「歌座(うたくら)」序文 - 日本語によるあたらしい視座はいかにして可能か。
     
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 日本語によるあたらしい視座はいかにして可能か。


  - 韻文空間をめぐって -


高度情報化時代に「哥座(Uta!Kura)」の目指すところ。

 いつか、W3C勧告案程度であった表記規制やコードが、ついに、世界統一憲法として公布され、 現実のあなたは、ニセモノとなり、ハイパー情報のなかで流通しているバーチャルのあなたがホンモノとされる。といった日が来るかも知れない。 いや、実はそうした時代は一部、そこまで来てしまっている。なにごとも、サーバー情報に照らし合はされて、相対化され、 リアルな発現力は、無くなりつつある今日。いまにも増して高度AIにサポートされた情報社会では 、タグづけできない情報の存在度はゼロに等しく、バーチャルの光だけがいや増していくこととなるだろう。

哥座(うたくら)は、オフラインの実作を基本としている。いまの統一情報基準の基では、情報化しにくい「にほひ」・「俤」などローカルな属性概念に焦点を当て、わたくしたち固有の身体軸にもとづいた、身近の先験的韻文空間を探険する。しかし、有無を言わさない「情報革新技術」。この進化と変化速度にそいながら、リアルで獲得した古くて新しい視座を武器に、また、オンライン上でも「情報」の意味を不断に問い直し、リアルタイムに情報技術の根底にある思想を分析していきたい。

やがて、ローカルな属性概念や、匠の技や、なにげな感覚もシナプスレベルで情報化されるだろう。すべて、この世に存在しているもので情報となりえないものはないからだ。しかし、この一点、バーチャルとリアル、言い換えれば情報と具体、あるいは知と存在。この根本関係こそが古代のギリシャでも印度でも中国でも核心テーマであったように、今後も、大袈裟に言えばふたたび文明の最重要課題となる日がやってくるであろう。哥座(うたくら)は、この情報と具体の関係を日本の無文字時代に遡って(実はわたくしたちの心性は、いまだに無文字時代の只中を活きているのだが、そのことを証明しつつ)その無文字時代空間を手懸りに、印欧中の概念に拠らず、固有の文脈、身体を軸にして、いまを野性的に解明してかかるつもりだ。その際、アバンギャルドに対抗するように六十年代に関西ではじまり、モノ派、土方巽、などの流れにつながっていくことになった名前もそのものズバリ「具体運動」。そこへもういちど、光をあててみたい。ポストモダンの代表的運動として、世界へ大きな影響を与えながら、いま情報社会のなかに、ふたたび飲み込まれてしまったように見える「具体運動」。そして「モノ派」から現在への流れ。その曲折の断層面に、問題解明のよいきっかけが発見できるだろうと予感している。たぶん印・中文化を受容した後の飛鳥あたりにも、表記文字化という第一波の情報新時代の波に洗われでた類似断層面が発生しているはずだ。


                         

日本の韻文空間
 
 ふだんからなじみ深い裏手の山や前浜の海など、身近の自然やジブンの身体は、すでに了解済みの「空間」のなかに、疑うこともなく自明に存在している。
  「哥座(うたくら)」では、「こと」「もの」が生成流転しているこの無意識空間を再検証し、未来への視座を見つけていきたい。その方法として先づ、わたくしたち固有の考え方、とりわけ、ことばに内在している固有のロゴスに触れていく。とくに詩歌の韻文に働くチカラを分析、検証していく。韻文空間の座標軸確定に際しては、わたくしたち固有の文体からの発現を待つ意味で、印・欧・中の概念使用はできるだけ控え、いまも普段に使用している古くからの「ことば」や古典の「ことば」自体が本来もっている意味や関係性を最大の手掛りにしていく。万葉集はじめ、多くの歌仙の哥、俳諧、詩、J-POPまでのこれら「韻文」は、ながい時の熟成により、先人より受け継いできた身体空間や歴史、自然空間へと昇華され、「わたくしたち」の空間システムの原型となり、具体的な血肉となっている。あるいは逆に、わたくしたち自身をさえ紡ぎだしてくれている。
                 
