奥の細道
     
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     奥の細道

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本文


  草の戸も住替る代ぞひなの家


旅立

  行春や鳥啼魚の目は泪


草加


室の八嶋


仏五左衛門


日光

あらたうと青葉若葉の日の光

剃捨て黒髪山に衣更 曾良

暫時は瀧に篭るや夏の初


那須

かさねとは八重撫子の名成べし 曾良


黒羽

夏山に足駄を拝む首途哉


雲岸寺

木啄も庵はやぶらず夏木立
 

野を横に馬牽むけよほとゝぎす


殺生岩・蘆野

田一枚植て立去る柳かな


白川の関

卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良


須賀川

風流の初やおくの田植うた

世の人の見付ぬ花や軒の栗


あさか山


忍ぶの里

早苗とる手もとや昔しのぶ摺


佐藤庄司旧跡

笈も太刀も五月にかざれ帋幟


飯塚


笠嶋

笠嶋はいづこさ月のぬかり道


武隈

桜より松は二木を三月越シ


仙台

あやめ艸足に結ん草鞋の緒


壺の碑


末の松山


塩釜明神


松島

松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良


石の巻


平泉

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良

五月雨の降のこしてや光堂


尿前の関

蚤虱馬の尿する枕もと


尾花沢

涼しさを我宿にしてねまる也

這出よかひやが下のひきの声

まゆはきを俤にして紅粉の花

蠶飼する人は古代のすがた哉 曾良


立石寺

閑さや岩にしみ入蝉の声


最上川

五月雨をあつめて早し最上川


出羽三山

有難や雪をかほらす南谷

涼しさやほの三か月の羽黒山

雲の峯幾つ崩て月の山

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良


酒田

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

暑き日を海にいれたり最上川


象潟

象潟や雨に西施がねぶの花

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

象潟や料理何くふ神祭    曾良

蜑の家や戸板を敷て夕涼   みのゝ国の商人低耳

波こえぬ契ありてやみさごの巣    曾良


越後路

文月や六日も常の夜には似ず

荒海や佐渡によこたふ天河


市振

一家に遊女もねたり萩と月


黒部

わせの香や分入右は有磯海


金沢

塚も動け我泣声は秋の風

秋涼し手毎にむけや瓜茄子

あかあかと日は難面もあきの風


大田神社

しほらしき名や小松吹萩すゝき

むざんやな甲の下のきりぎりす


那谷

石山の石より白し秋の風


山中

山中や菊はたおらぬ湯の匂


  行行てたふれ伏とも萩の原 曽良

 

今日よりや書付消さん笠の露


全昌寺

終宵秋風聞やうらの山

 庭掃て出ばや寺に散柳

汐越の松

物書て扇引さく余波哉


福井


敦賀

月清し遊行のもてる砂の上

名月や北国日和定なき

種の浜

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

波の間や小貝にまじる萩の塵


大垣

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ


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      奥の細道 本文 

 

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。





旅立

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。 むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。

行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

 

 




草加

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。




室の八嶋

室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を讀習し侍もこの謂也」。将このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に傳ふ事も侍し。




仏五左衛門

卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやとあるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ気禀の清質尤尊ぶべし。





日光

卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを空海大師開基の時「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。 今此御光一天にかゞやきて恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

あらたうと青葉若葉の日の光

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

剃捨て黒髪山に衣更   曾良

曾良は河合氏にして、 惣五郎と云へり芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく。このたび松しま象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。

廿餘丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。 岩窟に身をひそめて入て滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳え侍る也。

暫時は瀧に篭るや夏の初

 




那須

那須の 黒はねと云所に知人あれば是より野越にかゝりて直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず「 いかゝすべきや、されども此野は縦横にわかれてうゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。ちいさき者ふたり馬の跡したひてはしる。独は小姫にて名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

かさねとは八重撫子の名成べし   曾良

頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。

 




黒羽

黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の 篠原わけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。暮れば、桃翠宅に帰る。

修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。

夏山に足駄を拝む首途哉

 




雲岸寺

当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。

竪横の五尺にたらぬ草の庵

むすぶもくやし雨なかりせば

と松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて谷道遥に、松杉黒く苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。

