念を解釈コードに秘儀教説を解釈学的に学術用語とし導きだす傾向は、つまり洋意はITというVRを本質とする観念知のツールを援用しながら依然にも増して強固になっているのが現状である。

 じっさい、列島の真・美の判定の基準は先史縄文から現代美術までどこをとってみても、従来日本アカデミズムの美学者がいってきたような大陸系の造形美や論理構成美に求められるものではない。それは、歌・俳の事態とて同じでことであるが・・・(このあたりはバーション三、〇三以降のオフラインであらためて詳細する。)

 列島の「物」と「言」と「身体」言語は人称を明確にする表現言語ではなく非人称性を特徴とする中間言語になっているのである。そこに与してはじめて現実態としてのことばに成りうるという意味においては、理解のために一種の形相(エイドス)言語と置き換えてみてもいい。座標を前提とする再現言語が主観に帰属しながらひたすらその論理・表象を投影するスクリーン上の再現描写の正確性にその本質をもっていることとは対照的に、列島言語はちょうど「花の窟(いわや)の掛け縄」のように「言のふり」「物のふり」として具体的で純一な排列を形成する。その排列の本末が抑揚ととじ目を備えて合い適へたとき、それが縁起となって外部、すなわちここでは熊野の山と補陀落の海とを融通する美と真の主客体の融合としての出来事が生起して、それが「物」の氾濫として、無窮の涯まで継起連鎖していくのである。智の限界を無窮の涯とするならば「物」の氾濫がちょうどまさしくその岸辺で打ち返す波のようにその涯まで届いて折り返し、あらたに生まれ出る「物」と相い照し合ってモーラを形成する。それはデザインされた文様とは無関係な「物」の干渉縞である。それが縄文の祭器のあの「物」の氾濫が織りなす干渉縞なのであり、また、桃山期のその本義は仏教庭園ではなくまさに縄文庭園そのものである「枯山水」の岩と岩の間の「物」のモーラなのである(オフラインで詳細)。こうしたことは一回性で純一な智の緒(パス)が通ることで生まれだす。そこで視座が転換して、内と外とが融通し真・美の出来事と成る。もし視座が転換しない場合、「物」の氾濫は生じてこない。よくても太山寺で紹介した芭蕉句碑の一字違いの句のように、描写としてのただごと、きれいごとに終わってしまう。その在り様は列島の「言」・「物」・「身」においてまったく同じである。土方巽や大野の現代舞踏や菅木志雄の作品におけるとき(時)というものを追体験した上で、大陸系にルーツをもつ他の描写作品と比較してみるといい。描写された作品は座標上のただごとかそこに限定された物語になっているはずである。その外へと、とき(時)は流れ出さず、広がりもそこにとどまったきり、周縁へ拡がり出していかない。


 こうしたところを仔細に検証していくと列島の真美の規範は印中欧の美の基準とはまるで異なったものであることがわかってくる。そこでだれもが知るインドアーリア語族の大陸美の一例としてダ・ヴィンチの作品をあげてみよう。わたしたちの常識に反し、列島の真と美の基準から見た場合、シンメトリーに代表される欧米の構成主義美学の本質は造形的抽象座標という観念のフィルターを通して観た世界の死体解剖図になっている。座標上に再現されたものは、いかなるものも、もうものそのものではありえない。そこでもののいのちは奪われ、ものの直の輝きは失せてしまっている。その意味で天才ダ・ヴィンチの人体の美しさというものは解剖台に載せた死体に化粧をほどこした美しさなのである。ルネッサンスの正体は中世神学から開放された人間賛歌ではない。彼らを暗黒の中世から救済してくれているもの。それは、やはり表象や原理という観念であり神学から科学主義に名をかえたあらたなる暗黒の空虚であったのだ。そのためあらゆる表現が観念的合目的性への来迎図と堕してしまっているのである。ダマサレテハナラナイ!彼ら西欧は有史以来、メメントモリと唱えながらたえず死臭を嗅いでいないと現在の生さえ自覚、覚醒ができないひどいニヒリズムのドツボに浸かっているのだ。古代ギリシャの観念的コスモス座標を継承して以来、そんな宿命を背負ってしまったいびつ文化が西欧である。

 ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂修道院の「最後の晩餐」の透視図法を見よ。中央のイエスが神として復活し再現描写されているのは再現性に芸術・科学の本質をおいた彼らの精神座標系にとって必然の出来事である。時空座標の収束するゼロ点に復活したイエスの再現された世界における罪と赦しの心理操作の恐怖はここで美と自由と人間開放と言い換えられ、それを神が保障するというかたちでヨーロッパの人間主義は起こった。また、近代に入ってからその美と科学の価値を規範として輸入し移植してきたのが近代日本である。いまこそダ・ヴィンチのもうひとつの傑作あの「モナリザ」の微笑みは列島言語精神とは対称的な再現された死のシンボルであり、そこに底なしのニヒリズムが隠されて在るということに気がつかなくてはならない。わたくしたち列島言語精神は「物」「言」を主客分離未然の場において、あるがままに輝かせることができる。大陸系の主要言語には見当たらないはたらきかたをする。外部を説明したり、概念規定をしたり、象徴せず、描写しないことをてにをはといふ「辞」のはたらきに添ひながら自覚的に深化させることでそれが可能となってくる。一見単純で幼稚に見えるこの列島言語の構造とその逆関節技めいたその不可思議なはたらき方については、人麻呂以来、すぐれた賢人がいくどとなく指摘してきたことではある。

                     
                  「最後の晩餐 修復の景」 撮影:哥座

 いったん哥座は列島言語精神のすべての秘密をバーション三、〇三に隈なく反映させることに成功した。しかし、すべてをオモテへ顕わにすると「物・言」に聴き入る愉しみが無くなるばかりか「物」の輝きが失せてしまう。*)そこで、旧バージョンへと差し戻した。ただし、オフラインでは新バージョンの一部をテキスト化し、それをこゑや物の具体的なパフォーマンスとして作品やライブ討議へ活かしていく。
                   質問等は哥座美学研究所へMAIL      二0一二年十二月十一日現在

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 - ( 旧原稿 以下未整理・正式「哥座原稿はウインドーズエキスプローラによる縦書き www.utakura.com です。この横表記サイトは正式なものでないことをお断りしておきます。マックやサファリ、スマフォやグーグールクロームが縦書きに対応していない事情から参考までにラフに横書き表記で制作したものです。) 

  ふだんは見えず、また格別に意識もしていないけれども 先史よりわたくしたちには「不理・非象・無辺・無窮」というこの列島の言語精神に深くかかわり、全ての活動が拠りどころとしてきた独自座標軸が備わっている。暫定的な命名とはなったが、この否定の相をもつ座標上では、捨象・抽象を排し、具体的な「物」を「物」へと添わせていく力学がはたらく -
  いまでは、E=mc2へと還元され得るに至った、森羅万象を四個の座標の幾何学に煎じつめる物理世界においては、わたくしたちも概念上、そこにカウントされそれを利用もしている。しかし別項で触れたように、実際は、その場にこの列島の住人は実存の根拠をおいて来なかったし、これからも真に身を置くことはないだろう。
  一方「言葉は存在の住処である」とするハイデッガー。その言表にみて取れるのはロゴスという抽象座標系に成立したところの伝統的西欧思弁哲学の延長に位置づけされる世界観である。クラシックギリシャ以来それら観念哲学、造形芸術の進捗とパラレルに現象してきた近代自然科学や社会科学世界、それらが根ざしてきた座標系列と、わたくしたちがいまも住み、根をもっている世界(別載)とはあきらかに系統がちがう世界である。
 戦後もおわり、第三の核汚染の脅威にさらされるあらたな時代が到来し、もうそろそろいままで封殺していたこの系統の違いを正面切った主題として積極的なものいいをしてもよい時機なのではないか 。
 いま、この基本軸にそって歴史的パラダイムシフトが起きかけている。それは単に、科学・政治・経済上のことだけではない。近代の基準にしてきた大陸の普遍的思想から、わたくしたちの内なるものの見方や感じ方への枠組みそのものの見直しである。