  どんなにちいさな言語文化圏であろうと、ジブンたち固有のことばが生み出すちからにこそ、智慧の源があり、真の活力はそこからしか生まれてこないことを知っている。インターネットなど革新的情報技術を媒介にした国際化時代にあたって、外国文化を吸収しながら自国文化へいかしていこうとする機会は、飛躍的に増加している。こんな時代だからこそ、いかなる国もまず、ジブンたちのあしもとにはたらく言葉のチカラや法を自覚することが基本となる。内を自覚できないでいては、外を客観的に見る眼差しは生まれてこないし、だいいち、その眼差しにもとづいてこそ成立するべき世界と対話するチカラが湧いてこない。そうなれば違いを認め合いながらの真に深まった相互理解というものもあり得ないことになるからだ。しかし、欧米の論理的思考を絶対とし、その視点へナリスマシ、母国語を廃止して英語にすべきだと考えていたのがこの国の初代文部大臣である。ここまでひどくなくても、宣長が指摘するようにこの国の文化の最大の問題点は、江戸時代からすでに、学者であろうと、庶民であろうと、大部分のひとびとが、母国語の視座でものを考えることができないでいる点に存する。ほとんど病的なその症状は脱亜入欧がいわれた明治期においてさらに進行し、敗戦を経た今日なおも悪化の一途をたどるばかりである。
  当然のことではあるが、独自言語文化圏の詩歌とは、そこに独自の法がはたらく各国精神文化の柱である。そこに、他の一言語文化圏の視点から、軽佻浮薄に比較、判断して、優劣をつけるようなことがあってはならない。おのおのの精神文化は相互に不可侵でア・プリオリな事柄だ。ところが、日本における明治の啓蒙家は、自らの詩歌である和歌を、趣味程度のもの、無用のものだとしていち文学ジャンルへ退け、代って利得思想を喧伝して教育者だということに収まっている。文明開化の第一人者でさえその基礎教養は、漢学(亀井流左伝学)や蘭学に依拠したものでしかなかった。官は、軍国主義的観点から、民は、功利主義的観点から、ともに当の教育者自身が、母国語の視座にたいする基本的自覚さえ持ち合わせていなかったのだ。あの古代中央集権国家のもとに編纂された古事記、万葉集でさえ、外国文字を取り入れるに際しては、訓読みなど、古言(フルコト)を活かすためのさまざまな努力工夫をほどこしてきたというのに。
          
  由々しきは、明治期の粗雑な精神をいまだ継承し続けている現在の教育・研究機関であろう。官民問わず、大部分の組織がいまなお、すべての学問の前提としてある母国語に於ける視座という大問題を棚上げにして、明治期の効率優先主義の悪しき伝統そのままに、翻訳概念にもとづいた空論を展開しつづけている。そんな卑近な例には事欠かないが、ひとつは、戦後日本の代表的教養主義者による「俳句第二芸術論」である。その独白から伝わってくるものは、母国語ではなく欧米という一言語文化圏の視座からみた芸術・学問・概念・論理が唯一普遍的なもの、国際的なものであり、どの言語文化圏にも適用できるという盲目的信仰告白である。それは中古以前に起源をもつ日本の風土病、ナリスマシ菌感染病患者の典型的症状といってもよかろう。また近々は、欧米研究機関の「知」の再構成を模した動きのひとつの現象として、産学協同での各種プロジェクトが盛んであり、それなりの効果を生んでいるようだ、たしかに、先端的な学術研究の推進と科学技術の発展をはかり、国際競争力を強化し、かつ文化的基盤をいっそう充実・向上させることは大事だ。が、その前の学問成立の必要条件として、母国語に於ける視座のもと、「知」というものの中身の意味をいちどわたくしたち独自のことばに備わるルールにより問い直さなければいけないのではないだろうか。そのプロセスを省いて、環境や、情報、総合政策学などの概念を運用していけば、歴史が教えるように、母国語の法にもとづいた検証のない、イメージされただけの概念運用はいつか必ずや空洞化をきたして、破綻を来してしまう。でも現実は、ナリスマシ族が大手を振ってまかり通っており、その場しのぎの観念的概念を造語しては、自己陶酔的に国内外に押し売りし、カルト教団顔負けに、純朴なひとびとのこころを惑わし続けている。母国語にはたらいている視座を自覚し得ない精神は、結局は、とってつけた翻訳造語観念が空洞化し、そこへ権力が介入、妄想化、暴走したあげくにナチス文庫まで至って自爆した日本の哲学史とあい似た宿命を辿ることになるだろう。
 学問、芸術のみならず、一般の生活レベルにおいても、母国語にはたらく法の自覚がまだできていない(それが国家であれ個人であれ)有能な未来の才能がこうしたナリスマシ教育機関のシステムにマインドコントロールされているのを目撃するのは辛い。愛する人のそんな姿に触れるのは悲しすぎる。
                  