さてかの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。

木啄も庵はやぶらず夏木立

と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。




殺生岩・蘆野

是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、

野を横に馬牽むけよほとゝぎす

殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。

又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

田一枚植て立去る柳かな




白川の関

心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとゞむ。秋風を耳に残し、 紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良

 




須賀川

とかくして越行まゝにあぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城相馬三春の庄、常陸下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。

すが川の駅に等窮といふものを尋て、四五日とゞめらる。先白河の関いかにこえつるやと問。長途のくるしみ身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断てはかばかしう思ひめぐらさず。

風流の初やおくの田植うた

無下にこえんもさすがにと語れば、脇第三とつゞけて、三巻となしぬ。

此宿の傍に、大なる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、

栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

世の人の見付ぬ花や軒の栗

 




あさか山

等窮が宅を出て、五里計桧皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみ/\と尋ありきて日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、 福崎に宿る。

 




忍ぶの里

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける。昔は此山の上に侍しを往来の人の麦草をあらして此石を試侍をにくみて此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。

早苗とる手もとや昔しのぶ摺




佐藤庄司旧跡

月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て尋/\行に、丸山と云に尋あたる。 是庄司の旧館なり。梺に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす。

笈も太刀も五月にかざれ帋幟

五月朔日の事也。

 




飯塚

其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷てあやしき貧家也。灯もなければゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて消入計になん。短夜の空もやう/\明れば、又旅立ぬ。猶夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の駅に出る。遥なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと気力聊とり直し路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。




笠嶋

鐙摺白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ笠嶋と云。道祖神の社、かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪笠嶋も五月雨の折にふれたりと、

笠嶋はいづこさ月のぬかり道




武隈

岩沼に宿る。

武隈の松にこそめ覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出、往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや。松は此たび跡もなしとは詠たり。代々あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。

武隈の松みせ申せ遅桜と挙白と云ものゝ餞別したりければ、

桜より松は二木を三月越シ




仙台

名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。爰に 画工加衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て知る人になる。この者年比さだかならぬ名 ところを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ。玉田よこ野つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松嶋塩がまの所〃画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。

あやめ艸足に結ん草鞋の緒

 




壺の碑

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に 十符の菅有。今も年々 十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。

壷碑     市川村多賀城に有

つぼの石ぶみは高サ六尺餘横三尺計歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、 同将軍恵美朝臣獲修造而十二月朔日と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る哥枕、おほく語傳ふといへども、 山崩川落て、跡あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也。

 

 

 




末の松山

それより野田の玉川沖の石を尋ぬ。 末の松山は寺を造りて末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も終はかくのごときと悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声ごへに、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。

 




塩釜明神

早朝塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽きらびやかに石の階、九仭に重り、朝日あけの玉がきを かゞやかす。かゝる道の果塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗 なれどいと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳命今に至りて、したはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。日既午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其間二里餘、雄嶋の磯につく。

 




松島

抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の 湖をたゝふ。嶋/\の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に 葡蔔。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其景色えう然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。

雄嶋が磯は地つゞきて海に出たる嶋也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将松の木陰に世をいとふ人も稀/\見え侍りて、落穂松笠など打けぶりたる草の庵閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂松嶋の詩あり。原安適松がうらしまの和哥を贈らる。袋を解てこよひの友とす。且杉風濁子が発句あり。

十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して、入唐帰朝の後開山す。其後に雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。

 




石の巻

十二日、平和泉と心ざし、あねはの松緒だえの橋など聞傳て、人跡稀に雉兎蒭ぜうの往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがえて石の巻といふ湊に出。こがね花咲とよみて奉たる金花山海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竃の煙立つゞけたり。思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり尾ぶちの牧まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。




平泉

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて、大河に落入。康衡等が旧跡は衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり。城春にして草青みたりと笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

五月雨の降のこしてや光堂




尿前の関

南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎みづの小嶋を過て、 なるこの湯より、尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

蚤虱馬の尿する枕もと

あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て人を頼侍れば、究境の若者反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森〃として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分わけ、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて、仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。

 




尾花沢

尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひてさすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

涼しさを我宿にしてねまる也

這出よかひやが下のひきの声

まゆはきを俤にして紅粉の花

蠶飼する人は古代のすがた哉   曾良




立石寺

山形領に立石寺と云山寺あり。 慈覚大師の開基にて、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巖を重て山とし、松柏年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

閑さや岩にしみ入蝉の声

 