  そこで「物」や「言」との古くてあたらしい関係が結び直されようとしている。これまで漢字文化を受容して以来、直訳大陸文化から仮名、真名併用という現代文字文化につながった「言」をめぐる文字文化変遷が第一回目の直訳大陸文化からの内的パラダイムシフトであったとすれば、今次二回目は現代美術や舞踏といったごくありふれた日常の創作現場からはじまった「物」をめぐるパラダイムシフトである。それは、欧米抽象思考による物質化された対象物と、わたくしたちの「物」への感受性とのハザマで美術家や舞踏家の不連続感が臨界を迎へたことによる。
  今回の「物」をめぐり列島独自の時空間の枠組みに直に触れようとするこのムーブメントは、近代主義の超克といったレベルにとどまらず、311を機に、従来思考の基底からの問い直しも含め、遥か無文字時代の心性の核にまでシフトし得る可能性がある。

 ところで日本思想の問題点を、「自己不在。主体性の欠如。正統も異端もなく多様な外来思想をプロットする座標軸もなく、原理に対決する覚悟もないために、外来思想をただ空間的に雑居させるにすぎなかった。」という丸山眞男の指弾は、ながく戦後思想界を代表するものの見方であったが、それらは、もっぱらわたくしたち自身の地平に立った批評ではなく、西欧近代座標上から自身を俯瞰的に眺めた見方にすぎなかった。肝心かなめのわたくしたちに備わる独自の地軸の存在や、それが担う積極的な意味には気づかなかった。そのへんが、上空飛行型思考と揶揄される由縁である。

  一方、こうした近代主義者の作業に比べると、1959年の草間彌生の「水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網によって、自らも他者も、宇宙のすべてをオブリタレイト(消去)する」と宣言して、わたくしたちの独自座標を軸に存在論的問題を提起し続けた彼女のシリーズ作品の方は、西欧造形芸術や近代主義を超え、この列島におけるはるかな深みからの革命的で正鵠を得た仕事を成してきたといえる。

 哥座は、箱物としての概念の住処に安住せず、ことばを翼に、概念とその内包する意味という構造を越えて、たまきはる内なるおもひを天翔け、見ることや概念演算による思考形態に代わり得るわたくしたちの「見ゆ」というあり方、「おもひ」のありかたの独自幾何を深めゆきたい。 

                   
     
   

    日本語によるあたらしい視座はいかにして可能か。
    高度情報化時代に「哥座(Uta!Kura)」の目指すところ



 ふだんからなじみ深い裏手の山や前浜の海など、身近の自然やジブンの身体は、すでに了解済みの「空間」のなかに、疑うこともなく自明に存在している。
  「哥座(うたくら)」では、「こと」「もの」が生成流転しているこの無意識空間を再検証し、未来への視座を見つけていきたい。その方法として先づ、わたくしたち固有の考え方、とりわけ、ことばに内在している固有のロゴスに触れていく。とくに詩歌の韻文に働くチカラを分析、検証していく。韻文空間の座標軸確定に際しては、わたくしたち固有の文体からの発現を待つ意味で、印・欧・中の概念使用はできるだけ控え、いまも普段に使用している古くからの「ことば」や古典の「ことば」自体が本来もっている意味や関係性を最大の手掛りにしていく。万葉集はじめ、多くの歌仙の哥、俳諧、詩、J-POPまでのこれら「韻文」は、ながい時の熟成により、先人より受け継いできた身体空間や歴史、自然空間へと昇華され、「わたくしたち」の空間システムの原型となり、具体的な血肉となっている。あるいは逆に、わたくしたち自身をさえ紡ぎだしてくれている。
                 