  さいわい、わたくしたちには身近なところにジブンタチの法・ロゴスが十全に働いている和歌、俳諧といったお手本がある。そのなかには、ジブンたち固有で等身大の、欧米でいうところのものとは、また相が違っているが、独自の幾何と、数理、基本的なロゴスが働いている。その視座を基本として欧米自然・社会・情報科学・芸術の意味を批判的に再摂取し得なければ、国際化どころか未来の精神的独立性さえ維持はできないだろう。左記にわたくしたちの言語文化圏にいま求められている未来の学問の、決して十分条件ではないが、必要条件をあげておく。クラシックギリシャ文化にぉける学問には、まず、すべてのジャンルの基本をなす音楽や詩と同等なものとして、幾何学の理解が必須であった、そこで自然言語より厳密な専門的な論理を学ぶ必要があった。当然わたくしたちの言語にはたらく論理法の習得にも、四股を踏み、股割りをしなければ相撲がとれないような、普段の垢にまみれた通俗観念を祓い、意識的な概念構成や常識の意味から離れたところで純粋思考する厳密な修練が要請されてくる。自己視座を養成する自国言語の厳密な訓練もなく、欧米の視座に寄りかかってデスクワークで学問ができたり、芸術が生まれるとの信仰は、明治以降の既存教育システムの限界からうまれた幻想にすぎない。私事だが、従来美学や、舞踏という身体芸術や、モノ派的な現代美術制作にかかわってきた現場経験から、他国文化の視座でいきてしまっている心身をこのマインドコントロールから開放し、母国語という普段のあたりまえの視座へ矯正することが、いかにむづかしく、時間がかかるかを少しは体験してきたつもりだ。
 「とにかくに漢意(カラゴヽロ・ここでは欧米的発想)は、のぞこりがたき物になむ有ける」-宣長。
そこで、自身にも、人にも適用、指導しているのが、いちど従来の学問や芸術から離れ、和歌、俳諧へ専念する期間を設ける方法である。専門家のもとで、厳しく実作指導されれば、ナリスマシの視座がいかに観念的なものであったかを得心できよう。これは、国文研究者とて例外ではない。従来学問の視点から母国語を分析したところで荘子の「混沌」殺しの結果しかでてこない。よっぽどの天才でないかぎり、座のなかで叩かれ、具体的な実作をとおしてしか母国語の視座はひらかれないはずだ。そうして、一年もすれば、ジブン自身の視座の芽がでてきて、従来の芸術・学問における「知」の限界に具体的におもいをめぐらせるようになるはずだ。ただし、インテリゲンチャだと思い込んでいる人ほど専門家に厳しく叩かれることを覚悟したほうがよい。それほど、歴史的にも印度・中国・欧米へ寄生してきたわたくしたちのナリスマシ精神の根は深い。実に、「のぞこりがたき物になむ有ける」。
  なお、ここで和歌・俳諧を古代へのあこがれだけで、無条件に賞賛するものでもないことを断っておく。これらの内にはたらくことばの法が、わたくしたちの心身の深いところでいまなお活き続け、きっとわたくしたちの未来さえ規定していくはずのものだからである。しかしながら、現実の歌人・俳人の大多数は、こうした法が無意識のうちに、いまの日本の舞踏や現代美術の底流をなしていること、さらに、芸術、自然、社会科学を含めた学問にも、その自覚の適用が必要だということには気付いていない。あるいは気付いていたとしても、その適用を端から諦めているかのようにみえる。彼らの多くもまた、結社、歌会の狭いジャンルで棲息しつづけているために、ジャンルが違えばジブンを裏切り、たちまち欧米ナリスマシの視座にきりかわった人種へと変貌してしまうのだ。