最上川

最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。

最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。 こてんはやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをやいな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙/\に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。

五月雨をあつめて早し最上川

 




出羽三山

六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。

四日、本坊にをゐて誹諧興行。

有難や雪をかほらす南谷

五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。延喜式に羽州里山の神社と有。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。 出羽といへるも鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に侍とやらん。月山湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にしてめで度御山と謂つべし。

八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに 道ひかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上にいたれば、日没て月顕る。笹を鋪篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば湯殿に下る。

谷の傍に 鍛治小屋と云有。此国の 鍛治、霊水を撰て爰に潔斉して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句〃短冊に書。

涼しさやほの三か月の羽黒山

雲の峯幾つ崩て月の山

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

湯殿山銭ふむ道の泪かな    曾良

 

 

 




酒田

羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、誹諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

暑き日を海にいれたり最上川




象潟

江山水陸の風光数を尽して今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して、雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて雨の晴を待。

其朝、天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上こぐとよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。比處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむや/\の関路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

象潟や雨に西施がねぶの花

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

      祭礼

象潟や料理何くふ神祭   曾良

蜑の家や戸板を敷て夕涼   みのゝ国の商人低耳

岩上に雎鳩の巣をみる

波こえぬ契ありてやみさごの巣   曾良




越後路

酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望、遥々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

文月や六日も常の夜には似ず

荒海や佐渡によこたふ天河




市振

今日は親しらず子しらず犬もどり駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめてはかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因いかにつたなしと、物云をきく/\寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へと泪を落す。不便の事には侍れども、我/\は所〃にてとゞまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護かならず恙なかるべしと云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。

一家に遊女もねたり萩と月

曾良にかたれば、書とゞめ侍る。




黒部

くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。 擔篭の藤浪は春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと人に尋れば、是より五里いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじといひをどされて、かゞの国に入。

わせの香や分入右は有磯海

 




金沢

卯の花山くりからが谷をこえて金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何處と云者有。それが旅宿をともにす。

一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに

塚も動け我泣声は秋の風

ある草庵にいざなはれて

秋涼し手毎にむけや瓜茄子

途中吟

あか/\と日は難面もあきの風




大田神社

小松と云所にて

しほらしき名や小松吹萩すゝき

此所太田の神社に詣。真盛が甲錦の切あり。往昔源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ龍頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁記にみえたり。

むざんやな甲の下のきりぎりす




那谷

山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて那谷と 名付給ふとや。那智谷組の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

石山の石より白し秋の風

 




山中

温泉に浴す。其功有明に次と云。

山中や菊はたおらぬ湯の匂

あるじとする物は久米之助とていまだ小童也。かれが父誹諧を好み、洛の貞室若輩のむかし爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。

曾良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に、

行行てたふれ伏とも萩の原   曾良

と書置たり。行ものゝ悲しみ残ものゝうらみ隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又

今日よりや書付消さん笠の露




全昌寺

大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜此寺に泊て、

終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経 声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと心早卒にして、堂下に下るを若き僧ども紙硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば、

 庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして草鞋ながら書捨つ。

 



汐越の松

越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。

終宵嵐に波をはこばせて

月をたれたる汐越の松    西行

此一首にて数景尽たり。もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。

丸岡天竜寺の長老古き因あれば尋ぬ。又金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此處までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて、

物書て扇引さく余波哉

五十丁山に入て永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも貴きゆへ有とかや。




福井

福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たど/\し。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にか江戸に来りて予を尋。遥十とせ餘り也。いかに老さらぼひて有にや、将死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命してそこ/\と教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕顔へちまのはえかゝりて、鶏頭はゝ木ゝに戸ぼそをかくす。さては此うちにこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋給へといふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、 その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。




敦賀

漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鴬の関を過て湯尾峠を越れば、燧が城、かへるやまに初鴈を聞て、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる。おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず。神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、 亭主かたりける。

月清し遊行のもてる砂の上

十五日、亭主の詞にたがはず雨降。

名月や北国日和定なき

 




種の浜

十六日、空霽たればますほの小貝ひろはんと種の濱に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、 破篭小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。濱はわづかなる海士の小家にて侘しき法花寺あり。爰に茶を飲酒をあたゝめて、 夕ぐれのわびしさ感に堪たり。