  どんなにちいさな言語文化圏であろうと、ジブンたち固有のことばが生み出すちからにこそ、智慧の源があり、真の活力はそこからしか生まれてこないことを知っている。インターネットなど革新的情報技術を媒介にした国際化時代にあたって、外国文化を吸収しながら自国文化へいかしていこうとする機会は、飛躍的に増加している。こんな時代だからこそ、いかなる国もまず、ジブンたちのあしもとにはたらく言葉のチカラや法を自覚することが基本となる。内を自覚できないでいては、外を客観的に見る眼差しは生まれてこないし、だいいち、その眼差しにもとづいてこそ成立するべき世界と対話するチカラが湧いてこない。そうなれば違いを認め合いながらの真に深まった相互理解というものもあり得ないことになるからだ。しかし、欧米の論理的思考を絶対とし、その視点へナリスマシ、母国語を廃止して英語にすべきだと考えていたのがこの国の初代文部大臣である。ここまでひどくなくても、宣長が指摘するようにこの国の文化の最大の問題点は、江戸時代からすでに、学者であろうと、庶民であろうと、大部分のひとびとが、母国語の視座でものを考えることができないでいる点に存する。ほとんど病的なその症状は脱亜入欧がいわれた明治期においてさらに進行し、敗戦を経た今日なおも悪化の一途をたどるばかりである。
  当然のことではあるが、独自言語文化圏の詩歌とは、そこに独自の法がはたらく各国精神文化の柱である。そこに、他の一言語文化圏の視点から、軽佻浮薄に比較、判断して、優劣をつけるようなことがあってはならない。おのおのの精神文化は相互に不可侵でア・プリオリな事柄だ。ところが、日本における明治の啓蒙家は、自らの詩歌である和歌を、趣味程度のもの、無用のものだとしていち文学ジャンルへ退け、代って利得思想を喧伝して教育者だということに収まっている。文明開化の第一人者でさえその基礎教養は、漢学(亀井流左伝学)や蘭学に依拠したものでしかなかった。官は、軍国主義的観点から、民は、功利主義的観点から、ともに当の教育者自身が、母国語の視座にたいする基本的自覚さえ持ち合わせていなかったのだ。あの古代中央集権国家のもとに編纂された古事記、万葉集でさえ、外国文字を取り入れるに際しては、訓読みなど、古言(フルコト)を活かすためのさまざまな努力工夫をほどこしてきたというのに。
          
  由々しきは、明治期の粗雑な精神をいまだ継承し続けている現在の教育・研究機関であろう。官民問わず、大部分の組織がいまなお、すべての学問の前提としてある母国語に於ける視座という大問題を棚上げにして、明治期の効率優先主義の悪しき伝統そのままに、翻訳概念にもとづいた空論を展開しつづけている。そんな卑近な例には事欠かないが、ひとつは、戦後日本の代表的教養主義者による「俳句第二芸術論」である。その独白から伝わってくるものは、母国語ではなく欧米という一言語文化圏の視座からみた芸術・学問・概念・論理が唯一普遍的なもの、国際的なものであり、どの言語文化圏にも適用できるという盲目的信仰告白である。それは中古以前に起源をもつ日本の風土病、ナリスマシ菌感染病患者の典型的症状といってもよかろう。また近々は、欧米研究機関の「知」の再構成を模した動きのひとつの現象として、産学協同での各種プロジェクトが盛んであり、それなりの効果を生んでいるようだ、たしかに、先端的な学術研究の推進と科学技術の発展をはかり、国際競争力を強化し、かつ文化的基盤をいっそう充実・向上させることは大事だ。が、その前の学問成立の必要条件として、母国語に於ける視座のもと、「知」というものの中身の意味をいちどわたくしたち独自のことばに備わるルールにより問い直さなければいけないのではないだろうか。そのプロセスを省いて、環境や、情報、総合政策学などの概念を運用していけば、歴史が教えるように、母国語の法にもとづいた検証のない、イメージされただけの概念運用はいつか必ずや空洞化をきたして、破綻を来してしまう。でも現実は、ナリスマシ族が大手を振ってまかり通っており、その場しのぎの観念的概念を造語しては、自己陶酔的に国内外に押し売りし、カルト教団顔負けに、純朴なひとびとのこころを惑わし続けている。母国語にはたらいている視座を自覚し得ない精神は、結局は、とってつけた翻訳造語観念が空洞化し、そこへ権力が介入、妄想化、暴走したあげくにナチス文庫まで至って自爆した日本の哲学史とあい似た宿命を辿ることになるだろう。
 学問、芸術のみならず、一般の生活レベルにおいても、母国語にはたらく法の自覚がまだできていない(それが国家であれ個人であれ)有能な未来の才能がこうしたナリスマシ教育機関のシステムにマインドコントロールされているのを目撃するのは辛い。愛する人のそんな姿に触れるのは悲しすぎる。
                  