  わたくしたちの国の国会図書館ロビーには、プラトンのアカデメイアの「幾何学を学ばざるものこの門をくぐるべからず」という箴言がギリシャ語で堂々かかげられている。いまのグローバル時代にあってはもちろんのこと、どんな時代にあっても、当該の歴代覇権国家が主導する学問なり技術の導入は必要である。しかし、ギリシャ語や中国語、英語、数学語、AI言語で育ってきたわけではない者にとっては、外国言語精神文化を学ぶまえに、母語にはたらく法の体得を先にしたいと考えるのは自然の感情であるはずだ。使い慣れた母語の法の自得とそれにもとづいた科学的独自方法論の確立なくして、世界に通用する創造的ななにかができるというのであろうか。すべての深い思惟と、行為の根拠というものは、どの時代、どの言語文化圏のひとびとにあっても、自らの言語精神に基づかないものはないであろう。まして、なによりもわたくしたちの母語には、人麻呂が誇り高く暗示する「言挙げせぬ国のメタフィジカと、フィジカ」のとんでもない鉱脈が眠っているのだ。他言語精神文化に由来する近代自然科学や、人文社会科学はすべて、こうした母語の力学を自覚し、それを支点にし得たとき、はじめてそこで、わたくしたちにとっての有意味性もまた、あたらしくうまれてくるものと思われる。詩経に当たるべき和歌、俳諧は、一首一句がそのままのかたちで活きた文法である。即ち、そこへはたらく法の自得とそこで独自視座を培うことこそ、アカデメイアの幾何に代へ、わたくしたちが基本とすべき学びなのではなかろうか。

   「和歌、俳諧にはたらく言葉の法を学ば去る者、この門に入るべからず」

                      哥座(うたくら) 美学研究所



ヨコの論理とタテの論理



 ヨコ列文字は、概念の関係式として機能しやすい。それは数式や、欧米自然言語の論理がはたらく空間様式でもある。したがって日本語を概念論理的に表現したければ、概念をヨコならびに関係させたほうが見やすく、組み立ての効率もよいだろう。ただし、その表現ではあとでいうように欧米の抽象表現思想へ仮託したナリスマシの視座からの論理展開となる。しかしそうした欧米論理とは対照的に、わたくしたちのことばの論理には、概念の関係式を演算する意思を、また、その意思の主体をも、つよく排斥しようとするチカラがはたらいている。「てにをは」など、古語の多くは、一音節ごとに、つぎのことばが、先のことばを否定し、また肯定しつつ絡み合い屈折しながら、つねにあたらしい展開を求めて、場を空け、あるがままの世界と一体化を果たすことを第一義にそこへ己を譲ろうとはたらいていく。そこには抽象的視座とその対概念による世界の固定化を忌避することで却って、様態をとわず、あらゆる具体的な存在事物との共生を許容し、即位即妙に、さらに次元の高い自由を求めようとする一回性のプリミティブな「ことば」の法の意志がはたらいている。てにをはという辞によって、主客体の融合を果たしてあるがままの「物」が氾濫継起する出来事の世界のこゑに耳を欹て、同時存在する虫の音や遠い波の音に聴き入る。そこでははじめの機縁となった自己の視座さえ止揚されて、全体世界との一体化が果たされ「言」が「事」となる。このはたらきが「平仮名文字」五十八體の形象に昇華されている。平仮名文字は象形文字の意味やイメージを削いでいってつくられはしたものの、しかしたんに女文字として草書体をさらに崩したものであるという解釈は、一見分かり易い便利な解釈ではあるが、それは表面的で外面的な説明にすぎない。平仮名は列島言語の内部構造から要請されて成った文字である。そこにおける「言」の特徴的なはたらき方というものは、印欧語族の記号文字と異なり、文字を単位として組み合わせて概念を構成しないのである。平仮名文字は、驚くべきことにこの列島ではこれだけ毎日使用する文字でありながら、列島どころか世界でもいまだそのはたらき方の真実が解明されることがなかった未発見の文字なのである。(この日本文字の表記上の特質について「哥座(うたくら)」は、「もの派」現代美術作品の構造本質と絡めながらオフラインで詳細している)。日本語表記文字は縦書きがよいか横書きがよいかという問題も以上の列島言語の文字構造を明らめることで、おのずと結論が出てくる問題である。
        