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

波の間や小貝にまじる萩の塵

其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。

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大垣

路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

 



 

          奥の細道 
          芭蕉発句 春夏秋冬 


* 原文に忠実に、また読みやすくするため縦表記とした。 
* 掲載データの全ては、哥座(うたくら)が韻文空間探求のための美学研究用に、 縦書き表記したものである。内容に一切手は加えてないが、本文に直接関係のない 前書など、若干だが、割愛した箇所がある。また、一般的ブラウザで表記不能の旧漢字の一部。また、繰り返し表記など、仮名に置き換えた。よって、文学としての精確度を 求める向きは、しかるべき専門文学データへ直接当たることをお薦めしたい。


          提供 : 哥座(うたくら)



 

                        

  


      芭蕉と人麻呂を読み解く。
           - コスプレ原論   


   
    総論
            
ここでは、狭義のコスプレ、つまりアニメ、漫画、ゲーム、歌手など、架空の人物やアイドルの衣装を真似るコスプレや、何年か前のベネチアビエンナーレ展におけるおたくを主題とした日本館の展示、そしてまた世界のアートシーンの最前線でたえず新鮮な問題を提起して注目を浴びている森村泰昌のやうな、いわゆるコスプレ芸術等々を直接問題にしようとしているわけではない。しかし、コスプレ原論という以上は、いまのサブカルチャー・そして現代芸術にもつながって、この国の古層精神文化の底流にながれているあるひとつの傾向に、いまのコスプレ現象をもそこからうみだしているはずの一種のオタク的な精神に注目するものである。そこで、それを主題として歌聖、俳聖としての五百年、千年とその評価にゆるぎない、人麻呂と、芭蕉において、その二人に現代にも通時するオタク精神と、そこにコスプレ衝動の発芽を見ていかんとするものである。
 
 春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り

  芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな せまく清潔ともいえない部屋に終日引き籠もり、蜂の巣つたふ春雨や、盥(たらい)に落ちる台風の雨垂れの音を楽しみ自慢する。この芭蕉の姿勢は、まちがいなくオタクの心境の極みであろう。また宮廷歌人としての人麻呂の謎おおき人生。そして、そこに暗示されるなにか、もやもやとした不幸も、結局は、つくりだされたあらたなる物語を固定し、維持していこうとはたらく宮廷の権力精神と、ひとたびは、宮廷歌人の「吾(あ)」へとコスプレした人麻呂ではあるが、つねにメタな立ち位置へゆらぎ戻ろうとする彼のオタク精神と、その対立葛藤がもたらした結果ではないかとの推察を可能にする。その最初の兆候を葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ吾(あ)がするという万葉集第十三巻のなかの有名なことばそのものに、そしてここまで大胆に、直くいい切る人麻呂の心情に伺い知ることができる。大きな物語、大きな神話はもう終焉してしまい、このままでは決してその物語のつづきは語れないのだ。そのフレーズには、そんな人麻呂のメタ的な自覚の深さが、この状況のなかでの自由とは何かという問いとともに織り込まれている。そこで、人麻呂は"吾(あ)という他者"になり朗々と語りだす。つつみなく 幸(さき)くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 五百重波(いほへなみ) 千重波しきに 言挙げぞ吾(あ)がするこの意識の切り替えは、左に定義するように、もはやシリアスな物語が機能しなくなった時、後で言うところの「汎メタ言語」視点を導入することで「他者になりきろうとする」コスプレ行為である。それは、また貫之の男(をとこ)もすといふ日記といふ物を、女(ゝむな)もして心みむとて、するなりという土佐日記の設定にも通じていく。