  さいわい、わたくしたちには身近なところにジブンタチの法・ロゴスが十全に働いている和歌、俳諧といったお手本がある。そのなかには、ジブンたち固有で等身大の、欧米でいうところのものとは、また相が違っているが、独自の幾何と、数理、基本的なロゴスが働いている。その視座を基本として欧米自然・社会・情報科学・芸術の意味を批判的に再摂取し得なければ、国際化どころか未来の精神的独立性さえ維持はできないだろう。左記にわたくしたちの言語文化圏にいま求められている未来の学問の、決して十分条件ではないが、必要条件をあげておく。クラシックギリシャ文化にぉける学問には、まず、すべてのジャンルの基本をなす音楽や詩と同等なものとして、幾何学の理解が必須であった、そこで自然言語より厳密な専門的な論理を学ぶ必要があった。当然わたくしたちの言語にはたらく論理法の習得にも、四股を踏み、股割りをしなければ相撲がとれないような、普段の垢にまみれた通俗観念を祓い、意識的な概念構成や常識の意味から離れたところで純粋思考する厳密な修練が要請されてくる。自己視座を養成する自国言語の厳密な訓練もなく、欧米の視座に寄りかかってデスクワークで学問ができたり、芸術が生まれるとの信仰は、明治以降の既存教育システムの限界からうまれた幻想にすぎない。私事だが、従来美学や、舞踏という身体芸術や、モノ派的な現代美術制作にかかわってきた現場経験から、他国文化の視座でいきてしまっている心身をこのマインドコントロールから開放し、母国語という普段のあたりまえの視座へ矯正することが、いかにむづかしく、時間がかかるかを少しは体験してきたつもりだ。
 「とにかくに漢意(カラゴヽロ・ここでは欧米的発想)は、のぞこりがたき物になむ有ける」-宣長。
そこで、自身にも、人にも適用、指導しているのが、いちど従来の学問や芸術から離れ、和歌、俳諧へ専念する期間を設ける方法である。専門家のもとで、厳しく実作指導されれば、ナリスマシの視座がいかに観念的なものであったかを得心できよう。これは、国文研究者とて例外ではない。従来学問の視点から母国語を分析したところで荘子の「混沌」殺しの結果しかでてこない。よっぽどの天才でないかぎり、座のなかで叩かれ、具体的な実作をとおしてしか母国語の視座はひらかれないはずだ。そうして、一年もすれば、ジブン自身の視座の芽がでてきて、従来の芸術・学問における「知」の限界に具体的におもいをめぐらせるようになるはずだ。ただし、インテリゲンチャだと思い込んでいる人ほど専門家に厳しく叩かれることを覚悟したほうがよい。それほど、歴史的にも印度・中国・欧米へ寄生してきたわたくしたちのナリスマシ精神の根は深い。実に、「のぞこりがたき物になむ有ける」。
  なお、ここで和歌・俳諧を古代へのあこがれだけで、無条件に賞賛するものでもないことを断っておく。これらの内にはたらくことばの法が、わたくしたちの心身の深いところでいまなお活き続け、きっとわたくしたちの未来さえ規定していくはずのものだからである。しかしながら、現実の歌人・俳人の大多数は、こうした法が無意識のうちに、いまの日本の舞踏や現代美術の底流をなしていること、さらに、芸術、自然、社会科学を含めた学問にも、その自覚の適用が必要だということには気付いていない。あるいは気付いていたとしても、その適用を端から諦めているかのようにみえる。彼らの多くもまた、結社、歌会の狭いジャンルで棲息しつづけているために、ジャンルが違えばジブンを裏切り、たちまち欧米ナリスマシの視座にきりかわった人種へと変貌してしまうのだ。