 洋の東西を問わず、自然言語にはたらく論理と、造型理論にはたらく論理というものは、パラレルに発展していくものである。それもひとえに両者の視座形成が同一の根を持つ独自言語精神に支えられているからだ、西欧の自然言語や近代自然科学は、一点に収束する抽象的な視点をコギトとして措定してきた。一方、伝統的な造型思想はパースペクティブな不在の焦点をもってその視座の起点としてきた。ただし、これら両者の零の視点はあくまで措定された観念であることを忘れてはならない。実在ではなく、非在の抽象点である。西欧とは、その非在の視点から自然を社会を自我を定義し、再構成して組み立てられている文化である。定義内にはたらく論理は定義内の条件に見合うものだけが選別され、その対象へのみ適用される。故に、その論理は近現代社会の欲望を叶えるには効率的なツールとして、その魅惑的な有効性が、世界を席巻してきた。しかし、本論で言及するように、そこにはア・ポリアとしての欠点。つまり、定義条件に見合うものだけを単一選別していかざるを得ない抽象化作用にもとずくところの根本的な弱点が存在している。その他は除外されるのだ。自然科学においても、測定になじむ現象だけが掬われて、その観察対象となるだけである。そうでないと、実験の再現性は不可能になってしまおう。また、パースペクティブ性への反動である欧米現代美術においても事態は同じである。先に観念的な視座に対応したコンセプトありきなのだ。
        
 一方、無文字時代から現代にいたるまで、わたくしたちのことばにはたらいている法は、概念や表象を、そしてそれを生み出す主体の設定・抽象化を一万年以上にもわたって、避けて、ことばを、単なる利便のためのツール以上のものとして、あらゆる存在のこゑに聴き入る起縁のものとしてきた。これはシステマティックに、概念を構成し、そこから意味を演繹しようとする印・中・欧米のことばとは、まるで正反対に位置している視座であり、はたらきである。極論すれば、わたくしたちのことばは本来、漢字という表象文化や造型絵画や、構成音素による閉ざされた表現にはなじまない種類のものなのである。仏像や山水画よりも。李白の漢詩やリルケ、ランボーの詩や、モーツアルトの完成された表現作品よりも、ありのままの無限定さ、砕け散る浪やイマココで鳴いている虫の音のほうがむしろなじむ。
 
 縄文の縄目文様は、表象を忌避してきた証であるが、無文字時代の智慧は、イメージや表象を忌避することで、却ってありのままの世界が受容できることを慧っていたのだ、いまにさえ連続しているわたくしたちのことばの法の核心が、ここに存しているのである。ことばを形象化し、概念化して、世界の意味を閉ざすより、ことばを機縁とし、そこから開かれる一回性の偶発的な自然やひとの心とコラボレーションする方が、わたくしたちのことばの法に適っているのだ。
        
  IT時代の今日、
わたくしたちののことばの仕様は、ヨコ列がよいのだろうか、タテ列がよいのだろうか。情報技術の浸透で、パースペクティブな観点が一般化してしまったように思えるこの時代、日本語をヨコ列表記にすることへの抵抗感は薄らいでいる。しかし、屈折しながら微塵のモノ・コトへも共感し、瞬時の「物」の音を聴きとり、あるいは先程までの静寂が、たった一音のことばで破られたと同時に、森羅万象がたちあがってくる。そんなダイナミズムに身を任せようとするこの「物」「言」の垂直力学は、なにより貫之がシステムアップした平仮名文字にみられるように、列島言語の「言」のはたらきからきている。この造化のはたらきにしたがって日本文字の歴史記述は、天を受け地へとつづき曲折変容しては、とじ目を結ぶという縦の流れの表記を重ねてきた。そんな個別の歴史を無視し、欧米言語と系の異なる列島言語をエクリチュールなど近代思想のキーワードで一括りにし、それを解析コードにして抽象的視座へ読み換えて解釈しているのが現代においても言語学の主流である。そこで縦記述とは権力的な記述法のひとつであり横記述もおおいに推進すべきだとして断定するようなことは、明治以降、欧米学説にすべての規範を求めてきた日本アカデミズムの専横である。それはふたたびの現代儒学であり、そこでもたらされた結論は自己保身にさといソフィストたちの無意識裡に権力におもねた結果が招いてきた幻想である。オフラインで証明しているが、列島言語は音素という単位に還元不可能なものであり、欧米言語学のように言語を対象化して再構成化すれば事足りるというものではない。


                    哥座 美学研究所

   
                    YU HASEGAWA

   
     
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