○状況
ここで、あたためてコスプレにラフな定義をしておく。
コスプレとは、その時代時代のメディアを含め、国家から地域社会のちいさな価値にいたるまで、そして、家族や個人といった前時代神話の総くづれの時代にあって、つぎのシリアスな物語も機能しなくなっている時に、「他者になる」行為である。
人麻呂でいえば、大化改新や壬申の乱、芭蕉では徳川までの動乱にあけくれた時代記憶のシリアスで「おおきな物語り」が解体した時代,さらに、二人は、それが一通りおさまって余裕がでてきた持統期や徳川時代に、それまでの共同体や、自己のおおきな物語りを失い、自意識がもはや所与の物語りのつづきを演じきることができなくなったことを否応なく自覚せざるを得ない時代にあった。そこでいまでいえばコスプレという他者のファッションを身にまとおうとするのだが、ただ、それが、アニメの主人公ではなく、芭蕉にとっては、西行であり、人麻呂では、宮廷歌人としての吾(あ)という他者であったのだ。その際かれら二人に共通するのは、無文字時代からつづく古言を、象徴的にいえば、て・に・を・はを所与の言語活動の流れを変革し、規範するメタ言語として活用したことにある。もう二度と、シリアスな大きな物語りにはならないことを知りながら…。そして、これからの自分の物語りをメタ視点から自覚的に解体しつつ、古言にもとづくあたらしい形式のもと、再解釈された、もはや他者としかいい得ない者の姿へと、自己を企投していったのである。

      作業仮説としての
      汎メタ言語[Panmetalanguage]

○わたくしたちの慣れ親しんでいる「名詞・動詞・目的語・助詞等々」は構文規則を示す文法概念であり、それは自然言語を意味づけ定義するアリストテレス論理学のカテゴリー論に由来する西欧論理のつくりだしたメタ言語である。w3c勧告やメタHTMLがウェブ記述のメタ言語であるのと同義である。

○Panmetalanguage
この「名詞・動詞・目的語」というカテゴリーによるメタ言語にかえて、ここでは、説明のために、あくまで作業仮説として、汎メタ言語[Panmetalanguage]という用語を設定した。欧米文脈上のメタ言語とは自然言語の高次概念として、所与の自然言語自体を対象として、一般言語活動を分類、機能分けした概念である。そしてみづからはシステム化された規範として、自然言語を定義する。所謂文法のことである。ただしここでいう汎メタ言語は、メタ言語の記号化や、概念論理にかわるものとして、母語精神にそくした、ひびき、にほひ、俤(おもかげ)という具体的な規範としてはたらきだすものである。ただ、所与のことばを規範するというはたらきではメタ言語の機能と同じ作用をするので、メタより広義の意味で汎-PANを冠した。

そこで、 無文字時代の言語精神をつたえる古言を、飛鳥以降、現代のわたくしたちの対象言語・一般自然言語までを規定するものとして、つまり、その表現法や、表記法のし方、また、その形態、言語間の関係、それらすべてのはたらきを規範するものとして、汎メタ言語[Panmetalanguage]としてのはたらきで見ていく。