  わたくしたちの国の国会図書館ロビーには、プラトンのアカデメイアの「幾何学を学ばざるものこの門をくぐるべからず」という箴言がギリシャ語で堂々かかげられている。いまのグローバル時代にあってはもちろんのこと、どんな時代にあっても、当該の歴代覇権国家が主導する学問なり技術の導入は必要である。しかし、ギリシャ語や中国語、英語、数学語、AI言語で育ってきたわけではない者にとっては、外国言語精神文化を学ぶまえに、母語にはたらく法の体得を先にしたいと考えるのは自然の感情であるはずだ。使い慣れた母語の法の自得とそれにもとづいた科学的独自方法論の確立なくして、世界に通用する創造的ななにかができるというのであろうか。すべての深い思惟と、行為の根拠というものは、どの時代、どの言語文化圏のひとびとにあっても、自らの言語精神に基づかないものはないであろう。まして、なによりもわたくしたちの母語には、人麻呂が誇り高く暗示する「言挙げせぬ国のメタフィジカと、フィジカ」のとんでもない鉱脈が眠っているのだ。他言語精神文化に由来する近代自然科学や、人文社会科学はすべて、こうした母語の力学を自覚し、それを支点にし得たとき、はじめてそこで、わたくしたちにとっての有意味性もまた、あたらしくうまれてくるものと思われる。詩経に当たるべき和歌、俳諧は、一首一句がそのままのかたちで活きた文法であり、具体的な座標である。即ち、そこへはたらく法の自得とそこで独自視座を培うことこそ、アカデメイアの幾何に代へ、わたくしたちが基本とすべき学びなのではなかろうか。

   「和歌、俳諧にはたらく言葉の法を学ば去る者、この門に入るべからず」

                     哥座(うたくら) 美学研究所


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*一)哥座(うたくら)でいう、これら否定の相をそなえた列島独自の言語のこと。
*二)印欧語族は彼らの言語規範による時空間の許では、すべての存在事物を仮構した座標上へと再現し、そこで物事を対象化する以外に思考の方法を知らない。その行き着いた先のひとつがヘーゲル「精神現象学」だ。この伝統的観念論の枠組みはそのままフォイエルバッハを経て、英国経験論を綜合しつつ唯物論のマルクスへ、一方は「誘惑者の日記」のキルケゴールからハイデッガーのドイツロマンティシズムの系譜へ回帰しながら継承されていった。しかし、その後のどんなリアリズムの左翼映像手法や反芸術、抽象表現主義前衛運動もこの観念論の枠組み自体を壊すには至らなかった。いまの汎世界的とも見える自然・社会諸科学の基本枠も結局はこの古代ギリシャ以来のコスモス観念論で構成されている。

*三)古言の原野へ分け入る。
古古言の精神文化とすっかり切り離されてしまった感のある現代のわたくしたちにあっても”言の地平”へ直に降り立つことは可能だ。そのときは、現代美術の「もの派」の「物」の作品は、先史の早期縄文の波状口縁尖底式や中期の火炎式の器と同様な言語形式で成ったものであることが諒解できるはずである。

  古言は恒なる現代をまさに前衛として活き続けている未来の眼差しである。

  紀貫之は平仮名を古今集と土佐日記で整理、統合したが、それらの作業は列島独自の方法に則って、言語を見ていった結果であり、列島の先史言語の意味の全てが、またこの列島原語精神に基づく全ての活動が余すところなく、しかもそこに隈なく明らめられているのである。「物」としてみた古筆平仮名文字は未だ知られざるしかし、なつかしい風が吹きすさぶ古言の「物」の氾濫する原野へと誘ってくれているのである。

                        
                                 二0一二年十二月十一日


           


   