○言挙げせぬ国のメタフィジカ
ITにおけるメタデータは、データを意味づけるデータという意味である。ここで、自然言語を意味づけるメタ言語とは、メタデータと同じ仕組みである。メタデータの作成には、当該ジャンル、ここでは文学、思想、歴史、自然現象の様々な主題を分類し捨象し、メタ概念へと抽象、定義していくためのその時代にふさわしいオントロジ-の力量が要請される。 その時代、その力量をもった人麻呂も芭蕉も実は、いち歌人、俳諧師の立場を超えて、やまとことばに則った汎メタ化作業をしてきたのだといえる。西欧では、プラトンのもちだすイデアや、カントのいう時空形式にみられるようなメタ範疇のもと、それを規範命題として、その関係のもとに、抽象概念による論理構成で存在を解析していく。その学問をメタフィジカとしての哲学だと定義するならば、わたくしたちの基層にはたらく無文字時代以来の古言を規範として自得し、自然言語意識の在り様をもその思惟領域に捉えて、言語をことばたらしめる記述法や、表記原則などを確定しつつ、そこで獲得したことばの形式のもとに、母語に基づく存在の真相をあきらかにしていった二人の作業というものは、西欧のメタフィジカに相当するものであるといえよう。-その意味で、かれら二人こそわたくしたちの母語精神によるこの国を代表する哲学者なのである。明治以降の輸入哲学は、この国では、抽象概念を排することでしか、そして物・事へ即してしか、ことばは開かれないという、無文字時代以来の規範を-その言語を、彼らも日常語で使用しているにも拘らず-まったく忘却したところで、欧米や古代印度、中国の抽象的思考へ軸足をおき、母語による思索にかえ、おもに翻訳抽象概念を構築してそれを学問と呼んできた。そこで、いきついた西田の「絶対矛盾的自己同一」などは、どれほど、歴史的に限定されたものとして、割り引いて考えてみても、人麻呂や芭蕉の発見した方法、そしてそれをもとに到達し得た彼らの思惟の深さと比較したとき、まったくの空虚、空論にしかみえない。この流れにある学問では今日においてさえも、人麻呂が誇り高く「言挙げせぬ」といったあの、無文字時代からわたくしたちの心性の核をなしてきた思想の意味を深く省察することができていない。それを逆に、欠点であるとして、あるいは、日本語は論理的でないという。また、普遍的な哲学思想が生み出せなかったと嘆く。普遍性へは、また、その評価というものは、自己を相対化する作業とともに、自己の属する母語精神の底を深く穿っていく作業を基礎とする以外には到達できないというのに…。その傾向は、特に敗戦後に顕著となり、かなりバランスのとれた良識ある中村元のような思想家にもみられる。でも、桑原武雄にみる「俳句第二芸術論」が集約するようなそれら西欧に偏った見方の欠点をあげつらうことは、ここではもう、すまい。活字の上とはいえ、いろいろと教えていただき、いまでも尊敬している諸先輩方でもあるのだから…。自分自身だって、戦前戦後を生きていたならば、彼らと同じく、焼け野原となった都市にたたづんだとき、母国語のありかたに疑問をいだき、母語による思索追求をさっぱり捨てて、リトル欧米人の考え方になっていたかもしれない。これらの現象は、やはり、軍事、政治、経済、自然科学技術の面で圧倒的優位性をもった西欧文明に、いやおうなく近代日本が巻き込まれていった際の、やむをえない状況下での日本思想史における一時的ねじれ現象と受け取る他ないだろう。でも、本当は、戦とは政治力学の一行使形態にすぎないのであって、戦に負けたから母国語による思索が間違いであったとは、あまりに飛躍しすぎた話である。次元の違う話だ。まして、詩人や思索家が、敗戦により、みづからの言語を卑しめるような現象があったとすれば、実際あったようだし、いまもってそれに類する愚痴をこぼす学者もどきが生息しているようだけど…。それは、彼ら自身の思考資質が、もともとことばの表層面しか観ていなかったということしか意味しない。母語への省察が、欠如したまま、近代を急いだということであろう。

さて、人麻呂以降の万葉歌人や西行、そして芭蕉のあとの与謝蕪村、小林一茶、子規、虚子は多少の表記工夫はあったとしても、自覚的にその汎メタ化作業をしたわけではない。あくまで、二人が用意した形式-言挙げせぬ国のメタフィジカ-のなかで作品づくりをしただけである。実は汎メタな視点は、日本文芸史上では、人麻呂と芭蕉のこの二人しかつくりだしていないのではないだろうかと思われる。ふたりだけが自己を解体しつつ、汎メタ視点の導入の形式を提供してきた。そして後塵を拝したのが、その他大勢の歌人・俳人なのである。彼らはこの二人が作った「メタ手法」に没入してきただけであるといえる。その意味では、人麻呂と芭蕉の作品自体が活きたままに、抽象概念化された西欧のカテゴリー文法に替わるこの国の規範文法としてあると言い換えてみることも可能だろう。

★言挙げ異聞★
人麻呂は、言挙げせぬ国において、古言の汎メタ言語機能を十二分に自得したうえで、古言の規範を逆手に、その規範に新しい形式を付与できるという精神の自由度を意識したうえで、あへて言挙げをする。吾がする。と言い得たのだった。芭蕉は神秘性がなくなった時代のシリアスをもどき=汎メタ化する究極のオタクであろう。そこで獲得したあたらしいかるみの境地から、さらに奥の細道へ西行おっかけのコスプレ行為へと及んだ。いまのコスプレの走りであり、大先輩である。コスプレは他者になる…ということだ。「個人の物語り」の解体により,自己の物語りを失った人麻呂と芭蕉が自覚的に物語りに乗っかろうとする行為だといえよう。

個人の物語りを解体してその中で二人は与えられた物語りを演じなければいけない…ということだ。飛鳥の神話がくづれ、「個人の物語り」の解体により,自己の物語りを失った人麻呂が、そして、元禄の世にこれまでの社会関係での自己規定が通用できなくなり、あたらしい物語を自身が用意した。個人や国家の物語が解体された時代であったのだ。…という現在状況は「今更物語りには入っていけない…」という現在人としての人麻呂や芭蕉の共通の心情であった。

  人麻呂の場合

○しばらく、人麻呂の歌をみてみよう。

雑歌

近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌

玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 天(あめ)の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 青丹よし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも

反歌 (二首)

楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎(からさき)さきくあれど

大宮人の船待ちかねつ楽浪の志賀の大曲(おほわだ)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌

やすみしし 我が大君の きこしめす 天(あめ)の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津の野辺(のへ)に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし 水激(みなそそ)く 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも反歌見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまたかへり見む

…と、 ここまで大宮人の「おおきな物語り」の解体を歌う人麻呂。
と同時に、詩人としての自己の物語りの喪失を体験した人麻呂は、言挙げせぬ国において、古言の汎メタ言語機能を十二分に自得したうえで、その規範の核としてはたらく古言、ことに、テ・ニ・ヲ・ハという助詞や助動詞へ、簡単な表音文字としての漢字を対応させて、日本語表記へ革新的な形式を付与していった。後の平かなへと発展する万葉仮名表記だ。たとえば、 

淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

である。平かなにいたる、漢字を表意文字と表音文字に使い分けるこの作業というものは、たんなる照らし合わせの作業ではすまされない。対象言語にフィックスされた視点から、その所与の自然言語を対象的に観ていくメタ視点へのあたらしい意識への飛躍が不可欠となる。それが、メタ視点、つまり、人麻呂にとっての「吾」の発動であったと思われる。あへて「吾」を言挙げすることにより、歌の言葉を唐詩へ対抗できるものとしようとした。それが詩人としての人麻呂の自由度というものでもある。その自由さゆえに、あへて言挙げをする。吾がする。と高らかに、のびやかに言い得たのだった。 それは、千年後の芭蕉の自己解体作業が、もどき、かるみ、さびというメタそのものの視点からの日本詩歌の再構築への仕事へとつながったように、人麻呂にあっては、言挙げせぬ国の他者であった「吾」へとメタ的な変身をとげることで、初期歌謡の俗謡形態から一歩すすんだ洗練した詩歌表現としての万葉集の歌の基本表記を定着させるというあらたな仕事をうみだしたのだ。

○また、一度、汎メタ言語機能を人麻呂で説明すれば、 

  葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国
  然れども 言挙げぞ吾(あ)がする 言幸く ま幸くませと
  障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと
 五百重波(いほへなみ)* 千重波しきに 言挙げぞ吾(あ)がする

( - この場合、人麻呂は反語的に表現しているので、吾の言挙げが素直な自然言語としての対象言語となる。そこに対して言挙げせぬという視点が古言の規範であるメタ言語となる)第一は、対象世界のなかの通常表明のことば。 第二は、対象世界から抜け出して、自分の言語活動を対象界に回したその表明についての自意識のことばであり、 この言語の流れが生じて、 メタ言語が対象言語を操る立場にたって、二重構造になることで、第一言語の対象にフィックスされた視点から開放される。伝統をふまえながらも、所与の状況のなかで、対象にしばられながらも、あたらしい形式をそなえることで自由を獲得しているのである。人麻呂の崇高なのびやかさは、この古言の規範をメタ化として自得し、そこへふさわしい形式を自由にあたえることができたところにある。それは万葉歌人のなかでも秀でていた中国詩歌への素養と、無文字時代の言語精神に根差してある自己をだれよりも深く自得し得た才能からきているものとおもわれる。


  芭蕉の場合

  ★奥の細道秘話
○奥の細道は、その物語りに乗っかろうとするコスプレ行為として読み取れる。個人の物語りを解体しつつ、その奥の細道で古言の規範をメタ言語とすることで、現在を再解釈し、自身が与えた物語を演じなければいけなかったということだ。

○芭蕉が死に臨んで詠んだ  旅に病んで夢は枯野をかけめぐるこの字余り「で」という切れ字は、汎メタ言語としての「で」であり、その「で」は、一般対象言語意識からわたくしたちを一挙に、共時的な無文字時代言語精神の流れへと回帰させ、永遠のゲームへと誘うところの一字の「で」である。

○もはやシリアスな物語が喪失したという時代への自覚のもと、自己解体をし続けていった芭蕉の作業は、おもくれをもどき、かるみ、さびというメタそのものの視点を導入することで、それが日本詩歌の再構築の仕事へとつながっていった。それはまた、西行のおっかけとして、奥の細道へのコスプレな旅立ちでもあった。