「見る」から「見ゆ」という世界へ
 
 また、おどろくべきことに、先史に由来するわたくしたちのほとんどのことばは、現代語においてさえも、たとえば「月」ひとつ例にとってみても、ほかの印・欧・中の言語文化圏の固有ブラウザによって抽象化された座標にうつしだされてくる世界とは、まるで様相の異なるはたらきかたをする。常識では、わたくしたちの「月」も中国の月も漢字概念としてそこに対応した意味と表象を担い、当のあの夜空にかがやく月を指し示すものであり、また、「MOON」とも同義であり、対象存在として、オブジェクトとしての月の指示代名詞だとうけとめられている。
 しかし、この列島にあっての事情は著しく異なる。それは1970年7月、京都国立近代美術館における菅木志雄の作品「無限状況」の館内踊り場の窓枠に斜めにさしわたし小窓が閉まらないようにしたツッカイ棒のはたらき方と似ている。もともと美術館は空間の求心力を活かして、ひたすら作品へ集約するように、閉ざされた場になっているが、「無限状況」では、ツッカイ棒自体は何も表象せずに、館の内と外との関係を解体する。そこで建築物としての物理空間と作品提示という制度空間はもどかれる。

 ・・・ この時空の失せた場では「見る」から「見ゆ」へ、対象を「思考する」から物を「おもう」へと視座転換が生じくる。・・・

 これらの視座にはたらく力学は、日常の道具存在としてのことばの使用からいったん離れて、表記された漢字仮名交じり文と(できれば歌会や句会のような非日常の場で披講された)発音に聴き入っていけば、そのはたらきが聴き分けやすくなる。そのとき、漢字に代表される抽象系座標と、まったく正反対に位置する「物」「言」それ自身を実体化して地軸とした座標系との、この二つの座標系の切り替えがおこなわれるので軽い眩暈をおぼえるかも知れない。 (ここでいっている差異とは、ある中国思想研究家が云っているビジュアル処理と日本語言語処理の左脳と右脳の違いのことではない。ここでは一般観念としての時間と空間そのものがそこにあるかないかという両極に対峙した座標系の違いを指す)



 なお、この小論の目的は、ひとまず歴史的文脈は無視して、先史から有史までの物と言を、それぞれの文化ジャンルを越えたところで、現代美術、和歌、俳諧、身体芸術を、さらに、この国が受容してきた印中思想や欧米自然科学、社会科学を、そんなすべてを、「つらぬく棒の如きもの」という、抽象化できず、表象化できず、対象化を許さない「わたくしたち独自の座標軸」のもとに - あくまで現代美術の私的実作作業を梃子にしながら - 読みかえていくことにあった。というより、この小論をその本格的作業のための手がかりをつかむ試論として位置づけてきた。ここでその核心にわづかながら触れ得た。そんな感触があったので、この試論をプロット代わりにして、独自方法論による実証性と論理性をそなえた本格的立論の機会が、近いうちにやってくるだろう予感がしている。そこではもうひとつ踏み込んだ視点から、列島独自の否定相のもとでは、「物と言は位相を違えたおなじものの両局面である」ということを顕かにできるはずだ。そこではもはや、上位概念で括りながら概括抽象していく従来思考法の適用はできないだろう。・・・いまからそのときがくるのが楽しみである。というのも、列島における先史から有史までをつらぬくこの独自なる否定の相のもとへ、すべての物と言を創造的実作作業という独自検証にかけながら読みかえ、そこで得た結論にそって、従来の学問常識を廃棄していく作業は、質量と光速度との関係式をエネルギーへと還元し、森羅万象の現象をシンプルに説明していった現代理論物理学の作業プロセスに似て、あるいはそれ以上のまったく未知の惑星の系列の異なった純粋数学を解いていくような楽しみがあるからである。


 *「お知らせ」
いままで「物」と「言」との両局にわたり、哥座は列島地軸の検出作業を続けてきた。その途上で「物」「言」が現成する際の核心となる或るはたらきを特定することに成功した。哥座バーション三、〇一で、そのはたらきのすべてを晃かとしている。ただし、オンラインではこれを発表せず、代わりにオフラインでテキスト化し、それをこゑなど具体的なパフォーマンスとして論議や講義に活かしていく。これにはさまざまな理由があるが、今後しばらく哥座の活動は口伝によるオフラインが柱となる。ご質問等は哥座美学研究所へ
 二0一二年十二月十一日


 哥座 美学研究所      主催  YU HASEGAWA  

   
   
 
     
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