そこで、特筆すべきは、切れ字の発見である。切れ字とは、「無」や「空」に替わる母語におけるゼロポイントである。(文法考で詳細予定)芭蕉のこのゼロポイントは、文字通り、芭蕉という俳号へのネーミングからして、それは、唯識の一説から採ったものであると確信するのであるが、(唯識からというのは、もしかして、記憶違いかもしれない。あとで、確認する)が、そのあたりの関連仏典にある記載から芭蕉という用語を借用したのは、その時の直感によって確実だとおもっている)、状況証拠的にも、仏頂のもとでの芭蕉の参禅の時期と、それを境にした前後作品の質的変貌、そして、芭蕉への改名が、一致していることから、自分は、そう信じているのである。いづれにしても、このゼロポイントという、言葉をことば足らしめる「切れ字」という装置の発見により、たった一字で古言の規範力を喚起させる自由がうまれ、桃青は、またあたらしい他者、芭蕉へとコスプレして未知の陸奥の地の旅人となり、いまも、冬枯れの古事の原野をひとり旅しているのである。


  結論
○(推論)
商業主義的なメディアに主導されるかたちではあるが、世界に先駆けてこのメタ化が急速に進行している擬似国家日本においては、 旧来の大きな物語は、もはや成立し得ない。しかし、この状況はたいへん好ましいものだといえる。このメタ化の潮流は、ふたたびだれか、優れたひとりのちからで、表層ではなく、自分たちの根にある古言の無文字時代の言語規範を汎メタ言語として、あたらしく、自由に展開さえすることができれば社会もそれを難なく受容していける状況にあるということを意味しているのだから。いつか、気がつかないうちに、商業主義的で世俗的なコスプレファッションの域をかるがると越えてしまう時がやってくるだろう。自由な立ち位置がとれて、オタク精神をきわめていく者は、日本語を話す誰もがつぎの時代の人麻呂、芭蕉となる可能性を秘めているのだ。○ 古言を汎メタ言語とすることに長けた人麻呂と芭蕉は、多くの伝説をつくりあげてきた。二人以外の歌人、俳諧師たちは、二人が定立した作品世界の設定まるごと、シリアスな世界であるとして、この伝説にのめりこんでいったはづだ。その結果が、万葉集であり、また、現代俳句につながる蕉風俳諧である。

○オープン系という自由
自由を自得した二人は、万能細胞のようなものだ。つねに、完成形の一歩手前の未然状態である自己の自由をのびのびと謳歌してきた。それは彼らが、言語、文法、理論、表現形式、自己というものを記述可能な古言という汎メタ言語機能を操る術を獲得していたからに他ならない。これからの自己が他者としての自己を規定できるがゆえに、既存の対象言語の規定から自由に、どういうコスプレも可能であったのだ。汎メタであるということは、いかような発想にでも到達できる精神状態に、そしてフィックス以前の自分に立ち位置にいつでも戻れるということでもある。それは外部に対して、オープンであることを意味する。人麻呂と芭蕉は、自らをメタな状態にしてあらゆる他者に変身していくことのできる究極のオタクであり、レイヤーであったのだ。

○●補足
ここで、設定した汎メタ言語[Panmetalanguage]なる視点は、あくまで作業仮説であり、最終的には廃棄されなければならない。現代西欧言語学理論がうみだしたメタなる概念とその視点は、コンピュータという、それだけでは木偶の棒なるものに、多言語時代の人間のことばを了解させる必要から、幅広い応用がはじまりだした。もともと、ことばの核心に迫っていけるような視点ではなく、概念の単純な階層化で構成された、たんなる比較整理のための便宜上の視点だ。。ただ、このIT時代におけるメタ視点の導入は、ジブンも含めて、もはや原始的なことばのちからを喚起できない現代人の、ものごとの理解の補助機能として、そこに局部的な妥当性をみていくことは許されよう。おもしろいのは、こうしたメタ概念を使うことでしか、思惟できなくなった人間の意識である。それはまさに、彼のこころが、コンピュータという木偶の棒にちかづいているということを意味している。


哥座 美学研究所

   
YU HASEGAWA

   
     
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